第34話 [オンダ]スムの恋

「何十年ぶりかしら。またこうやってお話しできるなんて……」


中庭の上の、四角く切り取られた空には、煌々と月が輝いていた。月を見上げるスムの瞳も、きらきらと輝いていた。俺たちは回廊に腰掛け、宴での話の続きをした。


俺の住居と彼女の集落は、ミラー0002のあっちとこっちだ。一日歩けば、合えない距離ではない。しかし物理的な距離以外の何かが、再会を阻んでいた。


その何かとは、たぶん俺の中にあった。俺は自分の中に深く深く沈みこんでいた。


俺は彼女と会ったのは、カショウとともに、“あの戦い”を終えた後だった。俺は完全に自信喪失していた。カショウの能力を目の当たりにして、自分の無能さも目の当たりにした。


俺は母親のことや、そんなこんなで、ミラー都市なんて華々しい場所に移住する気分にはなれなかった。原生林に囲まれた、古びた家のほうがお似合いだ。


そんなとき彼女に会った。俺はちょっとしたことで、彼女を助けてやった。


彼女は今と違い、素朴な感じのする女だった。年齢は今の彼女の外見と同じ40くらいだったはずだが、同じ40代でも、まったく違う種類の40代だ。伏し目がちで、俺と同じように自信を失っているようだった。


その“ちょっとしたこと”で、彼女は俺に好意を持ってくれたらしい。しかし俺はその好意を受け入れることができなかった。俺はどん底だった。自信を失い、自分の内側へ深く潜ることで精一杯だった。彼女は去るしかなかった。


やがて風のうわさで、彼女が美の谷の長になっていたことを知った。元気でやってるらしい。俺の心に少し光が差した。


そして何十年ぶりに、こうやって再会する時が来た。俺からスムに連絡を取った。今回の件でサタから連絡を受け、カショウたちのために宿を手配するという口実だった。


「オンダ……?」


気取ったところのない、あの頃のままの声が聞こえた。その声を聞いたとき、ずっと重石のように心を占めていた何かが溶けはじめた。


正直言うと、あの素朴だったころの外見のほうが好みだ。今も今で悪くはないが……。この月の光の下では、ときどき昔の彼女が顔をのぞかせた。


「行ってしまわれるのですね、せっかく再会できたのに……」


「まあ、たかだか数百キロの距離だ。大したことない」


「はい。それに、今回のことはすべての谷にとっての希望でもあります。アウトミラーは少し分散が進みすぎましたから……」


アウトミラーが誕生して数十年。人々はそれぞれの信念に従い、信念のもとに集ううちに、集落単位での分散化が進んだ。つまりそれぞれの文化の独自性が強くなりすぎて、ここ数年は違う異形谷同士の交流が難しくなりつつあるのだ。


それでもそれぞれの人が満たされているならそれでいい。スムのこの美の谷のような、何かしら前を見ることができる人々は問題ない。しかしその一方、どんどん孤立し、過去から抜け出せず、悲しみや苦しみを増幅しようとする人々の谷も存在する。


スムはそのことを懸念していた。スム自身も過去に傷を持った女だ。それゆえ、そういった過去から抜け出すことができずにいる人々を、なんとか救いたいと願っていた。しかしこれ以上分散が進むと、それも叶わなくなってしまう。


「痛みや悲しみに浸るのが本望だと思う人だっています。その方々については、わたくしどもの出る幕はございません。しかし、過去から抜け出たいと願いながら、それが叶わない人々もいる。何十年も。わたくしはなんとか、そういった人々のお手伝いをしたいと思っています。過去の私のような人々を」


傷があるのは俺も同じだ。スムの言う意味はよくわかる。しかし、こちらの思いだけで誰かを助けるのは、時に誤解を生んだり、さらに相手も傷つけることもある。放っておくのも優しさじゃないか?


俺は心の中で密かに、そんな自分の考えを巡らせていた。スムは話を続けた。


「しかしわたくしが直接出向くわけにはいきません。もう誤解されてしまいましたから……。誤解された理由も、今ならよくわかります」


闇に浸りきっているとき、光を直視することはできないのだ。光ほど苦痛に感じるものはない。それほど自分がみじめなことはない。俺にはそれが痛いほどわかる。


「だから彼らが希望なのです。彼らなら、互いに先入観のない状態で交流できるでしょう。あなたのように、どこにも所属しない人間も、警戒されることはないでしょうし」


スムは美の探究の際、ある啓示を受けていた。近い将来、トリガーとなる出来事があると。トリガーとは、スムの懸念を解決に向かわせるを意味した。そのときになれば、それがその“何か”だと直感できると。


「あなたから連絡をいただいたときはまだ、それがそうだとは気づいてませんでした。その……、舞い上がってしまって……。でもその後ゆっくりと、わかってきたのです。トリガーが引かれつつあると」


つまり、彼らの来訪がその“トリガー”だと彼女は悟った。


「本人たちは気づいてなさそうだが」


「はい。特にシオ様は。カショウ様は、もしかしたら何か理解しつつおられるかもしれません。しかし、おふたりにご自覚があられようと、そうでなかろうと、流れのままに、起こるべきことが起こってくるでしょう」


夜が明けるころには、過去と今、ふたりの彼女はひとつに統合されていた。ここに着いたとき俺は、いつ死んでもいいと言った。しかし再び彼女に会うという目標を持つのもいいかなと思った。

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