11

 目覚めると同時に、福瀬先輩が部屋の中に入ってきた。彼女は呆れた目で私の額にデコピンをする。

「右肩の骨にヒビあり、左横腹に打撲あり。えーっと、これはどういう状況ですかねぇ~」

 先輩はそのまま指を額にぐりぐりと押しつけてくる。私は心配させないために、「チンピラに絡まれたんです」と答えておいた。

「チンピラ、か。何で絡まれたのかしら?」

「えっと、まあ、色々あって……」

「色々、ねぇ……」

 先輩はポケットからライターを取り出し、カチカチと音を鳴らしながら悲しそうに言った。

「あの子、泣いていたわよ」

「……」

「わんわん泣いていたわ。あほみたいに泣いていた。あなたのケータイからアタシに電話をかけてきて、助けて、って言ってね。状況は話してくれなかったけれど、あの子は絶縁したはずのアタシに、治るんですかって、ずっと、ずっと訊いてきたわ」

「……あの子には嫌な思い、させちゃいましたね」

「本当にね」

 ライターを仕舞い、ドアノブに手をかける先輩。

「とにかく、あの子のためにも、もうこんな危険な真似はよして。良い?」

「はい」と、包帯をミイラ男みたいにぐるぐる巻かれた右肩に目を落とす。相手が中学生だったから良かったものを、高校生以上だったら、どうなっていたか分かったものではなかった。

「じゃあね」そう言い残して先輩はドアノブを回すと、扉にもたれかかっていたらしい由紀奈ちゃんが背中から倒れてきた。

 先輩がそれを支えてあげると、彼女は一目散に先輩から離れる。その後、先輩に頭を下げようとしていたが、何かを躊躇い、その後も、頭を下げるべきか下げないべきか、自分の中の何かと闘っているようだった。

 先輩は最後、「小桜が羨ましいわ」とこぼして廊下へ出た。数秒間、彼女は閉められたドアを眺めて何かを考えているようだった。感謝の気持ちを表すのが恥ずかしいのは、子供なら何となく想像出来る話である。

 彼女はその後、私の存在を思い出したのか、突然振り返るとベッドの方まで駆け寄った。

「み、未希さん、大丈夫ですか!?」

「うん、何とか」

 体を起こして、心配させないために微笑んでみる。彼女は起き上がる私を見て、すぐに体を支えて寝かしつけてきた。

「いや、由紀奈ちゃん、本当に大丈夫だって」

「で、でも、痛いんですよね?」

「痛いけど、特に痛むのは右肩くらいで、横腹はどうってことない。だから、生活にはあまり支障はないよ」

「そう言われましても……」

 疑心暗鬼に陥る彼女。実際、私の言葉は強がりに聞こえたかもしれない。

 私はもう一度起き上がり、手首の骨を鳴らして窓から差し込む日差しに目を細めた。チリチリとしていて蒸し暑い。だいたい時刻は昼頃ってところだろうか。

「由紀奈ちゃん」

「はい?」

 少しこれからの未来に思いを馳せて、これだけは訂正しておかなければならないだろうと、昨夜の件について口を開いた。

「あんな男子は一部だけだから。世界って広いし、本当に君のことを考えて、結婚してくれる人はきっと見つかるよ」

「……」

「だから、早々に忘れよう。それで、また次の恋を探そう」

「……未希さん、すみません」

 唐突に彼女は謝った。何のことか分からずに小首を傾げていると、彼女はぼとぼとと涙を落としながら、悔しそうに紡いだ。

「もう……結婚なんてもの、諦めます……」

「ど、どうして?」

「怖いんです……」

「……でも、もっと他に良い人がいるって」

「そうかもしれませんけど……もう、無理です」

 彼女は涙を手の甲で拭うと、「ははっ」と強がりみたいに笑って紡ぐ。

「同年代や、年上の男性を見ると……鉄パイプで襲いかかる彼がフラッシュバックして、怖くなりました……。良い人だと分かっていても、無害だって自分に言い聞かせても、次の瞬間には、その男性も、私に襲いかかってきそうな気がして、ならないんです……」

 それは、男性恐怖症という心の病だった。

 彼女がいじめられていたと発覚した時、学校に行こうと提案して、極度に胃を痛めた時、私の中のプレッシャーは一段階ずつ上がっていった。そしてそれは、男性恐怖症という病も重ねて、今、頂点まで上り詰めてしまった。

 私は私自身を高く評価しているつもりだ。勉強も学年トップだったし、学校でもモテる分類に含まれていて、何度か男子から告白を受けたこともある――恋愛に興味が持てなくて、全て振っていたのだが――。社会に出れば看護師という高収入かつやりたいことを仕事に持ち、控えめに言って、ある程度の人が『羨ましい』と言うようなスペックを兼ね備えていると自負していた。

 そんな私だからこそ、きっと由紀奈ちゃんの救いになれると、今の今まで笑わせ続けてきた。どんなにプレッシャーが高まっても、意思が挫けることはなかった。だが、そのプレッシャーも限界に達し、今私は、そこまで自分が優秀な人間ではない気がしていた。

 私にそんなことが出来るのかと、この瞬間、初めて挫折も味わった気がする。運動などは優れていなかったが、初めから苦手だという意識を持っていたので、やる前から諦めることが出来ていた。だが、確たる自信を持っていた児戯関連において、初めて不安に陥っていた。

 だが、同時に希望も見出した。ここで私が挫ければ、それこそ彼女を支える人間は、誰一人としていなくなる。プレッシャーなんてどうだっていい。私が彼女に付いてやらなければならないのだ。

 見れば彼女は考え込む私を、不安そうな顔で覗き込んでいる。もうそんな顔はさせない。ずっと笑わせ続けるんだ。

「よっこらせ」

 私は立ち上がると彼女の手を取った。

「病室に帰ろう」

 そう微笑むと、彼女は心配顔の面影を残しながらも、「はい」と嬉しそうに笑ってくれた。

 廊下に出て、いつも通りの病院の光景が映り込む。ずっと由紀奈ちゃんといたものだから、こういった混雑した病院内というものに新鮮さを見出せた。

 その人混みの影の中に、知人の姿を映した。

 ただの怪我だっていうのに、由紀奈ちゃんといい、なぜここまで心配するのだろう。彼女はコンビニ袋か何かを手にぶら下げてこちらに歩み寄ってくる。彼女――母親の背後に、祖母も映り込んだ。

 祖母の外見は、いかにもなおばあちゃんといった感じで、服装も古臭い毛玉まみれの派手な柄のものだ。身長は、平均的な中学一年生女子レベルのもので、由紀奈ちゃんと良い勝負をしている。何重にもしわが寄った顔つきは、もはや元々の怒り顔も相まって感情が読み取れないまである。杖を付いて、前かがみの様子で母親より一歩前へ出た。

「未希」

 掠れた声で私を呼ぶ。「なに?」と淡白に返すと、また一歩前へ進んだ。

「怪我したって聞いて来てみりゃ、お前、謹慎中ってどういうつもりだい?」

「収入が入らなくなるのは申し訳ないと思ってるけど、譲れないよ」

「……ほう」

 彼女はふと、目線を由紀奈ちゃんに映して訝しんだ。さらに前へ歩み寄り、手を伸ばせば触れ合える距離まで詰めてくる。

 彼女は由紀奈ちゃんの正面に立つと、「こいつのせいか」と一言呟いた。

 彼女を「こいつ」呼ばわりしただけでも虫唾が走った。けれど、私が手を出すまでに至ったのは、次の瞬間だった。

 パチンと、由紀奈ちゃんの頬が良い音を鳴らした。遅れてそれを、祖母にぶたれたのだと理解する時にはもう、私の右腕は動いていた。

 パチンと、もう一度良い音が鳴った。右肩がズキズキ痛む中、祖母はぶたれた頬に手を添えて凝視し、目を丸くして呟く。

「ワシが……ぶたれた……?」

 途端に彼女の顔つきが険しくなり始める。面倒ごとになる前に、私は由紀奈ちゃんの手を握ってエレベーターの方へ小走りした。

「未希! ワシをぶったな! どういうつもりじゃ! 戻って来い!」

 後ろからはガミガミと彼女の叫び声が聞こえてくる。次の瞬間には、母親か誰かが彼女の口を塞いだのだろう。声量が落ち、何を言っているのか聴き取れなくなった。その隙に何とか私たちは病室まで逃げ込んだ。

 あんな様子じゃ、到底私と由紀奈ちゃんの関係を認めてもらえるとは思えない。母親も結婚も諦めて、とうとう由紀奈ちゃんの将来の道が全て潰えた気がした。

 由紀奈ちゃんは自分のベッドを私に差し出した。ありがたく好意を受け取り、痛む体を横にさせる。

「……未希さん、私は」

 椅子に座る彼女を見ると、また泣き目になっていた。鼻水もすすり出している。彼女は声にたくさんの嗚咽を混ぜながら、必死に紡いだ。

「もう……あなたの苦しむ姿を、見たくありません……。だから私、決めました……。お母さんに会います……。お母さんの元へ、行って、また、地獄を……」

 それは、最後以外の言葉だけ切り取れば、立派な決断として頷けただろう。だが、彼女は悔しそうに、あの頃を振り返るように、泣きながら「地獄』と口にした。納得なんて、出来るわけがなかった。

「由紀奈ちゃん、やっぱりお母さんと何かあったんだね?」

「……いいです……。あなたが、遊びに来てくれるのなら……」

「……ダメ、由紀奈ちゃん。私と一緒にいよう」

「いいです……」

「いよう」

「止してください!」

「いて!」

 譲るわけにはいかなかった。彼女は私の苦しむ姿が見たくないかもしれないが、私もまた、彼女の苦しむ姿を見たくないのだ。

 私は右肩の痛みを我慢しながら彼女を抱きしめた。彼女は初め、怪我のことを思って必死に離そうとしていたが、私が彼女を離さなかった。

「傍にいて……」

 本心からの嘆きだった。思えば学生時代、なぜ私が男子からの告白を全て無下にしていたのか、周りが彼氏を作っていく中、恋愛にこれでもかというくらいに興味が持てなかったのか、全て今になって理解することが出来た。

 要するに私は、無自覚にも同性愛者だったのだ。彼女を初めて見たその時から、彼女の容姿には惚れ惚れしていた。やがてその感情は彼女の性格に対しても抱くようになり、私に懐く姿、私に縋る姿、私に笑う姿、その全てを愛おしいと感じていたのだ。恋愛感情というものを知り得なかったので、単なる愛情としか認識出来ていなかったが、こうして彼女を抱きしめていると分かる。私は彼女に恋していた。

 私が男だったら良かったのに。そうすれば、彼女の願いである恋も、結婚も、叶えられたかもしれない。無様にも神様は、とことん彼女を絶望に突き落として止めないらしい。

「由紀奈ちゃん」

「何ですか」

「逃避行しよう」

「へ!?」

「私が養う。養わせて」

 彼女は口をわなわな震わせながら、一幕置いて「何言ってるんですか!?」と正論をぶつけてきた。

 そう、それは正論だ。以前の私なら母親の元へ引き取らせ、遊びに行くから我慢しようと提案していたかもしれない。現実的に考えてそれが正解だろう。逃避行となれば、まだ働き始めて一年目の乏しい貯金から住居を用意し、そして、一生彼女を養っていくために、ありとあらゆるものを用意しなければならない。この高収入の職が唯一の希望になるため、辞めるわけにはいかない。だがそうなれば、毎日のように祖母が押しかけてくることだろう。いずれは縁すら切らなければならない事態に陥る可能性だってある。

 だが、今はそれで良いとさえ思った。学生時代、勉強漬けよりも遊びたかったのだろう? 真面目にエリートの道に進もうとするより、少し落ちても良いから青春時代を謳歌したかったのだろう?

 今させてやる。何周遅れかの青春時代だ。真っ当に人生のレールに乗るよりも、こうやって少し脱線した方が良かったのだ。 

「由紀奈ちゃん……」

 彼女の潤った瞳を見据える。「好きだ」そう口を動かそうと考えていたが、全く唇が離れなかった。瞬間接着剤が塗りたくられたみたいだった。

 恥ずかしかったのもある。だがそれ以上に、彼女を困惑させたくなかった。彼女が同性愛者だという疑問すら持てていないのに、私が気持ちを打ち明けてもメリットなど何もない。

 今まで通りの私でいよう。この気持ちはそっと心の奥底にしまって、闘志の炎の薪として燃え上がらせよう。

「由紀奈ちゃん」

 改めて彼女の目を見据え、「子供のように君が愛おしいから、守らせてほしい」と恋愛感情から外して気持ちを打ち明けた。後になって顔が沸騰するやかんのように熱くなり始めるが、構わず彼女を見据え続けた。

 対する彼女は、また泣いていた。

「私なんかのために、人生を損する必要はありません」

 乾いた声で、機械的に私を否定する。

「私に構わなければ、あたなは順風満帆に人生を歩めるはずです」

 またしても、否定の言葉を口にする。

「こんなくらいだったら、やっぱり死んでおくべきでした。誰もこの言葉に、首を振れないと思います」

 やがてその声は震え始める。

「それでも、あなたは……私を……」

 私は微笑んで、「養いたい」と口にした。

 そうやって、ようやく彼女の将来の道は完成した。私と逃避行して、どこまでも幸せに暮らすという答えが出た。

 決行日もおおよそ決めていた。一週間後にまた手術があるらしいので、それを受けた後、早い段階で出発するつもりだ。

 私たちは、本気だった。

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