第12話
寳月亭は町の中心部から少し離れた場所にあり、広大な土地に建っている大きな建物という旅館ではない。
建物自体は年代ものではあるがこぢんまりとした佇まいであり、従業員も少なく、一日に多くても5組程度の客をこなすのが精一杯の旅館である。
そんな旅館の自慢は離れの宿泊施設。
本館のさらに奥に作られている平屋で2部屋があり、専用の露天風呂やトイレ、必要なものすべてが完備されている立派な離れだ。
当然ながら価格は本館よりも割高だが、登紀子はせっかくだものとこの離れを予約し長期滞在することにしていた。
以前泊まった本館から、小川にかけられている小さな橋を渡って離れにたどりついた登紀子はほぅと感嘆の息を吐き出す。
毎日の暮らしとも違い、ホテルに泊まるのとも違う。
全くの別世界がそこにはあり、部屋から窓をあけて縁側に出れば、苔生した庭の静かな空間が気持ちを落ち着かせてくれた。
「以前は障子だけだったんですけどね、少しだけ改装して窓ガラスを入れたんですよ」
大きく深呼吸している登紀子の背中から皐月が女将らしく声をかけ、振り返った登紀子に施設の説明を始める。
自分が覚えている同い年くらいで、自分を叱り付けていた皐月はそこには居らず、静かで落ち着いてしっかりと女将の仕事をこなす皐月がいる。
何だか少しこそばゆい気持ちが湧き上がってきていたが、皐月の説明に耳を傾けた。
「わからないことがあれば何でもこの子に聞いてくださいね」
女将の仕事は思っているよりも大変なようで、少し世間話でもと思っていたが皐月はごめんなさい、また時間ができたらと自分の仕事に戻っていった。
「どうぞ」
窓から、本館の方へ足音をそれほど立てずにすばやく移動していく皐月の姿を見送っていた登紀子は、その声に座卓の方へ視線を移す。
皐月の娘が綺麗に正座をして、入れたばかりのお茶を差し出していた。
「女将の娘さんだったわよね、名前はえっと……、如月、あら苗字しかないわ? 昔はフルネームで書かれていたのに」
登紀子が名札を見ながらそう言えば、皐月の娘は少し微笑んで名札を見つめる。
「二年前に変わったんです。個人のフルネームをつけるのは良くないんじゃないかって事で、名札は苗字だけにしようって決まって。私は如月水月っていいます」
「あら、そうなの。それにしても水月さんはしっかりしているわね。うちの娘とは大違い」
「しっかりなんて。怒られてばかりです」
水月はため息混じりにそういって、すぐにはっとしたようにすみませんと謝る。
どうしたのかと聞けばお客様なのにと言い、登紀子はあぁなるほどと頷いて座布団に座り、いれてくれたお茶を一口飲んだ。
「やっぱりしっかりしているわ。怒られたことを守ろうとしているもの」
登紀子の笑顔に少々引きつったような笑いを浮かべながら、水月はため息混じりに「でも本当に怒られてばかりで」と呟く。
その呟きに小さく笑った登紀子に水月はもう一つため息をついた。
登紀子の笑いが呆れられた笑いだと思ったからだったが、それを読み取った登紀子が否定する。
「ごめんなさい、別におかしくて笑ったわけじゃないのよ。叱ってくれる人が居て、また叱られたほうもそれを受け止めて、きちんとしようとしているのが微笑ましいし、うらやましくてね」
「うらやましい、ですか?」
「えぇ、怒ってくれるっていうのは良い事よ。だってそれだけ貴女の事を買っているってことだし、愛されているってことだもの」
登紀子の言葉に水月は少し首をかしげた。
愛されていないというわけではないが、特別愛されているなど思ったことも無かった。
商売が商売だから人が休みのときほど働くという仕事。
休みにどこかに連れて行ってほしいと思っても連れて行ってもらった覚えは無い。
他人の世話ばかりで自分はかまってもらった覚えが無い。
さらに今は人一倍叱られているし、毎日そんなに自分は駄目なのかと落ち込んでいる。
だから登紀子の言葉をすんなり「そうですね」と受け入れることはできずに思わず「そうですか? 」と聞き返してしまっていた。
「そうね、叱られている最中の立場からみればそんな風には思えなくて当然でしょうね。でも、本当に駄目だと思われていたらきっと叱られることもないわよ。私だったら完全に無視をするだろうし、いくら本人がやりたいといったとしても、この旅館の手伝いすらさせないわ。憎らしいと思っていたらたぶん手が出ているでしょうし」
「そう、なんですか。そんなこと考えたことも無かった」
「叱られているときはわからないものよ。私だってそうだったもの。そうね、それがわかるのは自分が叱る立場になったときかしら。子供を叱っているとねぇ、あぁ、私もそうだった。なるほどねって思うのよ」
何かを思い出したかのように笑う登紀子を眺めながら、水月は少し口元に笑みを浮かべる。
この家に帰ってきて、旅館の仕事を手伝うようになってから娘であろうとなんであろうと平気で従業員の前でも怒鳴りつけられ、自己嫌悪と母親に対する怒りのような感情に、心が疲れているような気がしていた水月。
しかし、なぜか登紀子の言葉で一気にその感情が溶けたような気がして思わず微笑んでしまった。
その様子に登紀子は思わず「良い子ね」と呟き水月は照れたようにうつむいて深く頭を下げた後、正座をしたまま少し下がって立ち上がる。
皐月にずいぶん仕込まれているのだろう。
流れるようなその動きから目を離さずに居れば、入り口へと続く障子の前に再び座って障子を二度に分けて開き、するりと体を向こう側に移動させると両手で障子を持ってほんのわずかに頭を下げた。
「ありがとうございます。私、頑張ります」
「ほどほどにね、あまり頑張りすぎても疲れるだけよ」
登紀子の言葉に小さく頷いて、水月はゆっくり障子を閉め、足音をほとんど立てないでその場を去っていった。
水月が入れたお茶を飲みながら外の景色を眺め登紀子は、
「なんて、逃げてきたくせに偉そうね。私ったら」
とため息混じりに呟く。
永い時を感じさせる苔むした岩の陰からアマガエルの鳴き声が響き始め、晴れていた空に少し雲がかかり始めた。
夕立かゲリラ豪雨か、先ほどまではこの時期にしては少し暑さが感じられるほどの晴天だったのに何かしらの天気の急変がありそうな空。
「向こうも雨が降るかしら? 真由美が洗濯物入れてくれてればいいんだけど」
畳に手をついて窓の木々の間から見える少し日がかけ始めた空を登紀子は心配げに眺めていた。
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