第6話 [カショウ]ウイルスの観測問題
COVID-19は、最初は肺炎を引き起こすという触れ込みで始まった。しかし次第に、他の症例も報告されるようになった。嗅覚の異常のほかに、血管内への侵入や、それと関連して肺以外の臓器もダメージを受けることがわかってきた。一口にCOVID-19と言っても、その症状の出方は千差万別だとの現場の証言もある。
もうひとつ、サイトカインストームというワードも目にするようになった。
サイトカインストームとは、サイトカインという物質が過剰分泌され、ウイルスのみならず、人体そのものを傷つけてしまう、つまり免疫系の暴走の一種らしい。症状にバリエーションがあるのは、このサイトカインストームの影響もあるだろう。
「サイトカインストームはなぜ起こるんですか?」
「オレは専門外だから詳しくはわからん。しかし当時、アドレナリンなどのストレス系のホルモンが関係してるという説があった」
「アドレナリン、興奮したときに出るやつ」
「興奮とか、怒り、怖れ……。ホルモンは感情との関わりが深いからな」
「それが場合によっては重症化の引き金になってると」
「まあ……、素人のオレには、それ以上はわからん」
なんとなく気まずくなって、ビールに口をつける。
「さっき言ってた、観測問題は何なんですか?それって、量子力学の話ですよね?」
「うん、まぁ……」
しばしオレは頭を整理することにした。この複雑な話を、この酔った頭で、誤解を与えずに話すことができるだろうか。一歩間違えば、オレの威厳も傷つけかねない。リアリストを自認するオレとしては、かなり戸惑いを覚える話題だが、自分から言い出してしまったものはしかたない。
観測問題とはシオの言う通り、量子力学の世界で、観測者の主観や期待が観測結果に反映されるというやつだ。2重スリットやシュレディンガーの猫も、たしかその類いだ。
「うん、まぁ、そんなふうに、人の感情が間接的に関わっているという解釈もあるわけだが……」
「わかった!感情が重症化に影響する、つまりその感染者が、SARS-CoV-2に持ってる認識や怖れがそのまま症状に反映されると!」
シオは目を輝かせてそう言ったが、オレはなぜか気に入らなかった。そもそもこのエセ科学的な話に最初から嫌悪感があるからだろう。
嫌悪を感じる理由は、もうひとつ別にあるかもしれない。
もしシオの言うように、その個人の精神の在り方が、生死や症状の程度に関わってくることが公然と認められてしまったら、それは人の内面、死者であったならその無言の聖域をもてあそぶことになる。オレはそこにずっと引っかかっていたのかもしれないと、この話をしている最中に気づいた。
オカルトや宗教の世界でも、この解釈はしばしば採用される。つまり、怖れるからそれが恐怖になる。怖れなければ、それは怖れるに足るものではないと。
当時の某国閣僚夫人も、その手のオカルトに足を突っ込み、マスクなしで出歩いてバッシングをくらうという、いかにも2020的な事件もあったが、面倒なのでオレは話を元に戻すことにした。
「当時、ある国の有名な学者がこんなことを言いだしたんだ」
シオが前のめりになる。
「ウイルスは感染拡大しながら変異する。まあここまでは定説だ」
「うんうん」
「武漢で爆発が起きた後、次に爆発を起こしたのはイタリアだった。なぜイタリアか。最初は、イタリア人のコミュニケーションやスキンシップが濃厚だからじゃないかなどと言われていた。しかし次第に医療崩壊が起こり始め、COVID-19はその国の医療体制や経済とも切り離せない問題だとわかってきた」
「うんうん」
「つまり、イタリアの医療体制が脆弱だったために、多くの人が重症化し、死亡率が他国より高くなったと。まあ、全ての人が検査したわけじゃないので、死亡率や重症化率の数字はあまり当てにならないとの読みもあるが……」
「そのあたりのことは、僕もなんとなく把握しています。状況の解釈も、かなりバリエーションにとんでいて、専門家でさえ日々見解をアップデートしていたと」
「そんな中で、当初からイタリアの感染爆発はコロナの変異のせいではないかという人もいた。一部の有志によって、世界への拡大の経緯が追跡され、その遺伝子情報や、変異の過程もオープンにされた。そこでいよいよ、コロナがより凶悪化していることがわかった。つまり、武漢での拡大時より、イタリアで広まったコロナのほうが凶悪なんじゃないかと。そのデータで見る限りは。まあ、さっきも言った通り、データ上ではの話だが」
「ええ」
「で、そいつ、さっきの、過去にノーベル賞を取ったとかで有名な学者がだ、人の恐怖心がSARS-CoV-2を凶悪化させてるなどと言い出した」
「えっ、すごい!」
シオが色めきだつ。
「しかしこの男、過去の栄光は華々しいが、奇抜な言動で有名で、晩年は誰にも研究を認められなくなり、すっかりエセ科学者扱いになってしまったという、なんとも評価のし難い、曰くつきの人物だったらしい。なのでいくらノーベル賞受賞者と言えど、世間はそれを鼻で笑った」
「そうなんだ……」
「さっき、医療体制や経済がコロナ禍に関係してると言ったが、そいつ曰く、もうひとつ関係してるものがあると。SNSだ。マスメディアに加え、SNSが恐怖を拡散すると。要するに、コロナでの重症化がごくわずかなパーセンテージだったとしても、そのわずかな事例がネガティブな意味で印象的だった場合、人々はそれが自分にも起こりうる現実と認識する。たとえそれが0.0000……1%くらいの、珍しいケースであったとしても」
「それに似た話は聞いたことがあります。実際は以前より犯罪が減ってるのに、情報量が以前より増えたせいで治安が悪化してるように感じられるみたいな、コロナ騒動もそれに近いことが起きてるってことですね?」
「つまり実際の危険度に見合う以上の恐怖を、社会で共有しあうようになる。情報や感情は増幅するからな。恐怖はより大きくなっていく」
「だけどCOVID-19は医療崩壊との戦いでもあったわけですよね。その意味では適切な危機感だったのでは?」
「確かにそうだ。衛生を保つ、人と距離を取る、こういった手段は実際必要だった。しかし手段と感情は別だ。冷静を保ったまま手洗いをすることもできるし、家に引きこもることもできる。必ずしも恐怖におびえながら手を洗う必要はない」
「要するに、ある種のパニック、ある種の集団ヒステリー的な側面があったと。なぜかトイレットペーパーやインスタント食品が買い占められたとの記事も見た気がします」
「まあ、今だから言えることだがな。で、話を戻すと、恐怖心はサイトカインストームだけでなく、SARS-CoV-2の凶悪化を体中で引き起こすというのが、さっきの学者の主張だ。人々、つまり観測者の主観や先入観、怖れが、実際にSARS-CoV-2をそのように凶悪化させてしまうと」
「サイトカインストームによる重症化と、ウイルスの凶悪化に相関関係があるということですか?」
「いや、そこまでは言及していない。なんせ論文じゃなく、ニュース番組での発言だからな。ボケた頭で適当なことを言ったんだろうというのが、当時の概ねの反応だ」
シオは黙り込んだ。
ばからしいと思ったのか、納得したのか、その無表情からは読み取れなかった。とりあえずオレは、このくだらない話を終えて肩の荷をおろした。
「そういえばアドレナリンって、呼吸をゆっくりすると抑えられるんですよね。その呼吸を壊すのもSARS-CoV-2かぁ」
……うむ。
一瞬引っかかったが、特に言いたいこともないので、オレは黙って飲むことにした。
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