第7話 [シオ]不妊治療/発達障害
「そろそろ帰るか」
話しきって満足したのか、それとも疲れたのか、カショウはそう切り出した。
さすがに子連れのグループは帰ったらしく、“シロ”はすっかり落ち着いた空気に包まれていた。相変わらず雲のない夜空と大粒の星たちは、さらにコントラストを強め、夕暮れとはまた違った美しさを見せていた。
「お前、オレばっかりにしゃべらせて。今度はお前がしゃべれよ?」
“お前”なんて乱暴な言葉、自分の世代でも使わないと言っていたのに、彼はいきなり僕をお前呼ばわりしてきた。一人称も、いつのまにか“オレ”になっている。
だけどなぜか、嫌な気はしなかった。彼が(良く言えば)砕けた口調になったのは、アルコールのせいもあるのだろう。結局、彼はジョッキを4杯おかわりした。人がこんなに液体を摂取するのを僕は初めて見た。人体は一度にそれほどの液体を受け入れられるものなのだと、僕は初めて学んだ。
カショウ曰く、若い頃はこの倍は飲んだ、さらなる強者もそのへんにゴロゴロいたとのことだが、そこまで飲む理由も、それを嬉しそうに話す理由も、いまひとつピンとこない。ただ、液体を受け入れる人体の受容性に感心した。
「だいたい今の若いやつらは、ギブアンドテイク、Win-Winという概念がないんだよ。損得勘定ってものがない。ノンゼロサム?まあ、配給制の世界では無理もないか」
何のことを言ってるのか、さっぱりわからない。
「いいか。次はお前の番だぞ。オレはこんなにも気前良く情報開示したんだから、今度はお前が話せ」
なるほど。彼は僕のことを知りたがっているのか。(だけど僕には、話せるようなことはあまりないのだけど……。)
彼がさっき言った“ノンゼロサム”とは、この物語の冒頭で僕が話したことを指している。つまり、人々が自分のためにしたことは、社会に還元されて他の人々の役にも立つということだ。
夜道を歩きながら、僕はカショウが話してくれた“ウイルスの観測問題”をふり返るのに耽っていた。
僕はその話をとても魅力的だと思った。その“マッドサイエンティスト”の話を、すんなり受け入れることができた。だけどカショウには拒絶感があるらしい。カショウを見ると、彼は半分寝ながら歩いていた。
なぜ彼は、くだらないと言いながら熱心にこの話をしてくれたのだろう。本当は僕と同じように、この話に魅了されてるんじゃないか。“プレ”コロナを知っている世代は、僕たちにはわからない複雑さがある。
僕にとって最優先事項だったミラーリング都市計画については聞き出せなかったけど、ウイルスの観測問題は予想外の収穫だった。
カショウの家に戻り、シャワーを浴び終わると、サタさんがお茶を入れてくれた。サタさんは、娘さんや孫と過ごした今日一日について話し始めた。娘や孫について話すサタさんは、全身から幸せなオーラを放っていた。
「私ね、46であの子を産んだの!」
「またその話か」
カショウが向こうのソファでごちる。
「私ね、なかなか妊娠しなかったの。それでね、当時“不妊治療”っていうのがあって、ずーっとそれやってて。ねぇ」
サタさんは相づちを求めてカショウのほうを見たが、カショウは端末で何かを読んでいて反応がない。
「もうね、お金がばんばん飛んでいくの!一回の治療で、当時のお金で5、60万は飛んでいったんじゃないかなー。とにかく大変なの!」
カショウもそうだが、この世代の人は大変だったことをとても楽しそうに話す。
「子宮から針を入れてね、子宮の壁を突き抜けて、卵巣を刺すの。しかもそれ、無麻酔なのよ!それで針の先から卵胞を吸い取ってね。それがもう……」
サタさんが極端に顔を歪ませる。僕はどう反応していいかわからず、カショウを見た。カショウはサタさんの様子をチラッと見ただけで、また端末に視線を戻した。
「心が繊細な人ほど、妊娠しにくいって言うの」
「繊細というか、まあ神経質なところはあったな。つまりストレスだ」
端末を見たまま、カショウがぼそっと補足した。
「不妊にぶち当たって、そこで初めて、私ストレスというものに向き合ったの」
「ここからが長いぞー」
カショウはソファに寝そべろうとしながら、僕に忠告めかしてそう言った。
サタさんは話を続けた。
子どもの頃から、事あるごとに母親に否定されてきたこと。学校や集団生活に馴染めなかったこと。コミュニケーション上の暗黙の了解というものがわからなくて、ずっと“輪の外”にいるような感じがしたこと。ウェブ制作の仕事が大好きだったけど、没頭しすぎて、自分が無理をしていることに気づいてなかったこと。そしてそれらすべてが、気づかぬまま、ストレスとして蓄積していたこと。
「40を超えた頃、私、発達障害の診断を受けたの。それで自閉症スペクトラムと診断されたの」
かつて発達障害という概念があったことを、僕もなんとなく聞いたことがある。いろんなパターンに分類されるらしいが、コミュニケーションの不調が主な特徴として上げられるらしい。そこで自信を失った人は、さらに精神を消耗させ、他の問題を引き起こすとも。
「つまり生まれたときから、私、人並み以上のストレスを感じていたのよ。だから人並みの、ストレスのない状態というのを、知らずに半生を生きてきたってことになるの」
つまり、デフォルトの状態を知らない。アプリケーションにたとえると、主要な機能がオフ設定された、不便な状態から始まっているとうことだろうと想像した。
「ストレスのないニュートラルな状態を知らないから、自分が人よりストレスを感じていることにさえ気づけないのよ。“ニュートラルな状態”という評価基準がないの!この理屈、わかる?」
サタさんは目元を指でぬぐった。
「不妊がそれに気づかせてくれたの!それで発達障害の診断を受けたの。それで私、とことん自分を癒すことにしたの!一度ニュートラルになるために」
カショウは仰向けで、胸の上で手を組み、遺体のように動かない。
「それでね!私、いつか生まれてくる赤ちゃんのために、こんなこともしたの!」
それはこんな話だった。
もしその子が自分に似ても、自分と同じ苦労はさせたくない。そのためには世界を変える必要がある。それを私は決意した。そうサタさんは言った。
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