10

「よっ! 雨森さん!」

 彼女の話では、松田くんは大人しめの地味な男子だったらしいが、学校前で話しかけてきたのは、全く見当違いな彼の姿だった。

 髪は長めのツーブロックで、両耳にピアス、ズラパンにドクロ絵のTシャツと、世間が思い浮かべるヤンキーの像がそこにあった。

 彼は片手をポケットに突っ込んで、気取った様子で彼女に話しかけた。彼女は体をぶるぶると震わせて困惑し、やがて首まで左右に振ると私の背後に隠れてしまった。

「あれ、雨森さん、俺のこと分かんない? 松田だよ、松田」

「だ、誰……?」

 彼女はか細い声で話しかける。彼は少し考えた後、もう一度「松田だって」と面倒くさそうに吐いた。

「まあ、良いや。とにかく行こうぜ? 学校探検だろ? 小桜さんも一緒に」

 彼女の怯えた様子は変わらない。私はため息を吐いた。

「松田君、由紀奈ちゃんは極度の人見知りだから」

「ああ、知ってますよ。でも、言うて話したこととかなかったし、俺も怖がらせないようにしてるつもりなんですけどねぇ」

「はぁ……」

 こいつ大丈夫かよと、能天気な笑顔を浮かべる彼に心の中で呟いた。

「ま、とにかく行こ、由紀奈ちゃん。初めは私の後ろに隠れてて良いしさ」

「はい……」

 彼女は消え入りそうな声で返事をした。


 寒蘭中学校は、外装も内装も至って凡庸な施設だった。壁の茶色い染みや木造から漂う抜けきらない田舎臭は、私の学生時代を思い出させるノスタルジックさを秘めている。歪んだ靴箱の蓋を見ていると、あの頃の声や風景が蘇ってくるようだった。

「雨森さん、どこから見たい?」

 視界に広がるのは、それぞれ階段に繋がる左右の廊下と正面の水道。造り自体は小学校でも見たものだと思うが、彼女は天井までをも目に焼きつけるように見渡していた。

「松田君の……教室へ」

「へーい」

 退屈なのか、口笛を吹きながら右の廊下へ歩き始めた。

 そうして階段を四階まで上がって、彼の学年である一年の廊下へ辿り着いた。壁には絵の具の汚れや落書きの跡もあり、思ういのほかかなりのヤンキー校なのかもしれない。

 彼のクラスである一年五組に入ると、彼女は初めて私の傍から離れた。辺りをじっくり眺め回し、たどたどしい様子で教卓まで歩き始める。時折窓の外のグラウンドを覗いたり、廊下に出て別のクラスに入ったりと、自由気ままに学校を探索していた。

 数十分後、彼女は少し口角を上げて戻ってきた。私以外の人の前で笑うのが恥ずかしいのだろう。手で口元を覆う仕草もあった。

「どうだった? 由紀奈ちゃん」

「雨森さん、楽しめたか?」

 彼女はこくりと頷き、また私の背後に隠れてしまった。彼は深くため息を吐いて、呆れ顔で「俺、要ります?」と問うてくる。

「一応ね、一応。ほら、由紀奈ちゃんも話しなよ」

 無駄だと分かっていながら、念のため会話を催促してみる。すると、彼女は彼に詰め寄り、勢い良く頭を下げた。

「あ、あの時々は、ありがとう!」

「……あの時々とは」

「え……と、いじめられてた時、声をかけてくれて……」

 彼女は耳を真っ赤にして、駆け足で私の元まで戻ってきた。彼は少し考えた後、「気にすんなよ」と無邪気に笑う。背後で彼女が頷いた。

 ごく普通の、青春の一ページだったと思う。でも、なぜだろう。彼からは、まだ信用しきれない嫌な予感がしていた。


 それから日が暮れるまで、私たちは学校を探索していた。美術室、技術室、音楽室、体育館、保健室と、隅から隅まで歩き回った。それは、もう学校には通えない彼女にとって、至福以外のなにものでもない時間だっただろう。

 彼とも、初々しさが抜けきらなかったが会話することが出来ていた。彼と隣に並んで歩くことは難しかったが、彼が話しかける度に、戸惑いながらも返答はしていた。

「じゃ、俺はこれで」

「うん、ありがとね」

 校門前で挨拶をし、彼を待っていたらしい、いかにもなヤンキー集団の群れへ消えていった。

「私たちも帰ろっか」

「はい」

 彼女は緊張感が抜けきらない様子で、私に引っ付いて歩いた。


 それからというもの、いつも通り子供たちを交えて夕食を取り、二十二時までみんなで遊んで病室へ帰るというマイルーティーンをこなしていたわけだが、どうにも松田君のことが頭の隅から離れなかった。

 これは、将来彼と彼女が結婚まで到達するかもしれないから、という良い意味ではなく、もちろん悪い意味を含んでいる。いや、悪い意味でしか構成されていない。

 どこが悪いのか、と問われれば、私は答えられなかった。ただ漠然と嫌な予感がするという、根拠の何もない、ただの人並みの勘だった。

 ただ、それが後になって的中するということを、今の私が知るすべはなかった。


「またどこか連れてってください」

 彼女は病室に入ると同時にそう提案してきた。私は少し考え、薄いコートを羽織った。

 出来れば今日のところは感傷に浸るというよりかは、普通に落ち着ける場所へ向かいたかった。彼女が彼のことをどう思っているのかとか、彼と恋人になれそうかどうかとか、色々と訊きたいことが溜まっていた。

 だが、どうしても私にとってあの男性は、信用に至るに至れない存在だ。我慢出来ずに、信号待ちになったタイミングで彼女に訊いた。

「ねえ、松田君のこと、どう?」

「どう、とは?」

 彼女は割かし鈍いところがあるのかもしれない。あるいは、恥ずかしいからあえてこういった反応を取ったのか。

「どうって、あれだよ、あれ。恋人になれそうとか」

「……」

 彼女が鈍いかについて、その答えは後者だったらしい。おもむろに顔を窓に背け、耳を赤らめて黙り込んだ。

「由紀奈ちゃん」

 催促する。彼女は深くため息を吐いて、「分かりません」と渋々答えた。

「変わり過ぎていて、どう見ていいのやらです。元々も、彼に恋していたわけではありませんし」

「じゃあ、彼が君のことを好きになったら?」

 私は彼女のエピソードトークから、てっきり彼は彼女のことが好きだからそうしていたのだと思い込んでいたが、今日のにじみ出ていた嫌々感からしてその線は消えただろう。

 あわよくば養ってもらう段階まで彼を落とそうと考えていたが、ヤンキー校に入って変わってしまったのだろうか。落胆せざるを得なかった。

 そうあれこれ考えている間、彼女というとずっと窓を見つめて黙り込んでいた。依然、耳の赤らみは消えていない。彼から告白された時の対応に、少なからずイエスの選択肢があるということだろうか。

「オーケーするの?」

「……」

「しちゃうの?」

「……分かりません。好きだったのなら、お見舞いに来て良かったと思いますし、今日、私に好意を寄せるような仕草はありませんでした。そもそも彼は私を好きになりませんよ。……結婚とか、そういう願望を少しでも抱いてしまった私がバカでした」

 彼女は遠い目で山の奥を見つめて答えていた。

 そんな時――信号が青に変わったタイミングで、私は視界の端に彼を捉えた。森の奥の廃れた公園のような場所で、夕方見た仲間と遊具で遊びながら何やら話し込んでいた。

 繰り返すが、彼に対する不信感は、根拠も何もないただの勘だ。それに、特別私の勘が優れているというわけでもない。

 だが、この嫌な予感は、確信に足りる何かを秘めていた。言語化出来ない不信感が、嫌な未来を想像させてしまう。

 どちらにせよ、その予感は彼の完全なるオフを拝見しない限りは恐らく、一生でも続いてしまう可能性がある。公園で戯れる彼は完全にオフだ。どのような会話をして、どのようなことで笑っているのか気になって仕方がない。私は近くの飲食店の駐車場に車を止め、「すぐに戻るね」と彼女に言い残して、こっそり彼らの元へ向かった。

 彼らの会話を盗み聞きするのは容易かった。何せ彼らはかなり興奮しており、その声は公園を越えて数メートル先まで響き渡っていた。

 私は適当な物陰に身を隠し、彼らの会話をキャッチする。

 その時にまさしく、私の勘は的中した。

「容姿だけは良いから、ヤり逃げするわ」なんていう、おおよそ中学生とは思えないその発言主は、松田だった。次に拾ったのは、「マジで今日地獄だったろ」という掠れた笑い声。「マジで時間損した」「でも、ちょっとおちょくれば落ちそうだし、面倒だけど今後も付き合ってくわ」という発言まで耳にしたところで、九十九パーセントそれがどういった意図で発せられたものなのかを理解出来ていたが、彼が、勘違いの仕様がない「雨森由紀奈」という名前を出した瞬間、私は吹っ切れて彼らの前に姿を現した。

「誰だよ、姉ちゃん」丸坊主が何か言っているが、イキり過ぎていてこっちまで恥ずかしくなりそうだ。

 松田は暗闇の中で私の正体を完全に視認すると、「やべ」と漏らして顔の前で両手を合わせた。

「小桜さん、だっけ? とにかくさ、あいつには黙っててくんないすか? マジ頼むってー! この通り!」

 初めから聞く耳を持つ必要がなかったので、無視して拳を震わせ続けた。

「ってー、無視ってことは、ノーで良いすか? そうなら、強制的に黙らせることになっちゃいますけど」

 舐め腐った顔でじりじりと近づいてくる。彼は傍に落ちていた、割としっかりとした木の枝を拾い、攻撃範囲内まで入ると後頭部まで振りかぶった。

「良いすかねー? 良いっすよねー? やっちゃいますよー? さーん、にーい、いーち……!」

 そうして木の枝は、私の頭を目がけて振り下ろされた。

 だが、当然、その攻撃が頭に命中することはなかった。当たる直前で、私が手で防いでいたからである。

 防いだだけではない。そのまま、彼以上の腕力でその枝を奪って捨てておいた。

 彼は怒りを露わにして殴りかかってくる。その攻撃は避けることも止めることもせず、あえて受けておいた。確かに痛かったが、その倍返しを、彼にお見舞いするために。

「……っ!」

 私は拳を彼の眼球の数ミリ前で寸止めした。そのまま殴ってやりたかったが、暴力は決して許されることではない。例え正当防衛が法で許されても、自分自身がそれを許せない。

 彼は腰を抜かさん勢いで後退りし、砂場まで駆けると、置いてあった鉄パイプを手に持って威嚇してくる。数秒後、仲間もそれに加わって鉄パイプを握ると、流石に背筋に悪寒が走った。彼らを裁くのは私でなくとも良い。警察にでも通報して、ことの経緯を説明して叱るべき人間が叱ってやれば良い。それで彼らが治まるとも思えないし、出来れば松田には一生刑務所に服役していてもらいたいが、とにかく、私がこの場に滞在し続けて、良いことなど何もないのだ。

 だが、なぜか足が後ろへ動いてくれない。それが恐怖によるものでないと分かったのは、自然と前へ進んだ時だ。

 ああ、そうだ。私は、ここで大きな怪我をすると分かっていても、引きたくないんだ。このイキりにイキりを越した松田とその連中に、このどうしようもない怒りをぶつけなくちゃ治まらないんだ。

「おっと、この人数でもやります? お姉さん強いねえ」

「数でマウント取るとかゴミかよ」

「は?」

 今、私の心の中でも、彼と同じような言葉が漏れた。生まれて初めて私は、人に対して悪口を言ったかもしれない。私は限りなく多様性を認めているし、本当に好かない人がいても、実際にそれを陰であっても声に出すことはなかった。

 自分自身が穢れた気がする。いや、人に一度でも本気で殴りたいと考えた時点で、もう既に心は汚れていただろう。

 私は彼らと、鉄パイプを相手にするに相応しい距離感を取ると、ジリジリと回りながら間合いを詰めた。

「おら!」

 男気のあるそのかけ声は松田だった。大きくパイプを振りかぶり、私目がけて振り下ろす。横にスライドするように避けると、横から見る、手がしびれる感覚にうなだれている彼があまりに滑稽だった。そこに注意を取られて、仲間の一撃に反応しきれず、右肩に酷い痛みが走った。

 人生の中で一番痛かった。骨折とか、打撲でさえ、デスクワーク一筋の私は味わったことがなかった。だからその一撃はあまりに新鮮で、途端に恐怖が全身を蝕んだ。

 直後、私は咆哮を上げた。それは、誰かにこの負け試合を止めてもらいたくて、でも逃げるのだけはしたくない私のプライドの悲鳴でもあれば、喝を入れるためでもあった。

 その咆哮は、あまりにも女性のものとは思えなかったと自分でも感じた。それは相手も感じただろう。一瞬だけ気を緩めた連中の一人からパイプを奪い上げ、彼らに当たらないと信じて、それでも痛めつける勢いで連中の方向を薙ぎ払った。

 彼らは素早く避けると、余裕を見せる意味を込めて警戒態勢を解いた。その隙に付け込んで、私はパイプで連中の一人を牽制し、武器を奪ってそれを近くの川に投げ捨てた。

 幸い予備はないらしい。武器を奪われた二人は、何も出来ずに困惑したまま立ち尽くしていた。

 ざっとしか数えなかったが、残りの数はもう二人にまで減っていた。パイプを振るう度に打撃された肩があり得ないほど痛むが、私の怒りを治めるのには関係のないことだった。

 松田ともう一人は目配せをすると、何のアニメに影響されたのか、はたまた単なる策士なのか、二手に分かれて私を囲み、パイプを空いたもう二手に伸ばして完全に私を包囲した。

 彼らは攻撃の機会を伺って、余裕のない真剣な表情で私を見据えてくる。その間にパイプを連中のパイプの方へ伸ばし、勢い良く振り上げて松田ではない方のパイプを打ち払った。だが同時に、松田から左横腹に容赦のない蹴りを食らった。

 蹴り、という攻撃手段に若干思考を巡らせつつ、連中をパイプで牽制しながら落ちた武器を奪い、また川に投げ捨てた。武器を失ったそいつは知的に笑って、残った彼らと一緒に見物席に立った。

「やっちゃえよ! 松田!」

「俺らが女に負けるのは、流石に先輩に舐められまくりだぜ!」

 気持ちが良いくらいに負け犬の遠吠えだった。右肩と左横腹を痛めながら、まるでアニメのワンシーンのように睨み合う。先に動いたのは、松田だった。

 パイプを槍のようにして突いてきた。幸運にも公園は広かったので、何とか当たらないように逃げながら反撃の機会を伺う。

 私はそのまま砂場まで逃げ込み、盛り上がった砂を彼に目がけて思いっきり蹴った。

 目に砂が入ればベストだったが、目くらましにはなったらしい。実際、その砂はかなり粉成分が強く、槍の軌道が横に逸れた。その隙を突いて懐まで侵入すると、力づくでパイプを奪い上げた。

 その瞬間、私たちの喧嘩にかけ声を送っていた連中は覇気を失い、松田は数歩後退った。私はもう片方の手にもパイプを握り、ジリジリ詰め寄って威嚇した。

 自分たちが負けたと完全に理解した松田は、真剣な表情を一変させ、ぎこちのない笑みを浮かべて連中の元まで後退った。流石にもう体に限界が来ていて、無様な姿も見れたことだし、さっさと去ってほしいところだった。

「おい、どうすんだよ」と、連中がこぞって松田に問い詰める。彼は意を決したように代表として一歩前に出ると、後頭部に手を回して掠れた笑い声を上げた。

「ごめん! もうあんなことは考えないし、俺たちの負けで良い。だからさ、このことは口外しないでほしいんだ。お願いしますっ!」

 神頼みする勢いで彼は手を合わせ、やがてその姿勢は土下座へと変わった。

 口外するつもりはないが、もちろんそんな要求を受け入れる姿勢を見せれば、またこいつらは調子に乗りかねない。私は両鉄パイプを頭上まで振りかぶった。

「ひっ!」

 震えた声で連中は、松田を残して走り去った。残された彼は恐る恐る顔を上げ、目の前の光景に酷く顔を引き攣らせた。

 そんな時、右肩に限界が来てパイプを落としてしまった。幸いそれは私の背後に落ち、彼が怪我をすることはなかったのだが、その金属音が彼の沈黙を破り、情けない奇声を上げて連中同様、走り去っていった。

 だが、彼だけはそう簡単に逃げられなかった。公園の出口に、怒りのオーラを漂わせる由紀奈ちゃんがいたからである。

「あ、雨森さん、これはさ……」

 彼女の手には、私が川に落としたはずの鉄パイプが握られていた。ホラー映画のワンシーンのように彼女はパイプを引きずらせて彼を後退りさせている。彼が声もあげられなくなった辺りで、彼女は鬼の形相で叫んだ。

「消えろ!!」

「は、はいぃ!」

 どうしようもなく惨めな彼は、肩をとんでもなく震わせると、しっぽを巻いて反対の方向へ逃げていった。

 私がこの現場で覚えているのはそこまでだ。

 痛みを我慢し過ぎて、意識が朦朧としていた。多分、私は彼女の前で一番見せてはならない傷まみれの姿で、公園に倒れ込んでしまったのだ。

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