第28話 [カショウ]不食神

オンダはオレたちを囲炉裏のある板の間へ招き入れた。中央の鍋はぐつぐつと音を立てていた。


「おお~」

シオは感嘆の声を上げ、目を輝かせた。


「囲炉裏なんて初めてだろ?兄ちゃん」

オンダは満足げだ。


「どうやって調達したんだ」

鍋やその他、豪勢に並べられた食料について訊ねた。


「いや、アウトミラーの人間だって、生きる権利は保障されてる。政府だって鬼じゃない、表向きはな。食べ物くらい恵んでくれる。俺は食わんがな、ハハ」


どの皿からも湯気があがっている。わざわざ温めてくれたらしい。


ちなみにミラー都市の外の人間は、自分たちのことをアウトミラー人などと呼ぶ。“Outside mirrors”の意味だ。


オレたちに食事を促しながら、オンダはタバコを吸った。


「いやー、俺もな、昔は食ってた時代があるんよ」


始まった。この話は何度となく聞いた話だ。後はやつに任せ、オレは食うことにした。


「30を越えるまで、ここで親子3人で暮らしてた。俺は父さんが大好きだった」


彼はふと、「煙いか?」とつぶやき、タバコを消した。オレたちに気を使ってくれたらしい。できればタバコのにおいのない中での食事のほうが好ましいのでありがたい。


「俺が30代も半ばを超えたとき、父さんは死んだ」

そう言って、彼は新しいタバコに火を着けた。


ん?さっき消してくれたのは何だったんだ?そう思ったが、黙って続きを聞くことにした。


「母親があるとき新興宗教にハマり、ベジタリアンになった。動物を食うと魂が汚れて天界に行けないんだと」


シオは食事をしながらも、真剣に聞いていた。


「まだ子どもだった俺と父さんは戸惑った。本人だけならまだいいんだが、俺たちの食事からも肉や魚、卵が消えた。学生時代、腹が減ってパンを買って食っていた。そしたら母親が来て、原材料を確認した。乳製品が入ってると知り、俺からパンを取り上げた。添加物もダメだ。だからやつは調味料さえ自分で作っていた」


板の間のそこここにタバコの煙が漂い、ゆっくりと形を変える。久しく見ない光景だ。そのひとかたまりがこっちに流れてくる。オレはそれを反射的によけた。


「母親が宗教の集まりで不在の日、父さんが肉の総菜を買ってきて、2人でこっそり食べた。ありゃあうまかったなぁ」


オンダは微笑みながら宙を見ている。シオも漂う煙をぼんやり見ていた。


「俺は成人し、会社に通うことになった。会社員になると、母親の目を逃れる時間が増えた。自分の金で好きなものを買って食うこともできた。しかし父さんは、あれ以降もずっと望まない食事を強いられた」


鍋はもう音を立てていない。この空間に、沈黙とタバコの煙だけが広がっていた。


「俺はべつに、菜食主義が悪いとは思っていない。肉を食わないことでより健康になる人間だっている。それはわかってる。だけど父さんには、食いたいものを食わせてやりたかった。父さんは優しかった。だからあいつの方針を受け入れた。しかし心の底から同意できていたわけじゃなかった。同意のない食事は残酷だ」


「親父さんは抵抗しなかったのか?一度も」


「原因は自分にあると思ってたらしい。父さんはあの頃仕事が忙しくて、ばあちゃんとの関係に悩む母さんを構ってやれなかったと。だから罪滅ぼしのつもりで母親の望みを受け入れた。だけど少しずつ体も心も病んでいった。それで俺が34のときに死んだ」


オレは黙るしかなかった。


「ベジタリアンがなぜ健康かわかるか?あいつらは信じてるからだ。自分で選んだ食事を。心の底から信じ切ってやっている。食べることそれ自体が宗教だ。だから自分の望まない食を強いられた人間は破滅するんだ」


オンダは赤い目でオレたちに訴えかける。


「母親との二人暮らしが始まった。苦痛でしかなかった。ここから逃げたかった。やつは自分が殺したと思ってない。俺はわざと母親が嫌うような食べ物を買ってやつの前で食べた。だけど心は沈むばかりだ。いつしか俺は、食わない身体を心の底から望んだ。神様、どうか俺に、食わない身体を授けてください、そう祈った。そして実行した。しかし身体は食を欲し、俺は食べた。屈辱だった。そのたび、父さんの写真を見て泣いた。そんなとき、あの騒動が起きた。コロナだ。会社は俺に自宅待機を命じた。チャンスだと思った。これで集中できる。俺は不食の本を読み漁った。そして毎日祈った。ある日、父が夢に出てきて、こう言った。お前は、お前の生きる現実を創造する神だと。お前が望み、信じたことは何でも実現する。ほどなくそれは達成されると。俺はその夢を信じた。毎日の瞑想の中で、俺は自分の神を再創造した。不食の神だ。それは俺自身だ」


オンダは“神の再創造”と言った。

オレはさっきの、オンダの左腕で反時計回りに移動するヴァーヴの針と、“Undefined pattern”の文字を思い出した。


「俺はついにやった!食べることから脱したんだ!俺は万能感に満ち溢れた。俺は神だ。何だってできる。一方やつは相変わらず信仰を続けていた。そのうち配給制が始まった。配給制でも、肉を排除することはできるし、ある程度は自然志向の食事を選択することはできる。しかしやつは、配られた食料を疑い、拒んだ。そして俺に、不食の教えを請うた」


俺がオンダと出会ったのはこの頃で、配給制以降の話は初めて聞く内容だった。


「しかしあいつは負けた。神になれなかった。俺に隠れて、泣きながら食っているのを見た。勝った!俺は勝った!俺と父さんもお前に隠れて食べたんだ。ざまあみろ」


シオはこの話の生々しさがこたえたらしい。うつむいたまま動かない。


「しかし勝ったと思ったとき、俺はやつを許せる気がし始めていた。やつが食うのを見るたび、その気持ちは大きくなっていった。それと同時に、あることに気づき始めた。つまりそれは、やつもこの世界の歪みの犠牲者だということだ。ばあちゃんとの関係、閉鎖的な土地。一度だけ俺にこんな話をした。やつは勉強が好きだった。だから大学に行かせてもらえるよう頼んだ。しかし女だからと言う理由で、進学させてもらえなかった。その後進学した弟とは、不仲になってしまったと。そう言えば、やつはとある女性アナウンサーに似ていた。テレビでそのアナウンサーを見るたび、彼女は別の世界線の自分だと言っていた。本当は結婚よりも、社会に出て働くことを望んでいたのかもしれん。そう思うたび、俺は少し寂しい気持ちになった」


オンダはシオを見た。


「今じゃ信じられないかもしれないが、昔はそんな歪みが、世の中のあちこちにあった。その歪みが、思い通りに生きることを阻んだ。みんなわけもわからず、その歪みにさいなまれていた。俺はわかったんだ。誰も悪くないと。歪みの先をどこまでも辿っていき、じいちゃんばあちゃんやご先祖様を辿って、はるか昔に遡っても、そこには誰もいない。いたとしても猿だ。それがわかった。そうやって俺が完全にやつを許したとき、やつは死んだ。信仰に背いたことへの罪悪感で死んだ。俺もやつも、苦しみから解放された。死は解放だ。喜ばしい」


オンダは満足げにタバコをふかした。


「俺も早くすべてから解放されたいんだ。それで毎日タバコを吸ってるんだが、一向に病む気配がない。むしろこいつは、俺のエネルギーになってる。俺は死も、タバコも、ウイルスも怖れてない。だからエアーフィルの外でも、病めないし死ねない。エアーフィルの外にいるのは、“食う”という観念がぶり返すのを防ぐためでもあるんだが……。食う人間の中にいると感化されるからな。まあともかく、ずいぶんラクになったから、生きてても死んでても大して変わりない、ガハハハ」


これがこの男の観念体系なのだ。不食の神の悟り。ヴァーヴの情報は、それを指し示していたのだろう。


「若者よ!だからな、人間なんだってできるんだ、俺のようにな。諦めるんじゃないぞ!ガハハハハ」


オンダは一点の曇りもなく、自分を誇った。

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