夫の昇進が決まった。

 課長を飛び越え、部長に昇進するらしい。

 彼の会社のことはよくわからない。

 でも、夫いわく、同期のなかでも異例の出世なのだそう。

 理由はと聞くと、 


「さぁ……」


 不思議そうに首をかしげる。自分でも何がきっかけなのかわからないそうだ。

 夫のような人間が人の上に立てるのかどうか気になるが、会社がそれで良いのなら仕方がない。

 わたしが人事権を持っていたら絶対にしないが。

 それに出世がどうであれ、彼の給料があがることに不満はない。


 夫など、これならマイホーム変えちゃうんじゃない? と息巻いている。

 勢いで買うもんじゃないと釘を打ってやったが、わたしもまんざらでもなかった。

 色々、想像が頭のなかで膨らむ。

 普段は身もしない不動産屋さんのチラシに目が行くようになった。


「気にならないなら放っておいて大丈夫」


 ママ友の一人で霊感がある櫻崎さんの言った通りだった。

 中年男につづいて、異様な頭の老人の出現にさすがのわたしも不審に思い、彼女に相談してみた。

 櫻崎さんの家に行くと居間に案内された。

 武勇伝は色々聞いている。なかには有名なお寺の住職が投げ出した霊現象をたちどころに解決したものもあり、それも無償で行っていると言う。

 無理やりお礼をあげようとするなら、


「お金が欲しければ、とっくに商売化しています。これはあたしの業。ある意味、贖罪なんです。だからお金は要りません。それでも渡そうとするなら、元に戻しますよ」


 そう言い、突っぱねるのだそうだ。

 櫻崎さんはちゃぶ台の前に座ったわたしを一瞥するなり、放っておいて大丈夫と言った。それにつづけ、


「それどころか下手に詮索しない方がいいよ」


 わたしから視線を外し、呟くように締めくくった。


「さあ、今日も宴だ」


 昨日も仕事帰り、仲間たちと飲んできたのに、今日も朝から飲むつもりらしい。

 休みなんだからどっか連れてってと思うけど智司は智司で、


「僕はどこも行かなくていいよ。ちょっと新しい実験してみたいし」


 新作折り紙を作るのに忙しくて、どこかへ行くどころじゃないらしい。

 最近、全然、遊んでくれない。

 母親としてちっとも張り合いがない。息子を残し夫と二人で遊びに行くのもどうかと思うし。


「ねえ、さっちゃん。ウイスキーどうしたん。あの高かったヤツ」


 暇だし仕方なく酒のあてを作り出したわたしに夫が声をかけてくる。


「ウイスキー? 書斎にあったやつ? 知らないよ。書斎のなかのもん下手にさわるとあんた怒るじゃん。わたし何にも手をつけてない」


 マンションの一番狭い部屋を「書斎」とし夫の自室に当ててある。

 書斎とは言うが本などほとんどない。酒瓶やゴルフセットが置かれ小さな机にパソコンが一つ置かれているだけの簡素な部屋だ。


 そう言えば……。


 昨日、散々酔っぱらってきたのに、寝ようとせずに一人コソコソ朝方まで書斎にこもっていた。

 あんな酔っぱらってたから、パソコンでいかがわしい動画を見ていたわけでもないだろう。

 あんまり寝室に来ないものだから、少し心配になって書斎に行ってみる。


 声がした。

 夫が誰かとしゃべっている。

 来客? 時刻は深夜二時だ。こんな時間に訪ねてくる非常識な人間はいないだろう。いや、勢いで酒飲み仲間を連れてきたか?


 薄く開いていた書斎のなかを覗くと床に胡坐をかき夫がウイスキーを開けていた。

 グラスに注いだ琥珀色をあおっていた。


 思い出した! そうだ、あれ、自分で飲んでんじゃん。

 グラスはもう一つ床に置かれていた。

 そのグラスに手が伸びた。


「どうぞ、どうぞ、遠慮なさらず」夫が声をあげた。


 やっぱり誰かいるんだ。

 挨拶しないわけにはいかない。

 スッピンにパジャマ、ブラジャーもしてないけど仕方ない。酔っ払いオヤジめ! お客さん帰ったら覚えてろよ。挨拶しようと扉に手をかける。

 相手の姿を見て体が固まった。


 あの老人だ。頭の異様に長い禿げた老人。

 夫の向かいに座って目を細めウイスキーをあおっている。

 何で、こいつが……。

 扉ののぶを握ったまま老人を見つける。

 いいや。こいつ、違うぞ。

 いつも見る老人と違う。いつものは長い髭が生えていた。

 こいつには髭がない。

 それにこいつ、なんか背がデカい。

 髭の老人は背が低かった。

 こっちは逆に背が高い。座高からして夫と同じくらい。夫は百八十センチ近くある。老人にしては背が高い。


 どういうこと?……。


 頭の長い老人が二人いると言うことなのか。

 廊下の暗がりで声がする。唸り声。

 唸り声に混じり、ガチャガチャ音が響く。

 廊下の向こうから何かくる。

 鎧武者を着た男が槍を掲げながら――。


 昨日のあれは何だったのか……。

 何で、夫があの老人とお酒を。それにあれは頭こそ長いがわたしがこの家で見ているのとは別の老人だ。

 夢?

 わからない。


「昨日、書斎で飲んでなかった」


 夫に話を振ってみる。


「え、あ……。そうだっけ」


 眉間にしわを寄せ考え出す夫が言う。覚えてないらしい。


「それに、ほら、昨日、誰がお客さんを連れてきて……書斎で……」


 恐る恐る尋ねる。


「お客さん? 誰、田島か淀川? ないない。だって酔って人連れてくんの、さっちゃん一番嫌がるじゃん。いつかやったとき相当、怒ったし。俺あれでこりてんもん。一週間、夕飯ふりかけご飯だは。翌月の小遣い半分にされるは。こりごりだよ。飲みの席で同僚に美人の奥さん一目見たいから家連れてってと言われても絶対拒否すんもん。もうこりごり」


 だとしたら昨日のはやっぱり……。

 あの老人は二人目の老人で……。

 酔っぱらった夫の酒をどさくさにまぎれ相伴にあずかったか……。

 と、言うことはあの鎧を着た落ち武者みたいなものも……。


 わけがわからなくなってくる。


 この部屋には一体、何人の幽霊が憑りついているんだ。


 アイフォンが鳴る。

 病院からだ。

 体がこわばる。まさか父が……。

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