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逃避行しようと思い至ったは良いものの、まだその全容は漠然としていた。
銀行で貯金残高を確認すると四百万ほど残っていた。まだ奨学金も返していかなければならないし、彼女に贅沢をさせてあげられるのは相当先の話になりそうだ。
とりあえず、何かアドバイスを受けたくて私は福瀬先輩のいる事務室へ向かった。人生の先輩に相談すれば、今後やるべきことが明確に見えてくる気がしていた。
「と、言われてもねぇ……」
今日は橘先生がいないのだろう。久しぶりに先輩はマイデスクでタバコを吸っていた。
先輩は私の話を訊くと憂わしげな顔で煙を吐き、数十秒沈黙を要した後、口を開いた。
「たった四百万で何が出来るの、って感じだけれどね。住居やら家具やらで、もう底が尽きちゃうでしょ」
「仕方ないんです」
「まぁ……そうかもしれないけれど。とりあえず本気なら、とにかく安い物件を選ぶことね。で、最低限の生活をしながら、絶対にこの職は辞めないこと。あと、副業か何か、他に稼げる仕事があれば良いわね。辛いかもしれないけれど、夜勤も視野に入れてね」
そのアドバイスにははっとさせられた。夜勤、副業などは何んとなしにしか考えていなかったが、やはりその勢いでやっていかないと無理みたいだ。
「流石にあの子の面倒も見ていかないとだし、家で稼げる副業にしたいです」
「何か特技はあるの? 例えば、タイピングは早ければライターが向いているし、裁縫が出来ればそれを売ってお金にすれば良いわ。……あ、あなたの場合、勉強が得意なら、塾講師でもやってみたら? ウェブのね」
「なるほど……」
塾講師か。人に勉強を教えるのはそう苦手なことではない。それにしてみても良いかもしれない。
「あとは、あれね。逃避行と言ったは良いものの、楽にここまで通えた方が良いわ。貴重なお金を移動時間にはあまりかけられないしね」
「それはそうだと思います。ざっとですけど、高野市にしようかなと」
「高野ね。田舎だから物件も安いと思うわ。良かったら、アタシが色々見ておこうか? 物件の予約もしておいてあげるわ」
「いえ、そこまでは――」
「あなたは一秒でも長くあの子の傍にいてあげなさい」
「……はい」
先輩の優しさに心を打たれていると、彼女は一息吐いてタバコを咥えた。
こんな短時間に全ての方針が決まるとは思わなかった。ここから何時間も意見を出し合って、やっとのことで完成していくものだと。人生において先輩との格の違いを見せつけられた。
先輩は再びタバコに火を付け、煙を立てる。
「ほかにも何かやってあげられたら良いのだけれど、諸事情でお金も出せられなくて申し訳ないね」
「いえ、アドバイスをくれただけでも嬉しいですよ」
「そう?」
満足げに先輩は笑うと、やがて私の背後を見つめて顔を青ざめさせた。目線を追った先には、橘先生が引き攣った笑みを浮かべていた。
「先生、これは……」
「次はない」
笑顔でそう言われると、その一言の重みがすごかった。
「ところで、小桜くん」
閑話休題。先生は私に向き直ると、何やらものすごく分厚い資料を渡してきた。
「身体呼応症候群に関連した資料だよ。今後、あの子と住むのなら、一応病気のことは熟知しておいた方が良い。緊急事態が起きてもすぐに対応出来るように」
「あ、ありがとうございます」
深く頭を下げてお礼を述べた。
病室に戻って、由紀奈ちゃんが寝たのを確認すると、私は頂いた資料を耽読した。
その資料は、資料というよりかは、学者の研究データのようなものだった。文章でまとめて要約されているのではなく、日々、身体呼応症候群について何が分かったかを書き綴ったメモのようなものだ。それはそうだろう。この病気は世界有数で、治療方法も確立されていないのだから。眼鏡をかけて、順に目を通していった。
二〇一八年、八月。
私を助けてくださった名医の
さて、実はここからが本番になります。初メールがこのような物騒な内容になってしまい、大変申し訳ないのですが、私の身の回りであり得ない事象が発生しました。
親戚の娘は今年で十九になるのですが、彼女の体が成長を止めていたのです。昔から成長が遅いなと感じてはいたのですが、精神年齢は育っているようなので、両親もあまり気に留めていなかったみたいですが、どうやら彼女、髪の毛が生えてこなくなったらしいです。両親は一人で美容室に行っているものだと思っていたようなのですが、娘は一年ほど前から、髪の成長が異様に遅いことを自覚しており、もうここ数か月の間は髪が一ミリも長くなっていないらしいのです。
これはもしや、体の成長が遅いことにも関係があるのかと感じました。彼女は何かの病気なのだと思います。井沢先生、どうか彼女を一度、診てあげてほしいのです。返信お待ちしております。
ニ〇一八年、八月。井沢。
初メールありがとうございます。私としても、良ければ一度食事に行ってみたいところですが、それはこの問題が解決してからにしましょうか。
結論から申し上げまして、既にお気づきの通り、それが彼女の勘違い、または幻でなければ、何らしかの病気であることに間違いないでしょう。病院で待っています。
ニ〇一八年、十月。井沢。
症状、体の成長の停止。
病名。甲状腺機能低下症。
手術歴、なし。
『時が止まった少女』として大々的に報じられた、ブラジルのマリアという女性と同じ類のものだろう。本来、甲状腺機能低下症が引き起こす症状は、疲労感やだるさ、食欲の低下、無気力に鬱状態といったものばかりだが、稀なケースとして、甲状腺が通常分泌すべきホルモン量の深刻な欠乏が原因で、マリアさんのような症例が見られるようだ。
彼女は早期治療がままならない状態だったため深刻化してしまったが、今回は早期治療を受けさせることで、それを回避することが出来るはずだ。
ニ〇一八年、十二月。井沢。
長戸香織、ニ十歳。
症状、体の成長の停止。
病名、心身症の一種。(仮)
手術歴、ニ〇一八年、十月。担当医師、井沢土岐。
甲状腺機能停止症の再発とも考えたが、彼女の境遇を踏まえ、これを私は一種の心身症だと仮定することにした。
彼女の境遇とは、
幼い頃に最愛の弟を事故で失ったこと。
重度のコミュニケーション障害。
重度の社交不安症。
軽度の統合失調症。
重度の解離性障害。
重度の適応障害。
軽度の睡眠障害。
軽度の拒食症。
の八つ。これらは彼女に強い鬱状態を促し、引きこもりになったり、生きる意味さえ失わせていたりしている。
彼女が唯一私に開いた口からは、「社会に馴染めない。だから子供のままの自分を強く想像した」と発せられていた。私はこれらのことから、彼女が「大人にならないと強く思い込んだ」ことによる、心身症の「精神状態が肉体の変化を起こす」一例だと推測した。
常識的に考えてあり得ないと結論づけたいところだが、ひとまずはこの線で解明を進めてみたいと思っている。
病名の呼称として、身体呼応症候群(心身症)というものを付けておく。
ここまで読み進めて、このようなデータがあと四十八枚ほどあるのを思い出し、ひとまず首周りの骨を鳴らして一息吐いた。
天井を眺めて、先ほどのデータを頭の中でまとめる。まず、由紀奈ちゃんのように、体の成長に関する患者が出てきた。井沢という医師は、これを身体呼応症候群と命名したが、由紀奈ちゃんの病名と一致している。
その時私の中に駆け巡った推測に、まさか、と私は思った。
橘先生の言う通り、これから本気で彼女と向き合っていくに辺り、身体呼応症候群について、ありとあらゆる資料の熟読が必要になるだろう。だが、初めの二ページで彼女の病気の正体を推測出来てしまうことから、多分残りの四十ページくらいは、患者の情報のデータだったり、医師の苦闘のデータだったりが記述されていると思われる。それを読み解くのも重要だが、私は私の中にある推測を真実に変えるべく、最後の数ページまで飛ばした。
そこに書かれていたのは、由紀奈ちゃんの情報だった。
読み進めると、おおよそ私の推測が当たっていることに気がついた。
ニ〇十九年、十一月。橘。
外国の井沢先生へ。身体呼応症候群は先生の研究分野でしたね。新たな身体呼応症候群の患者が日本で確認されたので、情報をお送りしておきます。
雨森由紀奈、十二歳。
症状、遡行。
病名、遡行型身体呼応症候群。
手術歴、なし。
身体呼応症候群による思い込みは人それぞれですが、今回は体の成長や停止ではなく、遡行です。詳しい事情は分からないのですが、どうやら彼女、幼い頃に両親を亡くし、数日前には祖父母も亡くしたみたいで、本当に死を厭わない、死にたがりな少女です。
彼女は滅多に他人に口を開かないので、私なりになぜ遡行を選んだのかを、「両親ともう一度会いたいから」と仮定づけてみました。しかしこれでは、何となく筋が通っていないように思います。時が戻るのと、自分の中の時だけが戻るのは違いますから。だから、真実はまだ不明です。
彼女はこの病を患うまでも、多少の自殺願望を持って過ごしていたようです。重度の対人恐怖症のせいで学校でもいじめを受けていたようで、彼女の中の願望の強さが、身体呼応症候群という形として現れたのでしょう。
ニ〇十九年、十一月。井沢。
確かに身体呼応症候群なら、遡行を引き起こすことも出来る。イタリアでもその事例が出ている。
一応訊いておこう。それは本当に身体呼応症候群か? 幼児退行とは少し症状が似ている。細胞の消滅は確認出来たのか?
ニ〇十九年、十一月。橘。
身体呼応症候群の遡行は、幼児退行とは違い、人格も知性も記憶も体も細胞も遡行され、最終的には全てが乳児まで時を遡る、でしたね。確かに細胞の衰退を確認しました。身体呼応症候群で間違いないです。
ニ〇十九年、十一月。井沢。
そうか、現在どこまで進行しているのか分からないが、とにかくデータを収集しながら治療にあたってくれ。身体呼応症候群の治療法で問題ない。一応、復習しておこうか。
一つ。現実への執着心を濃くすること。
二つ。プラシーボ効果を応用した治療法だ。以下引用『身体呼応症候群(心身症)の治療法』
一つ目については、効き目があるかどうかも分からないようなものだが、データ収集も兼ねて、その子に愛想の良い看護師でも付かせてやれ。
二つ目だが、分かっていると思うが、これはあくまで病気の進行を遅らせるものに過ぎない。現代の医療では、不治の病として扱うほかないのだ。
ニ〇十九年、十一月。井沢。
重ねてメールをよこしてすまない。私も彼女に会ってみたい。
半年ほどで帰国する予定だが、どうだろう。その子がイエスと言うのであれば、二度目の手術も兼ねて、ぜひお話が出来ればと思っているのだが。
ニ〇十九年、十一月。橘。
現在、事故による体の回復が万全ではないため、手術は六月から七月を目途にする予定です。
由紀奈ちゃんの承諾を確認しました。
ひとまずは、先生も良く知っておられる福瀬さんが彼女との友達役を打って出ました。あの寡黙で死んだように暮らす彼女が、誰かに心を開くとは思えませんが。
帰国をお待ちしております。
その後も私は、日が明けるまで資料を耽読していた。
プラシーボ効果というのは、偽薬を飲ませて、被験者に『薬を飲んだ』と思い込ませることによって、病状に改善、回復の兆候が見られることを指す。つまるところその手術というのは、由紀奈ちゃんにある事象を信じ込ませ、彼女自身の深層意識に『時の遡行はもう発生しない』と思い込ませる、というものだ。
現実への執着心というのは、言ってしまえば一種のプラシーボ効果だったのだ。ほとんど効き目がないという文言が記されていた辺り、ただの思い込みでは流石に遡行を止めるのは無理なのだろう。その、ただの思い込みをより強固にしたものが、一週間後に行われる手術というわけだ。
いつしか先輩に、「新たな人生を歩んだ彼女は十二年後、また遡行を始める」と説明を受けていたが、これは論文を読めば詳しく記述されていた。要するに、身体呼応症候群自体を治さない限り、『彼女が強く願った歳になると、その時の本人の意向に関係なく、脳が当時のその願いに従ってしまう』というものだった。
残りの四十ページ近くは、患者のデータや、身体呼応症候群の別の事例などが記載されていた。
「由紀奈ちゃん……」
ベッドですうすう寝息を立てる彼女に目を落とす。
橘先生は、彼女が「遡行を選んだ理由が分からない」と言っていたが、私には何となく分かる気がする。
多分、彼女は人生をやり直したかったのだ。両親が他界し、重度の対人恐怖症というだけで、人生をやり直したいと思える価値がある。それは身体呼応症候群となり、図らずとも彼女の絶望の後押しをしてしまった。
入院した頃の彼女にはもう、やり直すというよりかは、全てを終わらせたい、という気持ちの方が強かったのだと思う。それゆえの自殺願望だ。
不意に、病室の扉を小さくノックされた。静かに開けると、廊下には福瀬先輩が立っていた。
「まあ、何というか……気持ちの整理が終わったの。少し話せるかしら」
「はい……」
彼女は神妙な表情で歩き始めた。
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