13

 屋上に出入りしたことはなかったが、なかなか開放的な場所だった。特に夜だと人もおらず――元々いないのかもしれないが――ベンチや灯り一つもない殺風景な空間は、夜空に光る星の群れだけが色濃く強調されていた。

「さて、まあ……気持ちの整理って言っても、大したことじゃないわ。あの子をあなたに任せるにあたって、色々と話したいなぁってだけ」

 先輩は錆びれた鉄の柵に胸を付け、地上を優雅に見下ろす。私もその横で背中を柵に預けた。

「あの子のことをよろしく頼むわ。あの子には恋も結婚もさせてあげたい。いつか良い人も見つけてほしいわ」

「……」

 男性恐怖症になったばかりだと返したかったが、私としても、それを克服して良い男性を見つけてほしいと願っている。頷いておいた。

「母親に関しては……あの子が会いたくないってことだから、もう嫌な想いをさせないためにも詮索は止した方が良さそうね。父親の話も、祖父母の話もね。全てを忘れて赤ちゃんからやり直す彼女にとって、身内が一人しかいないっていうのは辛いけれどね」

「……身内なら、先輩が」

「アタシは無理、無理。一度こっぴどく嫌われているもの。どうせ記憶を失くした後も、アタシなんか上手くやっていけない」

「そんなこと――」

「――分からないと思うけれど、あるの。やっていけない自信が、有り余っているの」

「……そうなんですか」

「ええ」

 先輩は寂しそうに夜空を見上げると、静かに語り始めた。

「アタシ、そうだなぁ……どうやって語ったものかしら。まあ、そうね……父親と離婚した、と言っておきましょうか。アタシが妊娠したのは十八の時でね、孕ませたのは彼なんだけれど、逃亡しそうになったから無理矢理引き留めて、父親としての責任を強く押しつけて、半ば嫌々結婚したの。まあ、当時は関係最悪だったけれど、子供と過ごすうちに、愛情が芽生えると思っていたわ。

 ……彼はアタシのことが体目当てだったけれど、子供の前では父親としての役割を果たしてくれていて、順調だと思っていたわ。でもある時、彼が……暴力団員と絡んでいることが分かったの。奴らに連れていかれた彼は、もう戻ってくることはなかった。一年後、そんな彼と初めて連絡がついたわ。メールじゃなくて、手紙で。内容は、『別れるしかない』と一言。彼の記すべき記入欄が埋まった状態で、離婚届も付属されていたわ。

 それから、仕方なくそれを承諾したアタシは、一人で子育てをしていく決意をするのだけれど、疲れも溜まって、仕事を続けるのもままならない状態だったわ。借金を重ねて、借金取りに追われる生活が始まって、ストレスのあまり色んな精神疾患にかかって、子供には酷い当たり方をした。手を出すのだけはダメだとブレーキをきつく踏んでいたのだけれど、その分発散出来なかったストレスは言葉に乗っかり、無茶苦茶な暴言で子供を毎日のようにいじめてしまったわ。

 ある時、ふと冷静さを保った状態でアタシは思ったの。アタシには、ことごとく母親としての力がない。これ以上子供といては、もっと地獄を見せてしまうことになる。施設に預けるしかないと。

 それからというものの、まだ借金を完全には返しきれていないし、あの子を引き取る財力がないから、ずっと施設に預けたままだわ。まあ、財力があっても、あの子にとってアタシはトラウマだし、元から母親の資格なんてないアタシが、今更どの面を下げてあの子に会えば良いのか分からないのだけれどね」

 そんな話を聞き終えた時には、既に私の中の先輩のイメージはがたっと崩れ落ちていた。

 少し怖くて怒りっぽいけれど、根は優しくて、いつもタバコを吸って橘先生に楽しそうに怯えて。おおよそ壮絶な過去の持ち主とは思えない人だった。

 それから数十秒間、私たちは沈黙していた。何か返すべきだったし、先輩もそれを望んでいた時間だったと思う。先輩はほどなくして眠たそうに欠伸をすると、私の肩を叩いて微笑んだ。

「だから、頑張ってね。アタシの二の舞にだけにはならないように。困ったらすぐに誰かを頼って、一人では抱え込まないこと。絶対に、これだけは守ってほしいわ。良い?」

 私は力強く頷いた。


 朝がやってきた。眠れない夜を越えた。

 早朝六時にベッドから体を起こす彼女の足を掴まえて、少しばかり驚かしてみる。彼女は半開きだった目を開眼させ、すぐに私のニヤけ顔を見ると呆れ顔になった。

「おはよう、由紀奈ちゃん」

「朝から何ですか」

「いや、古くから良く言われてるじゃん。寝起きは女児の足を掴めって」

「はぁ……相変わらずな人ですね」

「相変わらずではないよ」

 私はこれまでの闘病生活を振り返って言った。

「私がこのノリをするの、多分、かなり久しぶりになるんじゃない?」

 彼女は少し考えた後、「確かに」と息を漏らすように呟いた。

「どうして今になってまた始めたんですか?」

 私も体を起こし、一緒に洗面台へ向かう。

「気まぐれだよ。嫌だった?」

「嫌ではありませんけど、無理はしなくて良いですからね。私はいつもの未希さんで十分楽しんでいますから」

「本当?」

「本当です。むしろそのノリを外でやられたら困ります。いつものあなたに戻ってください」

「は~い」

 顔を洗い、食パンを焼いて牛乳を用意する。

 ある程度食事を終えたところで、彼女はいつものように訊いてきた。

「未希さん、今日はどこに連れていってくれるんですか?」

「うーん、そうだなぁ……」

 正直、逃避行のことを考えると、これ以上娯楽にお金を費やしたくはないところだ。何かお金のあまりかからない場所はないものかと考えを巡らせて、ふと、傍のカレンダーに目をやった。

「由紀奈ちゃん、もう七月の半ばなんだね」

「はい」

「ということは、あるじゃん」

「何がですか?」

「花火大会が」

 その言葉と同時に、由紀奈ちゃんは思いっきり自分の膝を叩いて立ち上がった。そしてカレンダーを凝視すると、まるで背後に神々しいエフェクトでもかかっているかのような煌めきで彼女は言った。

「花火が、観られる!」


 午後の六時に私と由紀奈ちゃん、そして病院の子供たちと合流し、会場へ向かった。

 街灯の少ない薄暗闇な歩道を歩きながら、子供たちと由紀奈ちゃんは各々夏祭りへの意気込みのようなものを語り合っていた。「金魚すくいで対決」だとか「射撃は負けない」だとか「あのカセットほしい」だとか「いっぱい食べたい」だとか。そんな話を聞いていると、まるで自分までもが幼少期に戻ったみたいな錯覚に陥りそうになる。

「未希お姉ちゃんは祭りで何がしたいの?」

「うーん、私はみんなの笑顔を見ることかなぁ」

「イケメンかよ!」「恥ずかしい」「もっと普通のやつにして」なぜか大バッシングを受けた。由紀奈ちゃんも「見ないでください!」と乗っかっていた。

 そんな様子で無事に祭り会場へ到着した。

 夏祭りには確か、一度か二度、家族で来たことがある。子供たちのはしゃぐ声は少し前まで耳を塞ぐほどだったが、祭り全体の活気も、それと良いくらいに張り合えていた。

 にしても、人口密度はさることながら、ここら一帯で開催される寒蘭祭りは、田舎とは思えないほどの規模のものだ。人の数は多くても滅多に肩が当たることもない広さだし、屋台の群れは先が見えない。この辺に詳しい子供の話だと、今見ている場所は、寒蘭祭り全体の四分の一ほどに過ぎないらしい。

 屋台の道は赤褐色に色づき、各々が幸せを散らしている。体が熱くなったのは屋台からの熱気ではなく、彼らの熱量とさえ疑うほどだ。

「おし! 金魚すくいやるぞー!」

「お金足りないかも~」

「未希さんが全部払ってくれるってさ!」

「ちょ、由紀奈ちゃん!?」

 彼女まで子供と一緒に大はしゃぎしている。そのまま子供たちは祭りの雑踏に消えていき、それを追わずにはいられなかった。


 花火が上がる八時までには買い物を終わらせるつもりだったが、結果としてそれは間に合わなかった。

 金魚すくい、ダーツ、射撃、輪投げ、ビンゴ、スーパーボールすくい、かき氷、たこ焼き、お好み焼き。数え上げたらきりがない。とにかく私は子供たちの思うがままに屋台を回り、財布の中身を溶かすように減らしながら、八時を迎えた。

 その瞬間、子供の大半の肩が震えた。視界の隅に捉えた、夜空に浮かぶ輝きに目を向ける。菊型で緑の、大きな大きな打ち上げ花火だった。

 耳を凝らせば、花火の笛が夜空に昇っていく音が聞こえる。続けて、シンプルな円型の赤い花火が上がった。

「未希お姉ちゃん!」

「未希さん!」

 名前しか呼ばなかったが、みんなの言いたいことは理解出来る。つまるところ、開けた場所に行きたいのだろう。

 私はみんなを連れて、近くの公園まで走った。足を疲労させた子供たちは真っ先に遊具に腰を下ろす。由紀奈ちゃんを隣に据え、視線を空に上げると、また花火は咲いた。

 由紀奈ちゃんと観る花火は、不思議な感覚だった。友達と、家族と、仕事仲間と観ても味わえない、息が詰まるような苦しさがあった。

 後に私は、この苦しさが片想いの辛さなのだと理解した。同棲すると決まったは良いものの、彼女は同性愛者ではないのだから、結局のところ、私の恋愛感情が満たされるわけではない。だから私が、花火に照らされる彼女の美しい横顔を見つめても、自然と手を繋いでも、花火の音に負けないくらい心臓が高鳴っても、由紀奈ちゃんには届かない。一生、届かない。

 胸が締めつけられるよう、という、恋愛においてありがちなフレーズを、今ようやく理解した。本当に胸が締めつけられるようだ。キュッと引き締まって、細い針でも刺さったかのようで、その痛みはなかなか哀傷で、儚くて切ない。

 もう恋なんてしたくない。ああ、確かそんな歌もあったな。その言葉の意味もようやく理解出来た。こんなに苦しいなら、確かに恋なんてしたくなくなるものだ。恋に恋する人間というのはどういうメンタルをしているのだろう。あるいは、とんでもないマゾヒズムか。

 でも、まあ、何というか、私はこの苦しみを許すことが出来た。理由は単純だ。「すごい」と頬を染めて漏らし、度々花火の神々しさに、犬がしっぽを振るような感覚で小さくジャンプする彼女がいたからだ。

 彼女が大はしゃぎしていると、遊具にぶら下がっていた子供の一部がこちらに寄ってくる。

「これ何がそんなに楽しいの?」

「音うるさい」

 不満げに声を上げる子供たちに、由紀奈ちゃんは前かがみになってわざとらしいため息を吐いた。

「はぁ~? クソガキだなぁ、二人とも。もっと良く観てみって!」

「観たけど分からない」

「由紀奈さんだって子供じゃん! クソガキはそっちだ! あははは!」

「は!? 言ったな~!」

 もう随分と見慣れたものだが、初め、あれだけ怖がっていた対人恐怖症の彼女が、ここまで子供たちに心を開くとは感慨深いものだ。彼女は煽ってくる子供と追いかけっこし、本来の中学一年生としての姿を見せていた。

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