第4話
つながらない、それを思っていても相手が同じように思ってくれなければ理解もされないし、改善も無理。無理なものは求めない、そう頭で理解して、飲み込みながら流れる時間に任せるように日々の家事に没頭する。
新聞の折り込み広告を見たのはそんなときだった。
登紀子はいつも通り夕食の片づけを済ませて決心するように小さく息を吐き出してから、戸棚にしまっておいた広告を取り出し、ソファーに体すべてを預けてテレビを見ている清史の隣に腰を下ろした。
「ねぇ、あなた」
登紀子の声が聞こえているのかいないのか、清史はテレビの方に顔を向けたまま首も動かさずに瞳だけを登紀子へと動かす。いつものことであったので登紀子はそんな清史の態度を気にすることなく話を始めた。
「今度、時期はいつかわからないって言っていたけど、今まで使ってなかった有給を使って連休なんかに休めなかった休みをまとめて取るって言っていたでしょ?」
「あぁ、そのつもりだが。それがどうかしたのか?」
「その時期なんだけど、七月の終わり頃はどうかしら? ちょうど真由美も夏休みになるし、確か部活の合宿は八月に入ってからのはずだから家族三人で久しぶりに家族旅行したら良いと思うの。もう何年も旅行なんて行ってないし、貴方はもし今度休みをもらったら次にまとまった休みがもらえるのは何時になるかわからないでしょ? ちょうどね、広告がでていて。ほら、この場所。懐かしいでしょ?」
登紀子は瞳だけをこちらに向けてくる清史の視線の先に新聞の折り込み広告を差し出す。清史は視線の先にある広告を手に取ることもなく、流し見た後視線をテレビの方へと向けた。
「大分が懐かしいって何かあったか?」
「二人で始めて旅行した場所じゃない。その後真由美を授かって」
「そうだったか? で、そこに旅行するって言うのか。わざわざ休みを使って」
「だってもう、何十年も旅行なんて行ってないじゃない? 旅行が楽しければ真由美もあんなにずっと不機嫌で居ることもなくなるかもしれないし、何より家族でそろって出かければ気分転換になっていろんな話が出来るじゃない。それに、私も羽を伸ばしたいし」
ふふっと嬉しそうに微笑みながらチラシをもう一度眺めた登紀子。
日々の家事が嫌というわけではないがたまには専業主婦という仕事をお休みして、久しぶりの旅行を楽しみたいと思ったのだ。しかし、その耳に聞こえてきたのは大きなため息。
「今更家族で仲良く旅行って、そんな年じゃないだろ。それにおまえなぁ、俺は休みなんだぞ」
「えぇ、わかっているわ、だから……」
「毎日毎日働いて、人が休みの日まで働いて、やっと取れる有給の連休にどうしてお前や真由美なんかと旅行しないといけないんだ」
「真由美なんかだなんて。家族で行くのよ、何の気兼ねもないじゃない。いつもと違う環境で開放感も出るし家で鬱々して居るよりずっと良い気晴らしになるでしょ」
「あのなぁ、休みは休むためにあるんだ。何が羽を伸ばしたいだ。毎日毎日俺と真由美がいなくなったら存分に伸ばしているだろ。真由美は学校で勉強があるし、俺は仕事。それに比べてお前は毎日が休日で、暇で気楽な日々を送っているんだろう。でもな、俺は違うんだ。お気楽な仕事のない主婦と俺を一緒にするな」
大きなため息をつきながら何気なく言った清史の言葉に登紀子はじっと広告を眺める。自分の耳に聞こえた清史の声が頭の中で反響し、それがなかなか浸透していかないことに戸惑っていた。
しかし、登紀子の戸惑いとは裏腹に清史の言葉は更に続く。
「時間がたっぷりある専業主婦はいいよなぁ。どうせ、昼間なんかも菓子を食いながらごろごろしてテレビでも見ているんだろう。だからそんなにでっかい体になっていくんだよ。近所の児島さんの奥さんを見習ったらどうだ。主婦もやって働いて、すらっとして美人で。俺は児島さんの旦那がうらやましいよ」
やれやれと肩に手を置き、首をひねりながら清史はテレビを消してその場を離れた。
登紀子の耳に風呂場のドアが閉まる音が聞こえていたが、登紀子はその場から動くことができなかった。
じんわりと、広告を見つめる視界がゆがみ、はたはたと涙が広告に落ちる音が小さく鳴っている。
自然とこぼれていく涙がいったい何に対してのものなのかも理解できない登紀子の背中からは「おい! 石鹸がないぞ、石鹸が」と催促する夫の声が聞こえてきた。
両肩に誰かが覆いかぶさっているように体が重く、胸が締め付けられるような感覚に登紀子は鼻から空気を思いっきり吸い込んで口から吐き出す。
「石鹸はいつものところですよ」
そう言ったがその声に対して何かの行動があることはなく、苛立ちが混じった清史の「旅行だ何だと浮かれてる暇があるなら主婦業ぐらいちゃんとやったらどうだ。おい、早く石鹸! 」という命令が響いていた。
清史の言葉に返事をすることなく洗面所に行き、いつもの場所にストックしてある石鹸を一つ取り出して風呂場の扉の隙間から催促している手のひらに受け渡す。
石鹸の場所を変えたわけではない。とろうと思えば自分で取れるはずのことも登紀子は命令されてやらねばならない。大きな音を立てて閉められた浴室の扉の向こうからはいまだにブツブツと文句が聞こえてきていたが、登紀子は重い体を引きずるようにしてリビングへ向かい、ソファーに腰掛けてテーブルに置いた旅行の広告を眺めた。
「あぁ、私はいったいどうしてこんなことをしているのかしら」
自然と意識せずに登紀子の口から漏れ出したのは自分自身への疑問だった。
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