十三

 ジュールは、母を知らない。

 母も、ジュールを知らない。ジュールを産んで、その顔も見ずに自死したからだ。

 ジュールはこの世に生まれて数時間で、母を失った。


 物心ついたときには、周りは父が雇うメイドや世話役に囲まれていて、「母」「父」という存在がどんな子供にもいるのだ、ということを知らずに育った。

 しかし困ることは何もなかった。

 メイドは少し年配だったがジュールと並んで歩いていれば他人はそれが「母」だと思い、家庭教師の若い男と一緒に居れば「兄」だと思われた。

 

 初めて「父」と遭遇したのは、小学校の入学式だった。

 ジュールとは似ても似つかない、長身の厳つい顔の男は、それでもジュールを見ることもなく、声もかけなかった。ただ知り合いの政治家が来賓として出席することを漏れ聞いて、その人に挨拶するために立ち寄っただけだった。ジュールは、おまけどころか、そこに居たのはただの偶然だった。

 気を使った父の秘書の後藤がジュールを父に引き合わせたが、父の眉間の皺を増やすだけだった。


 しかし、ジュールが育つために必要なを整えることに、財は惜しまなかった。通学しやすい場所にあるマンションをあてがい、メイド、家庭教師、料理人、世話役など、幼いジュールの周りには常に複数の大人たちがいた。しかしジュールを見る目は「雇い主」を見る目で、誰一人としてジュールを子ども扱いしなかった。父は、スポンサーとしては完璧だった。


◇◆◇


 ジュールが母の存在を知ったのは、突然送られてきた一冊の日記だった。

 差出人は誰か分からない。海外からの小包だということだけ。

 秘書の後藤が、誰も見ていないところで渡してくれたのだ。


『これはジュールさんのものです。ただし誰にも見られてはいけません。自分が持っていることも、中を読んだことも人に話してはいけません』


 いつも優しい彼が、その時は怒っているように見える位真剣な表情で、そうジュールに伝えた。

 

 それは、ジュールの母が、死の直前―ジュールを産む直前―まで書いていた日記だった。


(ママン…、俺の、母さん?)

 まさか、母の存在に今更接することになるとは思わなかったので、ジュールは受け取るのを躊躇った。しかし、後藤はジュールの手を取って小包をしっかりと握らせると、逃げるように帰ってしまった。


 恐る恐る小包を開ける。中からは花柄の表紙の可愛らしい日記帳が出てきた。

 開くのが怖かったが、誰にも知られるなと言われたので、家が無人の今しかチャンスはない。思い切って開いてみると…、がっくりした。


(日本語じゃないじゃん…。なんだよ~)


 その時のジュールには判別できなかったが、中はフランス語で書かれていた。

 ジュールの母は、フランス人だった。


 後日、人がいない隙をぬって後藤に翻訳を頼んだ。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る