「この家、だよなぁ」


 仕事を引けたその足でやってきた。神社の向かいのボロい家と言えばこの家だ。

 この前、老人が箒で玄関前を掃いていた家だ。


「ここにいんのか」


 会社での騒動以来、何度も曲沢の携帯にかけているがダメだった。

 あいつの携帯には繋がらない。会社でかけてきたあれは本当に曲沢なのか。

 自身がなくなる。あれも怪現象の一つで、あいつはもう……。

 嫌な想像が頭を巡っていった。

 家の前でため息を吐く。

 結局、この家を訪ねるしかないのか。

 まだ放火による香ばしい臭いの残る神社を背に向かいの家の玄関へ向かう。

 インターフォンはない。

 玄関のガラス戸を軽く叩く。


「ごめんください」挨拶をして応答を待つ。


 が。応答はない。


 老人以外誰か住んでいるのか。あの人だけなら、耳が遠くて聞こえないかも。


「ごめんください!」


 声を張り上げてみる。誰も出てこない。

 やっぱりダメか。手を伸ばしガラス戸を引くと……。

 動いた。カギはかかっていなかった。

 ぎぃ、ぎぃ、みしい。

 聞き覚えのある音。戸の奥で聞こえる。

 ソロソロとガラス戸を開ける。


「ああ」声が漏れた。心臓がどくどく軋む。

 玄関のすぐ前に階段がある。急こう配で上り下りしにくそうな、踏板の厚い……。

 あの階段だ。

 

 ぎぃ、みしい、ぎぃい。

 誰もいないのに階段を歩く音が響いた。


「人の家で何をやっとるんだ!」


 背中から大声が響いた。

 真後ろに老人がいる。

 あの老人が俺を睨みつけていた。

 老人が首をかしげた状態で俺を睨んでいる。首の曲がり方がおかしい。

 頭が左肩につく勢い。肩に乗った頭は肩を軸に前に後ろにしぶらぶら揺れる。

 まるで赤ん坊のように首が座っていないようだ。


「人の家で何をやっとるんだ!」


 肩につけた頭を前後に揺らして老人が叫ぶ。目はしっかりと俺を睨んでいる。

 家の奥でケタケタと女の笑い声が響く。


「人の家で何をやっとるんだ!」


 老人は立ちふさがる俺ごと、家に入ろうとガラス戸に手をかける。

 首は完全に前に落ちて、禿げた頭頂部が露になる。


 階段脇、廊下を挟んで設置された扉が開いた。

 白装束の女が現れる。伸び晒した髪は胸元まで垂れている。

 髪に隠れ表情は読み取れない。黒髪を揺らしケタケタ甲高い声で笑っている。

 背中に衝撃が走る。老人に蹴飛ばされた。体がつんのめる。体勢が崩れる。

 手を振り回しながらバランスを保つ。靴のまま玄関をあがる。


「人の家で何をやっとるんだ!」


 老人が同じフレーズで叫ぶ。

 廊下から白装束の女が笑いながら向かってくる。

 けたたましい笑い声が大きくなる。

 何がどうなっているのかわからない。

 退路は一つだけ。

 階段を見上げる。二階には明かりがついていた。階段には靴跡がつづいている。


 ここしかない。腹をくくる。


 土足のまま階段を駆けあがる。

 ぎ、ぎ、ぎ、ぎ、ぎ。踏板を踏みつけるたび、階段が軋む。

 階下では女の狂ったような笑い声と、


「人の家で何をやっとるんだ!」


 繰り返される老人の怒鳴り声が入り混じり轟いている。

 二階にあがりきった。

 廊下は煌々と明るい。

 ど、どこに……行けば?

 上がったは良いもののその後のことまで考えていなかった。

 廊下にも靴跡がいくつかある。一つだけじゃない。数人分の足跡だ。

 俺より先に人の家で粗相した輩がいる。


 老人の怒りは、そいつらのせいかもしれない。


 靴跡に混じり、嘔吐した後、土壁が削り取られたような部分が見える。

 足跡を追い、奇行の行方を見定める。

 襖の空いた部屋に靴跡は消えていた。

 足跡を追う。

 襖の部屋の前に佇むと「ああ」と声がもれた。


 六畳ほどの畳間の中央に異様なものが置かれていた。

 五角形の角柱の一メートルほどの石が。

 これが向かいの神社にあったはずの百度石が。


 畳間に悲鳴が轟く。男の悲鳴だ。

 押し入れの襖が激しく揺れた。

 その襖が外れる。百度石を置いた部屋のなかに落ちていく。


 悲鳴が大きくなった。

 押し入れから悲鳴の主が転がってきた。

 蹴破られた襖の上にうずくまる。


「曲沢、お前、どうして」


 俺の声に曲沢がひと際大きな悲鳴をあげた。

 そのまま四つん這いで部屋の隅に這うと、頭を抱え震えだした。


「何やってんだよ、曲沢。どうしてこんなとこにいるんだ」


 肩を掴みながら友人に声をかける。

 絶叫が轟く。


「ごめんなさい。ごめんなさい。すぐに戻しますから。戻しますから」


 俺の腕を払うと、部屋に真ん中に行き、百度石を動かそうとする。

 でも一人じゃびくともしない。


「すぐ戻します。戻します」泣きべそを掻きながら曲沢が声をあげる。


「何で、何で、動かないんだよう」


 曲沢が癇癪を起す。

 畳の上に置かれた百度石に頭を打ちつける。

 狂ったように何度もつづける。額から血がしぶく。


「やめろ、何やってんだ! とにかく落ち着け」


 後ろから友人を羽交い絞めにして自傷行為をやめさようとするが、


「人の家で何をやっとるんだ!」


 老人の怒声が轟く。

 老人の声に加えケタケタと女の笑い声が部屋のなかを渦巻いた。


「ぎゃあああああああああああああああああ」


 割れんばかりの奇声をあげ曲沢が部屋を駆けだした。

 廊下を踏み荒らす音が響き、ドタドタ階段を駆け下りていく。

 後を追う。階段を駆けおりる。


 クラクションの破裂音。


 夕暮れ時を迎えている。

 夕闇のなか、玄関の先では曲沢が佇んでいる。

 車道に光が差す。曲沢のシルエットが黒く浮かびあがった。


 鈍いブレーキ音。


 目の前に車が飛び込んできた。人影が消える。玄関前に軽自動車が急停止した。

 グズンと重い衝撃が轟いた。 

 おい、まさか……。

 タイヤが空回る甲高い音。白い軽自動車が急発進する。

 そのまま走り去る。

 道路の上で曲沢が伸びていた。手足がありえない方向に向いている。

 アスファルトにどす黒い液体が流れ出し……。

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