12

 母親が死んだ。自殺らしい。

 ひと昔前に流行った硫化水素を手に入れ浴室に籠ったようだ。

 遺書では息子である俺が自分を殺そうとしていると言い、その非難を表して自殺すると言うことが書かれていたらしい。別府の母親の時となんだか似ている。

 父親から何度も連絡が入っているが無視している。


 仕事もやめた。

 どうでもいい。


 気がつくとアイフォンに目を落としている。

 能崎美沙子の過去のブログを読んでいた。

 これだけが俺と妻を繋ぐ手段なのだ。


 被害妄想と誇大妄想とが織り交ざり、誹謗中傷と自画自賛が繰り返されるブログに俺は心癒される。


 曲沢を轢いた美沙子の車は北海道で発見されたという。


 発見されたのは車だけ。週刊誌ですっぱ抜かれた写真には彼女の軽自動車のスモークガラスの内側に大量の護符やお札が張られている様子が何枚にも渡り掲載されていた。

 後部座席には車内に潜伏していたようで排泄物を入れてため込んだ容器もあったと書かれている。


 世間では狂人として彼女の行方を面白おかしく報道し楽しんでいる。

 無責任な報道に、その報道を真に受ける無知な人間に猛烈な怒りがこみ上げる。

 誰も彼女の本当の姿を知らない。

 俺のなかの彼女は朗らかで涙もろく、笑い上戸で情に厚い感情豊かな女性だった。

 世間に対する、ささくれた怒りのなか、妻の思い出が俺の気持ちをじんわり暖かくほぐしていく。


 俺は胸元まで茂るススキのなかを歩いていた。

 北海道のある平原である。

 十月に入り、すっかり秋めいてきている。

 夜空には煌びやかな星が瞬いている。人工の光源の照り返しがないせいか、星空は黒い夜空と星々の煌めきのコントラストがくっきりしていて、とても美しい。


「あたし、いつか北海道に行ってみたいの。あそこはわたしにとって未開の地、上陸した本土とアイヌの伝承が交差する素敵な土地だから」


 いつだったか妻がもらしていた。


 ブログでは彼女、関東と東北がメインで百度参りを行っていた。

 妻はこの北海道で百度参りを行っているに違いない。

 捕まらないのは彼女の百度参りが成功したからだ。

 そして今もきっとつづけている。


 これは願望だ。根拠はない。でもこれしか彼女を掴まえる手段はわからない。


 札幌の繁華街から内陸に向け百キロほど離れた平原をひたすら歩いている。

 一時間はそうしているだろうか。脚も痛くなってきた。 

 ススキの向こうに木が見える。奥からススキがざらざら揺れる。

 森から突風が吹いてきた。

 どうやら目的地についたらしい。

 森は、ニセウ・チャシ――どんぐり砦――と呼ばれ地元の人間に禁則地として恐れられている場所だ。 


 森に突入する。ナラの木の群れが俺を出迎える。


 ここにはテイネ・トゥンニ――濡れたナラの木――が一本だけ生えていて、そのナラの木に百匹のエゾリスを打ちつければ、どんな願いも叶うと言うアイヌの伝承が残されていた。


 アイヌ版百度参りだ。


 彼女がここに来る確証はない。来ないかもしれないし、もう来ているのかもしれない。

 それでも来ないわけにはいかない。妻に会える可能性が一パーセントでもあるのなら。


 風に乗り音が響く。硬質な打撃音。

 小刻みに聞こえる。自然の音じゃない。

 体がこわばる。緊張で手の指が引きつる。

 音を目指しススキを抜け、森の奥へ向かう。

 いわゆる丑三つ時。星々に照らされて森は妙に明るい。

 時折吹く秋風から冬の気配を感じる。

 落ち葉を踏みしめ俺は進む。

 こーん、こーん、こーん。音が規則的につづいている。


「あ」吐息がもれるのを口元をふさぎ、おさえた。

 いる。ひと際太いナラの木の前に誰か佇んでる。

 その人物が着る紺色の着物の幾何学めいた柄が印象的。


「美沙子」小さく呟く。足音を忍ばせ彼女に近づく。


 トンカチを振るっている。野太いナラの幹に何か打ちつけている。

 規則的な打撃音に比べ、俺の鼓動はとても不規則。

 鼓動が激しく軋む。やっと会える。妻に会える!

 家を出て半年、ようやく妻に会えるのだ。

 何でもいい。彼女が老人を殺してようが曲沢をひき逃げしていようが構わない。そう言えば曲沢、どうなったんだっけ。

 ま、どうでもいいか。

 母親が死のうが、誰が死のうが関係ない。 


 祟り? 上等だ。殺せるものなら殺してみろ。俺は妻といっしょに百度参りを行い祟りを跳ね返してやる。覚悟しろ。


 がさり。足に力が入ってしまった。スニーカーで踏みつけた落ち葉が音を立てた。

 ナラの木にいる紺の着物がビクンと肩を震わせた。

「美沙子」たまらず声をかける。


 彼女が振り返った。


 森のなかに女の奇声が轟いた。


 まるで般若だ。怒り震えるその顔のあちこちは引きつり、痙攣を起こしている。

 突進してくる。

 あまりの様相に体から力が抜けて、動かない。

 スローモーションのように女が近づく。

 右手のトンカチが大きく振りあがる。その先のナラの木に目が行く。

 五寸釘が打ちつけられ、それには……。


 頭に激痛が走る。体が大きくかしぐ。足元がふらつく。

 浮遊感。

 背中に激痛。腹部に圧迫感。女の奇声。頭や上半身に鋭い衝撃と痛みが爆発する。

「美沙子、俺だ。和樹だよ」大声を出す口に中に血が。水気を含んだ鈍い衝突音。爆発。視界に火花。激痛。「やめて、やめてくれ……」

 痛みに合わせた左足が勝手に跳ね上がる。股間が生ぬるくなる。眼窩で水風船が破裂したような音が響いた。体が冷たい、手足の感覚がわからないくらい冷たい。

 冷たい秋風が体を舐る。焦点の合わない目に腹の上に乗った中年の女が唾を飛ばし喚き散らしならトンカチを振るう姿が。女は泣いている? 笑っている?


 夜空が清々しいくらい明るい。


 視界にナラの巨木が飛び込む。

 五寸釘がいくつも打ちつけられ、釘一つ一つにリスが生きたまま打ちつけられ、ククゥ、ククゥ、とそれぞれが、か細い悲鳴をあげている。

 キき、きき、ぎぃ、みしい――。

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