10

 病院を出たのは事故から三時間後。

 曲沢は予断を許さない状態だった。

 友人を轢いた車はまだ見つからない。

 救急車を呼び、同乗して市内の緊急外来に搬送された。

 曲沢はそのまま手術室へ。

 手術の様子を見守る俺に警官が訪れ、事情を尋ねてきた。


 正直、何をどう話したか覚えていない。


 どこまで素直に話し、どこまで話をでっち上げたのか。

 まともに話したってどうせ理解してもらえない。

 あの民家に不法侵入したことは黙っておいた。 

 事故の対応をするなか、あの家からは誰も出てこない。

 出てくる気配すらなかった。

 警察は俺と曲沢が歩いているところをひき逃げに遭ったと整理したようだった。


「後は、後日」今日のところは家に帰るようにと促された。


 重い足を引きずるように帰路を歩く。

 ため息が出る。そのたびに立ち止まり頭を抱え込む。

 もしくは掻きむしる。通夜の帰り曲沢がしたように。

 これからどうすりゃいいのだ。


「ただいま」


 アパートの扉を開け、生気のない声をあげる。

 返事はない。部屋は暗いまま。妻の姿が見えない。

 まだ十時過ぎ。寝るには早すぎる。朝、定時で帰ると伝えていた。

 連絡もなく遅くなったことで妻はへそをまげているのか。


「ごめん。曲沢が事故に遭って連絡できる状態じゃなかった。こんな時間まで電話もしないですまない」


 言い訳を繰り電気をつける。

 誰もいない。

 部屋はもぬけの殻。

 夫婦二人には狭い部屋だ。どこかに隠れているわけもあるまい。

 それとも今日は飲み会か何かで留守なのか。

 携帯を取り出す。妻のアドレスを探す。


「あ……れ……」


 ない。アイフォンのアドレスから妻のものが出てこない。


「何やってんだ、俺」


 もう一度、頭からアドレスを見直す。ダメだ、見つからない。

 履歴を見る。こっちもない。リダイヤルにも妻のものがない。

 そもそも妻の名前って……。


「思い出せないって、自分の嫁の名前だぞ」


 思わず声が出る。

 落ち着け、落ち着け。頭のなかで自分に言い聞かす。

 部屋を見回す。


 ベッド脇の小さな化粧台。

 子供の頃から持っているというクタクタの兎のぬいぐるみ。

 ギュウギュウに詰め込まれた衣服がかかった専用のハンガーラック。

 テーブルに置かれていたファッション雑誌。

 部屋に不釣り合いだと言い却下したはずなのに強引に購入した姿見。


 見当たらない。妻のものが一つも見当たらないのだ。あるのは俺の私物だけ。


 キッチンに行く。彼女の箸や茶わん。食後のデザートと買い込んでいた甘いお菓子の入った籠、激辛好きで自分用に買い込んだハバネロパウダーも見当たらない。


「待て待て、待ってくれ」呟いた声は震えていた。


 浴室に飛び込む、ピンクの歯ブラシ、乳液に美容水、彼女専用のボディーソープ、シャンプー、コンディショナーも……。


 俺に見つからないように夜逃げした? 違う。端から痕跡がない。あるのは俺のものだけなのだ。


「ふざけるな」


 部屋中引っ掻き回す。彼女の痕跡を探す。ダメだ、何もない。

 初デートで行った地元の水族館。

 クラゲに刺され置き引きに遭い散々な目に遭った海水浴。

 二泊三日で行ったユニバーサルスタジオ、そこでのプロポーズ。

 親族友人だけでした結婚式。

 生理が遅れていると言い、赤ちゃんができたのかもと妊娠検査薬を使用したものの陰性だったこと……。


 彼女との思い出が頭のなかをめぐっていく。


 それなのに妻の名前、旧姓に出身地、それが出てこない。

 彼女には両親はいたのか、兄弟は……。


「そうだ!」


 実家に電話する。母親が出た。


「あのさ、今日、そっちにうちの嫁さん、行ってない」


 恐る恐る訪ねる。一縷の望みをかける。


「うちの嫁さん?」母親が怪訝な声を出す。


「そう、俺の奥さん」名前が出てこず、おかしな物言いになってしまう。


「どうしたん、あんた。また酔ってんの。奥さんって、あんた結婚なんかしてないだろうが」


 意識が遠のく。母親は何か言っているらしいが、頭に入ってこない。

 アイフォンからノイズが響く。

 不快な音が俺を現実に引き戻す。


「どうしてあそこに行ったの。あなたに見られたせいで全部、おじゃんになった」


 女の悲し気な声がスピーカーから響く。

 妻の声だ。


「何だ、それ。どういうことだ。それに君は……、無事なのか、大丈夫なのか」


 彼女に矢継ぎ早に声をかけが……。


 ケタケタと女の笑い声が轟く。これは神社の向かいの家で聞いた……。


「人の家で何をやっとるんだ!」


 老人の怒声が響く。

 あまりの大声にアイフォンを取り落とした。妻と繋がったアイフォンを掴み、耳にあてる。通話は切れている。

 それどころかアイフォンはバッテリーが切れていて電源が入っていなかった。

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