第42話 [カショウ]人間の形

シオが戻ってきたすぐ後、スムも俺たちの部屋に顔を出した。


「いかがでしたか?今日のものはヴァーヴを使わないワークでしたが、わたくしどもにとってとても大切なワークです。一番と言ってもいいかもしれません」


「いやぁ、なんかじんわりきたねぇ」

オンダは唸るように言った。


あれはずるい。あの空気では、誰だってつられて泣く。


「ああやってみなで集まって行うことで、感情の共鳴が起き、よりスムーズに心のデトックスができるのです。もしもう一泊されるのでしたら、ヴァーヴを使ったワークもご覧に入れられるのですが……」


そうだ思い出した。オンダが、僧銀山についてはスムに訊けと言っていたことを。


「ところでスムさん。さっきの、僧銀山の麓についてなんだが……」


スムは戸惑う様子を見せた。


「いちおう俺からも、過激なやつらがいるって話はしたんだけど……」

オンダが適当なことを言った。そんな話、聞いてないぞ。


「わかりました。ご説明しましょう。少し専門的な話になりますがよろしいでしょうか」


「はい」


「わたくしどもの世界では──あくまでもわたくしどもの理論で、信じるか信じないかはおふたりにお任せしますが──観念があらゆるものの形を作ると言われています」


「観念?」


「はい、固定観念などの観念です。たとえば、人間のあかちゃんは人間の形をして生まれてきますわね。それは人々の観念の中に、人間のあかちゃんはこういうものだという観念があるからです」


「ふむ」


「そしてあかちゃんは、周囲から愛情を受けたり、教育やその社会におけるモラルや常識、あるいは社会通念と申しましょうか、そういったものを受けて、内面的にもより人間的になります。そして生きる中で、理不尽なことも経験します」


「まあこのへんはわかりやすいね」

タバコをふかしながらオンダが合いの手を入れる。


「そしてそれらすべてが、その子の観念を作ります。そして、人間という種全体に共通する観念が補強されていきます」


「人間とはこういうものだ、というのが固まっていくということですかね」


「その通りです。しかしその観念の中には、本人に合わないもの、または時代遅れになったものがあります。それはその人の自由を奪い、苦しめます。周囲から刷り込まれた観念が自分に合ってる場合はいいのですが、合わないものが多いと、その人は苦しみます」


「ふむ。まあ何となくわかるねぇ」


「その子が持って生まれた魂の傾向と、後天的に刷り込まれた観念の傾向が違う場合、その子はそのふたつの間で苦しみます。たとえるなら、本来の自分と、周囲によってつくられた後天的な自分のふたりが存在してしまい、一方に合わせると、もう一方が違和感を感じることになります。このあたり、おわかりになりますか」


「なるほど。いや、なんとなくわかりますよ」


「そのような場合、観念の整理が必要になります。話が少し戻りますが、大人たちは、その子を人間の形に留めておくために、とりあえず出来合いの観念を植え付けます。たとえば、高いところは危ない、車は危ないといった観念を差し込んでおかないと、その子は事故によって死に、人間というかたちを失うかもしれません。だから取り急ぎ、出来合いの観念──社会通念や教育──を植え付けるわけです」


「なるほど」


「そして観念の整理とは、その取り急ぎ差し込まれた出来合いの観念の中の、不要なものを取り除く作業です。さきほど申しましたふたりの自分のうち、どちらかが違和感を持つ場合、それは不要な観念である場合が多いです。なのでそれを捨てたり、好ましいものに書き換えたりします。それが観念の整理です」


「なるほど。実際のところはわからないが、理屈としては面白いですね」


「ええ。そしてわたくしどもの美の谷でも、この“観念の整理”をします。わたくしどもの場合は、各人が持つ美感、美学に沿って整理していきます。美という指標、あるいはコンセプトがあるので、さほどめちゃくちゃになることはありません。ところが」


「ところが?」


「僧銀山の麓の、“外しすぎた人々”は、この観念を無節操に外すのです!もう出鱈目に!オンダ殿の言うように、ある種の過激派なのです。実験のつもりなのか、何なのかわかりません。ともかく手当たり次第に外していく。そうするとどうなるかわかりますか?」


「ふーむ。人間じゃなくなっちゃうかもしれないね」


「そうなのです!人間の形、人間の枠というものを、大きく壊してしまうのです。それは自由という意味では悪いことではないかもしれません。しかし、アウトミラーをひとつの共同体と捉えた場合、非常に悩ましいことになります」


「あいつらは薬とか、あらゆる精神作用のある道具を無節操に使う。それにエアーフィルの影響を受けたアウトミラーのこの環境が重なって、まあすごい変化だよ」

オンダが補足した。


人間という概念を超えた存在。人間の形が壊れた存在……。


「元々はどんな人たちだったんですかね、その集落を形成したのは」


「一説には頭脳都市から流れてきたとも聞くね。あいつら忙しいから。むしろ時間中毒だな。自ら好んで、分刻みで行動してやがる。いわゆるワーカーホリックだな」


「忙しいのと何が関係あるんだ?」


「つまり、やつらの子どもは、物質的には何不自由なく育つが、誰からも愛情をかけられずに育つ」


「愛情を知らなければ痛みも知らない。だから自分に対しても他人に対しても、めちゃくちゃなことをしてしまえる。だけど、言葉にできない不足感のようなものは感じているのかもしれませんね」


「もちろん、頭脳都市のやつらがみんながそうじゃない。本人の資質もあるだろうし。あと、麓のやつらの中には、そんな連中に心や人間の尊厳を奪われたやつが合流してるとも聞く。つまり、自分を傷つけたやつに同化するわけだ」


ふと横を見ると、シオが青い顔で固まっている。


「幸い、みなさんはヴァーヴをお持ちなので、最悪の事態は回避できるのではないかと思いますが……。それでも、くれぐれもご注意ください。何を目にしても、すべて幻想だと思って忘れることをお勧めしたいと思います」


「実際のところ、この世界は幻想だしな」

オンダはタバコをくゆらせてまた適当なことを言った。


「この世は幻想って?」

シオが食いつく。


「ん?まあ、お釈迦さんも昔から言ってるだろ、色即是空とか唯識がどうとか。そーゆーやつ?」


「言いかけたんなら最後までちゃんと説明しろよ」


「いや、ふわっとはわかるんだけど、スムみたいに理路整然と説明するのは、俺ムリ。ニュアンスで受け取ってくれシオくん」


「えー」

シオは不満の声を上げた。


「こいつはこういうやつだ。諦めろ」


「それでは、わたくしは明日の準備がございますので、ここで失礼させていただきます」


そう言って立ち去り際、スムはオンダに、何やら目で合図を送った。オンダはかすかに頷いた。


「しかしなぜ、彼らに酷い目に合わされた人たち、人間としての尊厳を奪われた人たちは、彼らに合流するのですか?」


シオが少し前の話題に巻き戻した。


「それはつまり、“人間としての尊厳”という観念のない世界に身を置いたほうが楽だからだな。逆に、“人間としての尊厳”という観念が存在するコミュニティでは、それを奪われた自分という存在が浮き上がってしまい、そこから目を逸らすのが難しくなる」


珍しく、オンダはまともな回答をした。


「人間の心や観念を捨てきって、ダークサイドに落ち切ったほうが楽って感じですか?」


「ダークサイドにはダークサイドなりの観念なり信念があるからな。もしかしたらそれよりもっと厄介かもしれん。どちらかというと、無邪気にトンボの羽を毟って喜ぶ子供に近いかもしれんな」


子どものように無邪気で残酷な、人間の形を留めない存在。しかもアウトミラーの特殊な環境のせいで、その内面が外見にも反映される。シオは言葉を失ったようだった。


「ところで、イシロウのやつ出家してたとはなぁ。昔から何考えてるかわからんやつだったが」


「あいつの場合、山より麓のほうが合ってそうな気はするよね」


「ぶっ飛んでるもんなぁ、あいつ」


「イシロウさんもその、昔の仲間なんですか?」


「そうだよ」

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