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外に出た途端に私は思った。これは素晴らしいな、と。
いつかネットで『朝五時くらいにコンビニまで歩くのも感傷的になれて良い』という文章を目にし、その情景を妄想して楽しみにはしていたものの、前日の疲れなどでそんな早起きは出来ず、今の今までやってこずにいた。それを今、由紀奈ちゃんと一緒にすることが出来る。
夏になりかけの季節だが、早朝の風は流石に体が震えた。隣で「寒い」と手に息を吹きかける彼女に上着を差し出し、それでも「寒い」と言うものだから、彼女を抱っこして人肌に触れさせてあげた。
見えるのは、ただの寒蘭の民家と小店。ただでさえ閑散とした景色なのに、時刻も相まって、本当に人っ子一人も見当たらなかった。
「こういうのは、あえて風に当たった方が良いですね」
「分かってるじゃん」
彼女は地上に足を付けると、私の手を取って歩き始める。私はポケットから持参しておいたイヤホンとスマホを取り出し、装着すると彼女に片方差し出した。
「いる?」
「ああ……良いですね」
彼女は薄く微笑んで片耳にイヤホンをはめた。
何を流そうか迷ったが、私は曲ではなくピアノを流した。曲を流すと自分一人の世界にのめり込んでしまい、せっかく二人でいる意味がなくなってしまうため、ほどよくBGMとして馴染むピアノがこの状況では適任だと思った。
プレイリストには『戦場のメリークリスマス』『飛簾』など、感傷に馴染む落ち着いたものばかりが入っている。その素晴らしい楽曲たちを背景に、私たちは歩いた。
しばらくすると、目的のコンビニが見えたが、私たちは次のコンビニまで歩いた。その次も見えたが、また歩いた。歩く理由がほしかった。いつまでもどこまでも、この世界にいたかった。
またしばらくした時、ふと彼女に目を落とすと、泣いていた。涙をぼとぼとと、嘘みたいに落としていた。
「未希さんには、この世界がどう見えていますか?」
掠れた声を震わせて問うてくる。私は瞳に映るままの景色を答えとした。
「良い。簡略化はしてないよ。ただ、良いんだ」
「……私は」
少し溜めて、彼女は鼻水をすすりながら、顔をぐちゃぐちゃにさせて紡いだ。
「私は……嬉しいです……。私という孤独の人間が……誰かとこうしていられている幸せと……、感傷に馴染むピアノと世界が、心の隙間を全て……埋めてくれています……。ずっと、今のまま……あなたと一緒にいたいです……」
「……そっか」
その後も私たちは、その世界を歩き続けた。日の光が眩しくなった辺りで、コンビニで朝食を買って、帰って食べた。
彼女の将来に対する答えに、納得のいくものはまだ出ていない。
散歩していた時間、何も考えていなかったわけではなかったのだが、やはり依然として答えは出なかった。
ただただ、彼女の病気を食い止めたいという、叶わぬ意思だけが固くなり続けるだけだった。
「今日はどこに連れていってくれるんですか?」
そう彼女は期待を胸に尋ねてきた。私は微笑んで「うーん」と唸っている間、かなり今日という時間の過ごし方を試行錯誤していた。
母親を探し出しても、どこへ連れていっても、彼女には結局、全てを忘れて赤ちゃんに戻る日が来てしまう。そう心に受け止めると、私たちの今までが全て無駄に思えてしまった。
私らしくもない。誰もがそう言うだろうし、自分が一番理解している。だが、私らしくしたところで、せいぜい進行に抗う程度のことしか出来ない。赤ちゃんに戻る日はやってくるんだ。
彼女から見て今までの私の行動は、どう映っていたのだろう。
彼女は、今私が感じている絶望を既に経験している。その答えとして、死を選んだのだから。
待て、と一旦思考を遡る。そんな彼女に生を促したのは、どこのどいつだ? 私じゃないか。その私が彼女の生を否定するようなことを考えていたのか?
盲点だった。間違いなく私はバカだ。
彼女を生きさせたのだから、それなりに責任は取らなければならない。彼女は私に縋ったのだから、その見返りを出さなければならない。
彼女をずっと、ずっと笑わせて、死ぬ気で来たる日を先延ばしにしよう。
それでもって、彼女の母親を必ず見つけ出そう。その人に彼女を養ってもらえることが出来れば、退院後の住居も確保出来る。彼女を手放した理由が単に捨てただけだったり、向こうにどうしても無理な事情があったりする場合は、祖母とは縁を切る覚悟で私が養おう。
彼女は私に縋った。だからこそ、どうしようもなく暗い未来が待っていようとも笑っていられる。なら、それくらいのことはしてあげなければならないだろう。
ようやく私の中に決意が固まった。それは本来なら、彼女を助けたあの日に抱くはずのものだが、私の小さい頃からのくせのせいで、今になって考えてしまった。
けれど実際、ここまで時間をかけて悩んだ物事を、あんなに緊迫としていた状況下で出せたかと問われれば、誰もが首を左右に振るんじゃないだろうか。
まあ、その答えはどちらでも良い。結果として無事に覚悟が芽生えたのなら。
気がつけば、随分と彼女は直立不動の私の体で遊んでいたらしい。寒いと思ったら、服を胸までたくし上げて、谷間にトランプを挿し込んで笑っているじゃないか。
私は彼女の運命を受け入れる。それでもって、抗う。今まで通り、最高の笑顔を彼女にプレゼントしていこう。
「由紀奈ちゃん」
「は、はい?」
私が少し強めに両肩に手を置くと、彼女はシャッフルしていたトランプを床に落としてびくりと震えた。
真剣な表情に困惑して目を泳がせる彼女に、強い意志を込めて言う。
「お母さん探し、素人じゃ、もう限界が来てる。探偵に相談しよっか」
「……え?」
彼女の目は、ゆっくりと私の方へ向いた。
依然困惑しながら、彼女は小さな声で問う。
「今、なんて……」
「え? 探偵に相談しよっかって言ったけど」
「……っ」
何か言いたげに、しかし口が思うように動かないのか、彼女は無言で辛そうに首を左右に振った。こうやって彼女を困らせたり、嫌な想いをさせたりするのは現実への執着心が薄れてしまう恐れがある。だが、どうしてもそのわけを知りたく、私は彼女に問い詰めた。
「どうして? まさか、探偵にトラウマがあるの?」
「…………」
彼女は随分と黙り込んだ後、静かにこくりと頷いた。
「だから、やめてください。お母さんを探すのは……」
「……分かった、探偵はやめるよ。別の手段を探そう」
「…………」
また、彼女は黙り込んでいた。というよりかは、息を呑んでいた。
こういう場合、人は裏で探偵を雇うかもしれない。探偵には水面下で動いてもらって、母親を探し出すかもしれない。
だが、冷や汗を盛大に掻いて、怯えるように震えて拒絶する彼女を見ると、それはもうサプライズでも何でもなく、ただの嫌がらせのように思えた。
私は彼女を優しく抱きしめ、背中をさすって「ごめんね」と繰り返した。ほどなくして、私の胸に水分が浸透していることに気がついた。
その後、昨日の続きとして、彼女を子供たちと公園で遊ばせた。
「由紀奈さん、シャボン玉しよ~?」
「あっ! シャボン玉!? したい!」
そうやって、一緒になって球体を作って遊ぶ彼女を見ていると、なおさら思ってしまう。赤ちゃんに戻る前に、何としても母親を見つけ出さなければならないと。
子供たちとの遊びは昼食と夕食を挟んで十八時頃まで続いた。由紀奈ちゃんを含め、すっかり就寝モードだが、私は彼女を乗せて佐木市へ向かった。現状で、最も大きな手がかりとなり得るのはそこだからだ。
彼女が目覚めたのは二十二時だった。焦るあまり、今日連れてきてしまったが、こんなに遅くなるのなら明日にすれば良かったと今更後悔した。
「未希さん、ここは……?」
ベンチで私の太ももを枕に寝ていた体を起こし、都会の景色を眺めながら問うてくる。私は財布からクレジットカードを取り出した。
「何か思い出すかなって。でも、もう今日は遅いし、ホテルにでも泊まろうか?」
「ホテル……」
彼女はおもむろに薄暗い空を見上げ、「ホテル……」と再度呟いた。
「……ダメかな?」
「いえ、良いんですけど……聞いたことがあります」
「そりゃ……生きてたら聞くこともあると思うけど」
「じゃなくて、幼い頃……お母さんとお父さんと、『またホテル』って……言ってたような……」
「……?」
思い出してくれたのは嬉しいが、まるで何のことか分からない。
「由紀奈ちゃん、佐木市に引っ越した時に、お父さんはいた?」
「はい。亡くなったと告げられたのは、おばあちゃんたちに引き取られた後ですから」
「その引っ越しとホテル泊まりは、どっちが先か分かる?」
「……すみません、それは……」
流石に無理があったらしい。何とか泊まったホテルを見つけることが出来れば、何か思い出してくれると思ったのだが。
そうして私たちは、駅から徒歩一時間ほどのホテルに予約を取った。かなり距離としてはあるのだが、せっかくなので駅近の格安ホテルなんかよりも、もっと豪華な場所に泊まりたかった。
だが、何せホテル予約なんて生まれて初めてするものだから、一泊九千円ほどのホテルを豪華と勘違いしてしまった。いや、実際、九千円のホテルは豪華なのかもしれない。だが、そこの内装はかなり古風なもので、私が想像していた噴水や体育館ほどある広いロビーとは全く作りが違うものだった。
中に入ると、まるで市役所みたいに受付とベンチとパソコンのみの、予想よりもかなり狭いロビーに繋がった。清潔感こそ保たれているものの、右の短い廊下を抜けたすぐに客室は配置されており、外観から四階くらいはありそうな造りだったが、一階から部屋を配置する辺り、中は案外広くないらしい。修学旅行で体験したあのだだっ広いホテルは相当なお金がかかっていたんだなと、身に染みて実感した。
と、ここまでおおよそ文句のようなことしか言っていない私だったが、私が想像するホテルっぽい造りの箇所もあった。まず、ロビー横のエレベーターがそうだし、左に進めば自販機、客間、螺旋階段と、既視感は強まった。
そして、一番それを実感させたのは、私たちが泊まる寝室だ。数歩歩けば壁から壁まで往復出来るほどの空間なのだが、綺麗に整ったベッドのシーツ、一切の汚れが見当たらない白壁は、まさしくホテルのそれだろう。
この時、私はこのホテルにノスタルジックさを思い馳せると共に、私は未開の地に足を運ぶ度に感傷に浸れるのだと理解した。それは大勢の人がそうなのか、私だけなのかは分からない。
彼女はどうだろう。ここに来て一度も口を開かず、ただ内装を眺め続けている由紀奈ちゃんだが、私と同じような感情に浸れているだろうか。とんとんと優しく肩を叩いて訊いてみた。
「ねえ、由紀奈ちゃん、どんな気持ち?」
「…………いえ、何でもありません」
「……?」
質問の返答になっておらず、疑問符を浮かべると浮かべ返された。ほどなくして、彼女は小首を傾げて言った。
「あれ、すみません、何て言いました?」
「由紀奈ちゃんが、ホテルに来て何を思ったかだけど」
「ああ、そうですね……良いと思います」
適当にあしらわれた気がする。何か隠しているのだろうか。彼女に優しく詰め寄った。
「……もしかして、何か思い出したの?」
「えっと……」
彼女は泣きそうな目で困惑しながら、何かについてずっと思いを悩ませているようだった。
そして彼女は決心がついたのか、ついに口を開いてくれた。
「えっと、その……お母さん探しは、もう良いです。やめましょう」
「え……?」
言葉の意味が理解出来ず、「どうして?」と少し強めに問いただしてしまう。
彼女は冷や汗を掻きながらも冷静さを何とか保とうとしている。私に上目遣いで可愛らしく笑ってみせた。
「未希さんと一緒にいる方が、楽しくなっちゃって……。ずっと今のまま、一緒が良いです」
「……そっか」
嬉しい言葉ではあったが、彼女の将来のことを考えるとそうは言えない。母親が見つからなければ、彼女を引き取る人がいないことになる。
「由紀奈ちゃん。でも私は、君のお母さんを探すよ」
「ど、どうして?」
「だって、子供を育てるのは、母親の役目だから。どうしても無理な場合は、私が何とか養ってあげたいけど、基本的には、お母さんが君の面倒を見なくちゃならないから」
「……それは……」
そこまで伝えると、彼女は焦点の合わない目を見開いて、体を震わせて私に抱き着いた。
「いつでも家には遊びに行くよ。離れ離れになるわけじゃないからね」
そう訴えるが、彼女にはこの言葉が届いているのだろうか。嗚咽は、泣き声は酷くなるばかりだった。
その夜も、私は眠れなかった。母親は探し出さない方が良いのだろうかと、常識との葛藤を繰り返していた。
せめて、両親が彼女を手放した理由くらいは知りたいものだが、それすらも彼女を苦しめてしまうのであれば、もう彼女のためにも、母親に対する詮索そのものをやめてあげたい。
だが、そうなればいよいよ私が彼女を養っていくということになるが、果たして本当にそんなことが可能なのだろうか。祖母に泣きながら土下座でもすれば認めてくれるだろうか。そもそも認知症の祖母と正しい対談を交わせるのか?
施設や逃避行。それも視野に入れざるを得ないか。
そういえば、母親の件をなくすのであれば、次に叶えさせてあげたい願いとして恋と結婚があるが、彼女は学生時代、男子ウケはどうだったのだろう。対人関係については察することが出来るが、容姿は良いのだから、一人くらい惚れている男子がいてもおかしくはない。
確かに彼女をこの先ずっと背負っていく覚悟を持てる人間は早々いないだろう。だが、もしも彼女のことが好きだった人間がいるのであれば、話は少し変わってくるかもしれない。
目が覚めたら十二時だった。昨日は寝てなかったし、今日もあまり寝つけずにこんな時間での起床となってしまった。
「おはようございます、未希さん」
不意に玄関の方から彼女の声が聞こえ、飛び起きて愛想笑いを浮かべた。
「いやぁ~、寝すぎちゃったわー、ははは」
「はい」
「……ごめん」
「……そんなことですか」
彼女はくすっと笑みをこぼすと、ベッドにダイブして抱き着いてきた。
「それよりも、今日はどこに連れていってくれるんですか?」
「ふふっ、本当に楽しみなんだね」
「一応ね」
言葉こそ恥ずかしがっているものだったが、両足をジタバタさせて目を見据えてくる辺り、もうツンよりデレが勝ってるな、という印象。そこまで私に付け込んでくれるのは本当にありがたいことなのだが――、
「あ」
母親の方にもその愛情を注いでほしい、と続けようとして、昨日考えていた全てを思い返して口をつぐむ。男子との関係について、早速彼女に尋ねてみた。
「由紀奈ちゃん、告白されたことある?」
「え、告白ですか? ないですけど」
「じゃあ、私のこと好きかも、って人はいた?」
「いや、いないですね」
「確実にそう言い切れるの?」
「はい。だって私、いじめられてましたから」
開いた口が塞がらなかった。石像のように固まってしまった。
だが、彼女は少し微笑んで、「でも」と続ける。
「彼は、そうだったのかもしれません。いじめっ子に反抗していたわけではありませんが、いじめられた後、大抵彼は、辛かったねと声をかけてくれたんです。私にとってそれはものすごい救いになっていました。いじめられても、この時間が終われば、また、彼は駆けつけてくれるって、信じてましたから」
「……そんな子がいたんだ」
「はい」
その話は、本来の目的をより強固なものにする、心温まるエピソードだった。
「由紀奈ちゃん、学校に行こう。それでもって、その子に会うんだ」
「え、ええ?」と困惑した様子で彼女は苦い顔を浮かべる。
「いきなりどうしたんですか?」
「恋が、結婚がしたいって言ってたじゃん。だから恋させてあげるんだよ」
「いや、いいです」そう彼女は頬を膨らませてぷいっとそっぽを向いた。
「ど、どうして?」
「確かに彼には救われましたが、今の今まで私は、彼のことを忘れていました。きっとそれは恋ではなく、ただの救いだったんです。……結婚は確かに、ものすごく夢ですが」
「でも、学校には行きたいでしょ? 前に言ってたじゃん。そのついでだと思って、再会してみない?」
「……嫌です」
頑なに彼女は頷かなかった。気が変わったにしても変わりすぎだし、彼女の中で何が起きたのだろうか。それを深く考える前に、彼女は再び口を開いた。
「……胃が、張り裂けそうなくらい、痛くなります」
「……そうなのかぁ」
これはただの人見知りというよりかは、対人恐怖症のような種類の病だと診断して良い。まずは薬を飲んでもらうことから始めるべきなのは、お腹を抱えて表情を歪める彼女を見れば一目瞭然だった。
けれど、彼女は苦しそうに言った。
「……やっぱり、行きます」と。現実への執着心を濃くしなければいけないと思い至ったのだろう。私はそれに反対した。
「由紀奈ちゃん、無理はしなくても良いよ。一度病院に戻って」
「いえ、……やっぱり、会いたいです。さっきのは、あなたに背中を押してもらいたくて、あえてネガティブになっていただけです」
「本当に?」と私は念を押した。
「……でもやっぱり、学校探索はあれですね。人が少ない、休日が良いです」彼女は少し、苦い笑いを浮かべていた。
そうやって休日までの二日間、その日を心待ちにして過ごした。
既に地元の中学校に進学していた彼――
決戦の日が、やってきた。
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