十一

 夕方。

 授業が終わったジュールは、ゲーセンへ誘ってくる寛治を振って真っすぐ帰宅した。


 駅から歩いて5分ほど。高級住宅街の中でも更に珍しい高層マンションの上部階に、ジュールの家はある。

 エントランスホールのセキュリティ画面で暗証番号を押し、エレベーターに乗り、部屋に着いた。

 鍵を開け、真っ暗な部屋に入る。まだ外は明るいが、分厚いカーテンは常に閉め切ったままなので室内は夜のように暗い。


 子供の頃は、この暗闇が嫌で仕方なかった。防犯上開けっ放しはよくないと家政婦から説明されても、帰った時真っ暗なのが怖いので、開けたままにしておくよう頼んだりもした。


 中に入り、カーテンも開けず照明もつけず、真っすぐ寝室へ向かう。

 カバンを放り投げると、制服のままベッドに倒れこんだ。


 昼間の喧騒から離れて、異空間のように音がしない自宅へ帰ったこの瞬間が、ジュールは一番嫌いだった。いや、いまだに怖いとさえ感じる。

 本当は寛治と遊んでくれば少しは回避出来たはずだが、いずれはこの部屋に戻らなくてはいけないのだから、一時的な逃げは大した意味は持たない。


 ベッドにうつぶせになったまま、静寂に耳が慣れてくると、朝の總子の声が思い出された。


『いってらっしゃい。勉強頑張ってね』


 母も父も知らないジュールにとって、普通ならごく当たり前の挨拶が、たまらなく新鮮で温かく響いてくる。

 

 もし自分に母が、姉が居たら、あんな風にいつも送り出してくれたのだろうか。


 年上とはいえまだ若い總子に母を重ねるのは無理があると、ジュールも思い直して一人で笑ってしまう。そうだな、空想するなら姉貴か。

 そして先週の土曜日に二人で会ったこと、食事をして散歩をしたことを思い出していた。

 多分總子は大事な話をしようとしていたのだと思う。だからわざわざ休みの日に呼び出したのだろう。

 だが結局は、自分が有耶無耶うやむやにしてしまった。もちろんわざとだ。電車内でのガード役を、總子が遠慮するだろうことは最初から予想していたから。むしろそこで飛びついてくるような女だったら守る必要なんかない。自分で何とかするだろう。


 ジュールはその外見のせいか、年齢の上下問わずよく女から声を掛けられる。

 大抵はその場限りの関係を楽しもうとするか、ジュールの父親や資産を知って近づいてくるかのどちらかだから、そのたぐいの女は1メートル以内に近づいてくれば臭いで分かる。反吐が出るほど嫌いだから一切関わらないが。


 クラスメイトでもない、父が雇った家政婦でもない、教員でもない「女性」と関わったのは、いや関わりたいと思ったのは、總子が初めてのように思える。


 誰にも触れられたくない自分の弱くて汚い部分にも、總子になら触れて欲しい、知ってほしい。今ではそう思っている。


 先週知り合ったばかりでまだ一週間も経っていないというのに。なぜあの女性ひとにだけこれほど懐かしさを感じるのか。

 自分で自分の心の変化を訝しみながら、その変化に心地よさも感じていた。


―また明日、会える―


 そして別れ際、またあの言葉を言って貰える。


(今度の週末は何してるんだろう)

 ふとそんなことが頭をよぎり、深く考えずにスマホのメッセージアプリを開いていた。

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