8
彼女が目覚めたのは十八時だった。ちょうど起こそうと思っていた矢先だったので、病室には既に、子供たちも待機していた。
「未希さん……みんな……」
「由紀奈ちゃん、体は大丈夫?」
私も子供たちも、彼女にかけた言葉はそれだった。少しシュールな空気感で、彼女はおかしくなって笑い出す。
「大丈夫。ご飯でしょ? 行こ?」
「うん!」
私の手を取り、スリッパを履いて病室を出た。
夕食を食べ終え、いつものようにみんなで遊んだ。トランプ、ジェンガ、戦隊ごっこ。どれも由紀奈ちゃんは楽しそうにしていて、すっかり馴染めているようだった。
二十二時。いつもの時間に別れ、病室へと戻る。
彼女はベッドに寝転び、何か考えごとをしているようだった。野暮かと思い訊かずにいたが、少し気になって問うてみた。
「ねえ、悩みごと?」
「……悩みごとと言いますか……悩みごとですね」
「私、力になれるかな?」
「未希さんは、もう私の力になってます。力の源のようなものです。心配は要りません」
「そっか」
嬉しいような、悲しいような。とにかく、これ以上の詮索は止した方が良さそうだ。彼女が心配要らなというのなら、私が深追いする必要はない。
「でも」
「はい?」
「病気のことについてだったら、包み隠さず言ってね。これはお願いじゃなくて、看護師としての、義務みたいなもので」
「すみません……」
彼女は私の方へ向き直り、微笑んで首を左右に振った。
「病気については、本当に何も起きてませんから」
「そっか。体の変化とかは? 見た限りでは大丈夫そうだけど」
「心配要りません」
そう答えると、彼女はスリッパを履いて私の手を取る。
「どこか、連れていってくださいよ」
「え?」
「久しぶりに、夜の景色を観たいんです」
そうお願いする彼女は、本当に今が幸せそうな顔をしていた。
それを見て私は確信する。今、私に出来ることは、彼女の笑顔を絶やさないこと。今悩んでいるのなら、なおさらだ。
「分かった、行こう」
こうやって彼女と夜に出かけるのは、今日で三度目になる。正直、もう寒蘭には絶景スポットなんてない。ノスタルジックに浸れる場所なら多いが、それを望んでいるのは私だけではないだろうか。車を走らせながら彼女に訊いてみた。
「由紀奈ちゃん、どういう景色が観たい?」
すると彼女は少し考えた後、
「未希さんの好きな場所なら、どこでも良いですよ。多分、私と未希さん、感性が似てるんだと思います」
嬉しそうにそう答えた。
となれば、もう行き先は決まった。私は病院から車を十分ほど走らせ、寒蘭の繁華街にやってきた。
繁華街と言っても、店には客が誰一人として見えなかった。田舎なだけあって、ここが賑わうのは、言ってもせいぜい祭りの日くらい。先が見えないくらい続く長い商店街だが、通常日はそこまで人は寄ってこないのだ。
だが、それが良かった。この世界にはもう、私たちしかいないような錯覚に陥れるからだ。
「良いですね」
「そう?」
「はい。おおよそ、未希さんのような人が好むとは思えない仄暗さもあります。前から気になってたんですが、何でこういうノスタルジック……? な、感傷に浸れるものが好きなんですか?」
「うーん……」
私は返答に困った。けれど、隠していても仕方がない。それに、病気のことであっても、彼女に隠しごとをしないと義務づけたのは正真正銘、この私だ。私は包み隠さずに、二人しかいない世界を歩きながら心の傷を打ち明けた。
「孤独なんだ、私。中学から進学校に入って、ずっと勉強漬けの毎日を送ってたんだ。特に目標はなかったけど、勉強は将来の役に必ず立つから私も頑張ってて、両親は議員になれって厳しくしつけてきた。
本当に勉強漬けだったんだ。少しくらい休息はあるだろうって思うかもしれないけど、本当に、ずっと、ずっと。友達はいたし、むしろ、こんな性格だから、クラスでもムードメーカーな方だった。でも、遊びに行かせてもらえたことなんてなかった。
看護師という夢が出来てからも、その道に勉強はそこまで必要じゃないのに、いずれは役に立つって祖母の教えで、変わらず勉強の毎日だったんだ。で、その頃も今も思っちゃうの。勉強なんかよりも、友達とワイワイはしゃいでた方が、今よりも楽しいんじゃないかって。
確かに将来の選択肢は増えるけど、学生時代は思いっきり青春して、彼氏作って、ほどほどにサラリーマンとかになってた方が、何となく楽しいのかもしれないなって。
そう自覚した時、初めてその劣等感は傷になったんだ。だから今になって、こういう感傷に浸れることをすると、あの頃を思い出して、泣きたくなる。子供たちを笑わせるのも確かに良いし、そのために看護師になった。由紀奈ちゃんと出会えてからも、ずっと楽しい。でも、昔を思い出すと泣きたくなっちゃうんだ。本当に青春時代を勉強一本に振っちゃって、良かったのかなって。実際、それは何の役にも立っていないわけだから」
「未希さん……」
彼女は数十秒、深刻な顔つきで黙り込んでいたが、途端に私の袖をくいっと引っ張ると、泣き目になって慌ただしく問うてきた。
「私に、何が出来ますか? 未希さんのために、何が出来ますか?」
「……そんなことしなくても良いんだよ」
「いえ、させてください。未希さんはそんな過去を持っていながら、今だって、私のためにずっと頑張ってるじゃないですか。私、何でもやりますから!」
「……ありがとうね」
彼女を抱きしめ、頭を撫でる。しかし彼女は私の体を突き放して、戸惑いながら叫んだ。
「ほ、ほら! こういうのですよ! 私に気を遣う必要はありませんから!」
「いやいや、抱かせてよ」
「ダメです! 気は遣わないでください!」
「え~? 私は由紀奈ちゃんをもふっとするのが好きなのに」
「えぇ? 本当ですか? また気を遣ってるだけじゃ――」
疑心暗鬼にもほどがあった。
だから私は、彼女の言葉を遮って、勢い良く抱きしめた。
「私はこれで良いの。これが幸せなの」
「ほ、本当ですか……?」
「うん。だから心配しないで」
「……はい……」
彼女はようやく納得してくれたのか、くすりと笑って抱き返してくれた。
その夜、私は酷い夢を見た。明日突然、由紀奈ちゃんが赤ちゃんまで戻っているという夢だ。
いつものように気持ち良く目覚めることが出来ず、部屋中に響き渡る赤ちゃんの泣き声。私は初め、寝ぼけてそれを鳥の鳴き声なのだと錯覚して、「うるさいなあ」と不機嫌に呟いて体を起こした。
泣き声はベッドの方からしていた。そう理解した時にはもう、眠気なんて吹き飛んでいた。
「おんぎゃあ、おんぎゃあ」と泣きわめいているのは、恐らく由紀奈ちゃんだった。ぬいぐるみサイズまで体は縮んでおり、重そうな、髪の抜け落ちた頭を引きずって、細くて小さな手足を存分に動かし、必死に起き上がろうとしている。その異質な光景は、私に重度の頭痛と腹痛と吐き気を襲わせた。
――いつかはこうなるのかもしれない。そう考えた時、私は初めて自分の過ちに気がついた。全力で現実への執着心を増やさせると啖呵を切ったものの、それはただの現実逃避に過ぎなかったのだと。
何せ、身体呼応症候群は不治の病だ。威勢は良いものの、冷静に考えれば誰でも予想がつく。どれだけ現実への執着心を抱いたところで、治るわけがないことが。
私はそれを理解していた。だが、どうすることが正解なのか分からず、そこから逃げてしまった。
もう一つ逃げていることがある。あの日、私は『彼女が生きたいと願うなら、それを叶えさせてあげたい』という想いを心に誓ったが、それしか答えを出せなかった。その前に提示されていた『こんな私が生きていても価値があるのか』という問いに対しては、彼女を社会的に見た時にネガティブな方向に進んでしまう自分の思考が嫌で、怖くて、『そんなことはない』と無理に論点を歪ませていた。
いつまでも答えが出せずにいた理由は、この前の手術の影響が大きいだろう。この一か月、症状はある程度食い止められているらしいが、そのせいで危機管理能力が上手く働かなかった。
未だ病室に鳴り響く彼女の泣き声。そんな酷い夢から覚めて、真っ暗闇な天井を見つめて考え直す。『そんなことはない』『何とかなる』といった曖昧な答えを抜きにして、彼女のこれからに、どう向き合うか。
けれど、いくら考えても、その将来は『無理』に帰結すると思う。
私は、彼女との闘病生活を間違っていないと考えていた。今のそのつもりだ。だが、彼女の将来への答えとして、ほんの少し、ほんの少しだけ、思考に過ってしまう。死んだ方が、マシなのではないだろうか、と。
彼女は一生大人にはなれない。人とはまるで違った生き方をしていかなければならない。
彼女は恋も結婚もしてみたいと言った。一生子供のままで、なおかつ毎回記憶を失う彼女を一生背負って生きていける人間が、果たして現れるだろうか。
その人間に一応、私はなれる覚悟がある。だが、覚悟があるだけで私の性別は女性だし、例え男性だろうと何だろうと、家庭の事情が、不治の病を患う彼女を引き取るなんてさせてくれない。
小桜家の頂点に君臨する認知症の祖母は、いつまで経っても社会主義者だ。例を挙げると、勉強漬けの学生時代に一度、自分が歩む青春が正しいのか分からなくなって、とりあえず勉強机から逃げ出したいという衝動に駆られて家出したことがあった。
その家出は警察まで出動するほどの騒ぎになった。数時間後、公園で警察に発見された私は無事に家に帰されたわけだが、誰もが涙を流して心配する中、祖母は「勉強もしないで何やっとる!」と、家でも揺れるのではないか、なんて錯覚を抱かせる迫真の叫び声で私を叱った。
両親に私を議員の道に促すよう命令したのも祖母だ。だから、看護師になりたいという夢を打ち明けた時は、「高収入職に就け!」と、祖母は私の頬を思いっきりビンタした。その威力は首がぐるんと一回転しそうな勢いで強く、今でも鮮明にその痛みを思い出すことが出来る。
結局、看護師が女性の職種の中では割と高収入な方、ということで何とか甘んじて許されたわけだが、これは、家族が土下座してくれたり、まだ認知症が進行していない段階だったりという点が大きい。心の底から納得している様子もなかった。
なんていう小難しい家庭事情が私にはあり、彼女を養っていくデメリットを考えると、祖母はそれを許さないだろう。例え無理に家に押し入れても、彼女の居心地は最悪に等しい。私が見ていないところで、祖母に何をされるか分かったものではない。だから、彼女の将来への答えは『無理』に帰結してしまうのだ。
何はともあれ、私は全てにおいて先延ばしにしていたに過ぎないということが嫌というほど分かった。学生時代、机にたまった消しカスの掃除をいつも後回しにしていたように、私は今回も後回しにしていたのだ。それも重大なことを。
そうやって私は、彼女がベッドから起き上がる時まで悩み続けていた。カーテンからは仄暗い光が、微かに暗闇を照らしていた。
敷布団に寝転がる私の体を跨ろうとした時、瞼が半開きの彼女と目が合った。私も眠れないだけでかなり眠気はあったが、彼女に寝ていないと悟られないように気持ち良さげに体を伸ばす演技をした。
「おはよう、由紀奈ちゃん。今何時?」
「おはようございます。今は五時半です」
五時半に私たちが起きている、ということを自覚した時、私は急いで飛び起き、カーテンから外の空を覗いた。
まだ太陽は出きっていない。薄暗い光が寒蘭を包み込んでいる。由紀奈ちゃんから「どうしたんですか?」と尋ねられ、私は欲望のままに言った。
「コンビニに行こう」
「……はい?」
私は困惑したままの彼女を置き去りに、急いで身支度を整えた。
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