第31話 [シオ]進化論と自由意志
道すがら、カショウはミラー都市の外、つまりアウトミラーについて教えてくれた。
住む場所や環境が違うことで、その人の精神の在り方まで変わる。文化も変わる……。
ミラー都市という、社会通念を同じくするエリアの内と外。エアーフィルという、環境を安定化するシステムの内と外。一定の精神性、一定の環境、その内と外……。
ミラー都市内も、精神的な窮屈さを感じることなく、多様性が発揮される場所だと思っていた。だけどその外側は、さらに枠のない世界であることを、僕は初めて知った。
ただ、ひとつ引っかかるのは、アウトミラーの人たちも政府の安定剤入りの食料を食べているはずだ。ミラーの中と外では効き方が違うのだろうか?僕はそこを不思議に思った。
「精神の在り方が大きく違うと、薬の効き方が違ったりするんですかね?」
「わからん。オンダに訊いてみろ。また会う機会があれば」
しばらく間をおいて、カショウはこう切り出した。
「ただ、政府がアウトミラーを黙認するのは、そのへんの理由もある」
「どういった理由ですか?」
「つまり、自発的な実験場としてのアウトミラー、そこで何かが起こるのを静かに観察している。その、薬の効き方なんかも含めてだ」
アウトミラーの概念は掴むのが難しい。僕たちの社会通念を外した世界。カショウの言葉を借りれば、全く別の観念体系の世界。こういうのを形而上と言うのだろうか。掴みどころがない。
「要するに、昔はエアーフィルもミラー都市も存在しなかった。だからエアーフィルやミラー都市の内と外という概念は、今になって初めて存在する」
そりゃそうだ。だけどカショウはそれを、もっと深い意味で僕に伝えようとしていた。
「エアーフィル内、つまりミラー都市内は、政府によって管理コントロールされた世界だ。一方その外は誰のコントロールもない。たぶん、文明が生まれて以降、初めての形式で、人が解放される場所ということになる。政府はそこで起こる偶然を観察したい。なぜならまったく新しく、まったく予想外の何かが起こる可能性があるからだ。ミラー都市内では、規制があってできないことでも、アウトミラーならできる。そのために自由な活動を黙認している」
確かに、今まであり得なかった特殊な環境ではある。しかもアウトミラー人は自らそれを選択している。誰にとっても不都合がない。
「いわば無法地帯だな、クナフも栽培できるし」
「そのわりには、あんまりトラブルを聞きませんね」
「ミラー人から見えないだけで、祭祀に生贄が捧げられたりしてんじゃねぇの?しらんけど」
そんな発想をするカショウのほうがよっぽど乱暴で野蛮だと僕は思った。
「量子コンピュータの中は、絶対零度に保たれているらしい」
量子コンピュータ?それが何か関係あるのだろうか。
「その絶対零度の環境でしか起こらない事象──超電導状態とか0と1の重ね合わせ状態と言うらしいが──があり、それで量子コンピュータはあの処理速度を実現しているらしい」
「0でもあり1でもある状態ってやつですよね、よくわかんないけど。それまでのコンピュータは二進法だったのに、そこが根本から違うんですよね」
「そうだ。要するに、環境が変われば、おれたちが子どもの頃習った算数でさえ覆されるようなことが起こる。政府はそれが、アウトミラーのような初めての環境で起こることを期待している。つまり、エアーフィルがその外側の環境に何らかの影響を及ぼすことを政府は期待している。もしかしたらその影響はすでに確認済みかも知れんが」
「ウイルスや汚れた空気の悪影響だけじゃないってことですか?」
「それがネガティブなものなのかはわからない。ただ、環境を変える何かがあることを、期待してるはずだ」
もしかして、人体実験?僕はここにいるのが怖くなった。
「大丈夫だ。オンダもああやって生きてたわけだし。ただちょっと頭がおかしくなる可能性はあるが」
だけど確かに、列車では不思議なことが起きた。車両の順番が変わったり、温かいコーヒーがあったり……。そういえば、次元が混濁しているという話もあった。エアーフィルの外は、時間の進み方、空間の広がり方、物事の起こり方、そういったすべてが普通じゃない?
「あと、アウトミラーには共通する信念みたいなものがあってだな、俗にテナガザル理論って言うんだが……」
テナガザル理論?
「学者の間ではラマルキズムと呼ばれていて、ぶっちゃけたいていの学者からは鼻で笑われる類いの進化論らしいんだが」
カショウは一瞬ためらった。話の流れから、ためらう理由は何となくわかったが、僕は話が進むことを希望した。
「やつらが言うには、テナガザルは、より楽に生きるために手が長くなることを望んだ。その願いが遺伝的変異をもたらして手が長くなったと。そういう理屈らしい。オレは進化のことは知らんが、アウトミラー人はこの理屈を信じてるやつが多い。理論と呼べるようなものなのかもようわからんが」
「つまり、望んだ通りに変化するってことですか」
「種の保存のためとか、合理的だからとか、そんな理由じゃなく、自分がそうしたいからそうなるんだと。動物にそんな思考や感情があるのか知らんが」
種全体のためでもなく、合理性のためでもなく、自分がそうしたいから。
とてもおもしろくて魅力的なコンセプトだ。本当かどうかはともかく、みんながこのテナガザル理論を好む理由がわかる。
「サタの好物だな、こういうのは。女も、かわいくなりたいと思えばかわいくなるんだとよ」
それは努力がともなうからじゃないんだろうか?それとも、努力が遺伝的変異をもたらす?
「だけど、その願望は、自ら願ってるのか、神様や自然の法則みたいなものに願わされてるのか、そこはわかんないですよね」
僕はときどき、自分に対して問うことを、テナガザルにも問うてみた。(カショウがテナガザルという意味ではない。)
「自由意志の話か。オレの不得意分野だ」
「もし種の保存のためでも、合理性のためでもなく、自然の法則によってそう願わされて変異してるとしたら……」
「悪くない推論だな」
カショウ的には、テナガザル理論よりも、そこから自由意志を差し引いたこっちの理屈が好みのようだ。僕個人は、そこに(神の意志でも自然の摂理でもなく)個の選択権あって欲しいのだけど……。
「ともかく話を戻すと、これから行く異形谷のやつらもそんな実験に特化した種族だ。それぞれ自分のなりたい形態に姿を変化させている」
「え?」
「一応、人型は留めているから安心しろ」
これまでのカショウの話をまとめると、量子コンピュータのように、環境が数学などの法則性さえ変えてしまい、心のあり方、特に願望が、環境や体などの物質的なものさえ変えてしまうということになる。
ヴァーヴで心を測るのが重要なのはそのためかもしれない。ミラー都市の外では別の法則が働くかもしれないからだ。自分の内面だけは、自分でコントロールすればある程度安定が保てるのかもしれない。外的世界からのフィードバックももちろんあるけど(それにさっきの自由意志の話もあるけど)、ひとまずここは、そう信じないと話が進まない。
そういえば以前サタさんが、多くの人の意識がコロナを生んだと言っていた。今日の話は、それと同じ事象をまた別の切り口から理解させてくれた気がした。
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