14

 顔に何かがなぞられている。それは指にしては形状は細くて硬い。先端部分だけが顔中を撫で回っている。

 果てしなく寝ぼけていたのだろう。それが、目視せずともネームペンであることくらい容易に想像つくはずだが、昨夜に一睡も出来なかったことがここに来て仇となる。私はそれを、由紀奈ちゃんに撫でられているものだと考えていた。

 徐々に押しつける物体の強さが上がっていく。ここでようやく私は意識を現実に還し、重たい瞼を開けて目の前の嘲笑の嵐を目の当たりにした。

「おいいー!」

 子供たちが落書きに使用したペンは幸い水性だった。すぐに洗面台に移動し、ごしごしと落書きを濡れた指で擦る。鏡に映ったのは、額に肉、両頬に猫の髭を書かれた私の無様な顔だった。

「未希さん、お昼まで寝てるからですよ~」

 由紀奈ちゃんまで加担していたらしい。ネームペンを指で器用に回しながら、悪魔的な笑みで子供たちと喜びを分かち合っていた。

「……って、昼?」

「はい」「起きるの遅いんだよ!」「お父さんみたい!」

 私はすぐに時計で正確な時刻を確認する。両方の針が上下に指されていた。

 はぁ、とため息を吐き、落書き落としを一旦やめて敷布団に寝転がる。昼で起きると、どうも一日をとんでもなく損した気分になってしまう。私はみんなに「ごめんね」と謝った。

「気にしなくて良いです」「良いです」「落書き出来たから良い」由紀奈ちゃんに子供たちが続く。「それよりも、今日はどこへ連れていってくれますか?」「くれますか?」「連れてけー!」

 全く、無邪気にもほどがある。連れていけと当たり前のように言ってくれるが、逃避行のことも考えると、あまりお金は使えないのだ。

 ただ、このメンバーでどこかへ行くというのは、逃避行をしてからでは難しいだろう。少し時期は早いが、夏の思い出として、海にくらいなら連れていっても良いと思った。


 佐木市の海に着いたとほぼ同時刻に、福瀬先輩から物件の情報が送られてきた。

『安くて良い物件を紹介してもらっているわ。回ったところの情報を送るから、早いうちに決めるのよ』

 逃避行、というと暗いイメージを勝手に想像しがちなのだが、今、一人じゃないという事実を改めて再確認出来た。先輩にお礼のメールを入れて、目の前の海水浴場を見渡した。

 その時私は、まだ七月の半ばだというのに、これでもかというほどの夏を感じた。ここだけ八月の真夏日になっているような錯覚さえ抱いた。

 実は私は、海ですら幼い頃にしか行った記憶がない。だが、岸の濡れた土を見て、太陽に焼かれたコンクリートを歩いて、かつての夏の記憶が断片的に蘇ってきた。

 今、私たちが見ている景色こそが夏だ。私は首から下げていたタオルを外し、汗を拭うことなく太陽に体を捧げる。わざと体温を上昇させて、思いっきり海に飛び込みたいからだ。

 海の家まで歩くと、スニーカーの中に早速焦げた砂が混ざり込んだ。反射的に靴を脱いで砂を落とすが、凸凹の地に足を取られて盛大にこけてしまう。

「わはは!」「未希お姉ちゃん!」「未希さんっ!」子供たちに囲まれて笑いものにされていると、恥ずかしいはずなのに、やっぱり嬉しくなってしまう。砂を払って、「顔が焦げた」と大げさに演技をした。

 荷崩しを終え、早速海へ飛び込んだのだが、流石に寒かった。子供たちは各々で浮き輪を持参してきたらしいが、私を真似して飛び込みをしようとやっけになっている。「子供はダメ」と注意喚起を送るが、どうしても子供というのは大人を真似したいものだ。浮き輪の所持を決定づけて、浅瀬でほどほどに飛び込み合戦をやらせてみた。

 昼飯は海の家のカレーや素麺を頂いた。一応、親御さんにお金を持参させられていたらしいので、そこまでの出費は食わなかった。

 そうして私たちは、海の家の閉店時間ギリギリまで遊び尽くした。日は沈み始めて、透明の中に青を帯びた幻想的な海水は赤褐色に変わり果てる。一日中体を動かしたというのに、子供たちは私の周りで鬼ごっこをする余力を残していた。だが、電車が発車してから十分ほどでみんな、目を瞑って首をくったりと垂れさせていた。

 私はスマホの写真のライブラリを開いた。今日一日で画面いっぱいに子供の笑顔が更新された。その中にはもちろん、彼女もいた。

 私の瞳には、彼女は遅れた小学校生活を取り戻しているように映っていた。本来、小学生が送るはずの『友達との馴れ合い』を彼女は探して、この空間という答えを見出した。それを察した時私は、初めて彼女に何かをしてあげられたのだと強く実感出来た。

 一度赤ちゃんに戻ってしまえば、次に十二歳としての記憶を持つのは、実年齢にして二十歳を越えることになる。その時彼女は、今のように純粋に子供という時間を楽しめるだろうか? 

 答えは、分からない。だが、いくら環境に恵まれても、いくら楽しいと本人が公言しても、病気のことを理解すれば、しがらみや劣等感は恐らく発生する。

 なら、十二歳という子供の時間を堪能出来るのは、十二歳である今しかない。

 だから私は、手術前夜まで、思いっきり子供たちと遊ばせた。

 鬼ごっこ。かくれんぼ。サッカー。キャッチボール。川遊び。カブトムシ捕り。親御さんに弁当を頼んで、遠足なんてものもした。

 彼女を楽しませることに、全ての神経を削いでいた。


 その夜、パジャマに着替える前に、彼女は提案した。

「どこかへ連れていってください」

 手術が不安なのだろう。彼女はいつものように楽しげに口を開くが、無言の多さといった些細な立ち振る舞いから、落ち着いていないのは明白だった。

「うん」

 私はハンガーから二人分のコートを取って、部屋の電気を消した。


 どこへ行こうか、だいぶ吟味した。

 そのうえで、私はここ――彼女が自殺未遂をしたホタルの見られる場所――を選んだ。あの頃の自分とは違うんだ、と彼女に再認識させて勇気を奮い立たせてほしかったし、単純に、始まりの場所というものにエモを感じられた、なんて理由もある。

 ゲンジホタルは、前に見せた輝きを散らせて今日も飛び回っていた。

「あの、未希さん」

「何?」

「もう引っ越しの手続きは終わったんですか?」

 適当に茂みに腰を降ろし、ホタルの群れを観察しながら彼女は問う。

「うん。高野市の住宅街の一角。安いし、駅から近いし、そこまで窮屈でもないと思うよ」

 彼女は私の顔を見て、「いよいよですね」と表情を歪めた。

「新環境、すぐに慣れてくれると良いんですけど、この通り、想像しただけで胃が痛くなるんです」

 腹部のコートをぎゅっと握る彼女。私は両足を伸ばして、太ももに彼女の頭を乗せて姿勢を楽にさせた。

「ありがとうございます」

「ううん」

 優しくお腹をさすると、彼女は安らかな表情で目を瞑る。ほどなくして、少し口角を緩めて口を開いた。

「あれから、日常が嘘みたいに楽しくなりました」

 あれから、というのは、ここで交わした涙の数々のことだろう。もう片方の手を彼女の頭に添えると、小さくて冷たい手が私の手の腹を優しく握った。

「家族以外の人の目が、話すのが、声が、怖くて仕方ありませんでした。なぜだったんですかね……。きっと、物心がつく前から、両親が危ない人たちに追われてたからなんだと思いますけど」

「……」

 いつしかの彼女の、母親との生活が地獄だと縮み上がった出来事を思い出した。

 彼女はそのまま、気持ち良さそうに微笑み続け、思い出に浸るように語り始めた。

「ある時私は、祖父母を名乗る老人の家庭で目を覚まして、両親は死んだと、我々が引き取ることになったと告げられました。……ですが、私、バカなことに、おばあちゃんたちが事故で亡くなるその一瞬まで、二人に笑顔を見せたことがありませんでした。ずっと警戒していて、純粋無垢な子供時代でも心を開けなかったのは、いじめが大きいでしょうね。いつまでも、自分が人に怯えてばかりなのが悪いんだと思い込んで、誰にも相談しませんでした。

 そうして私は、父親がのめり込んでいた怪しい宗教に希望を見出してしまって、小学一年生にして、神様に強く願う生活が始まりました。その願いこそが、人生のやり直し。こうしてそれは、この身体呼応症候群の引き金になってしまったわけです。

 そして、身内の全員を失くし、まともに人と馴れ合えない私は、生きる意味を失って、本当に死を望んでいました。……そんな私を、あなたは変えてくれましたね」

 謙遜は良くないと思って、素直に頷いた。

「本気で自殺願望を抱いていると、全てがどうでも良く思えてきます。不思議なことに、人とも普通に話せるようになります。なぜなら、死ぬこと以外に神経を然程注いでいないから。……そんな私を変えたのですから、やっぱりあなたはすごいです」

「咄嗟にモノマネが思いつかなかったら、終わってたね」

「あの時の私は、邪魔だったので追い返すことしか考えてなかったですから」

 くすりと笑って、疲れたように彼女は体をぐったりとさせた。

「……眠たいです」

「……そっか」

「寝て良い……ですか?」

「良いよ……」

「……私は、あたなとずっと一緒に……いたい、です……」

「うん……、いよう。だから、手術頑張ってね?」

「……」

 返事は、こなかった。

 すうすうと寝息を立てる彼女をお姫様抱っこし、車まで運ぶ。

 手術は、早朝から始まるらしい。少しでも早い方が良いだろうという、橘先生の配慮だ。

 これが終わったら、いよいよ逃避行が始まる。

 彼女を背負って、辛く苦しい生活が幕を開ける。

 だが、今更弱音も吐いていられない。彼女を養うと決めたのは、彼女に生きろと告げたのは、正真正銘、この私自身なのだから。

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