5
私はすぐに病室へ向かい、窓の外を眺める彼女に、いつものテンションで話しかけた。
「由紀奈ちゃん……」
「み、未希さん? 仕事はどうしたんですか?」
「実は……クビになっちゃって……」
「え、えぇ!?」
彼女の声は廊下まで響き渡り、通りすがりの患者さんを驚かせてしまう。私はすぐに扉を閉めて、彼女にわけを説明した。
「実はね、今日出勤したら、福瀬先輩にクビだって言われて……」
「あの人……本当に何なんですかね!」
「うんうん。でもね、私、クビじゃなくてね、しばらく謹慎ってことだったの。だから、そのしばらくの間、由紀奈ちゃんと一緒にいられるからね」
「あ、クビじゃないんですね」
「ううん、クビになっちゃって」
「クビじゃないんですね」
彼女は呆れたような目で私をジトーっと見てくる。素直に「あ、はい……」と訂正しておいた。
「全く……少しは本気で心配したんですよ? 驚かさないでください……」
「ごめん……でも、仕方がなかったんだ」
「はいはい」
「……はいはい」
「……?」
謎のタイミングでオウム返しをするという高度なギャグはあまりにも高度過ぎたらしい。普通に、本当に普通に変な目で見られた。私は気を取り直して、彼女の手を取った。
「そんなことよりもさ、今日もどこか連れていってあげるけど、どこ行きたい?」
「……ぷはっ」
そう問うた瞬間、彼女は吹き出した。その笑いはしばらく続き、私は恥ずかしくなって彼女と自分の身支度を進めておいた。
彼女は笑い終えると私服に着替え、洗面台に行って身だしなみを整え始める。車の鍵をポケットに入れて、私は今日の行き先を問うた。
「由紀奈ちゃん、今日はどこ行きたい?」
「楽しい場所が良いです」
「楽しい場所?」
「はい。普段、外で子供たちは笑って、楽しそうにしているじゃないですか。私もそういうことしたいです。楽しければ、何でも良いです」
その回答には、少し涙腺が揺れた。今までの彼女の人生を想像すると、彼女のその言葉に乗った重りが十分すぎるほど伝わってきたからだ。
「うん……。任せて! 一日中いたいと思えるような、そんなところに連れていくから!」
張り切って、思わずかなりハードルを上げてしまう。洗面所から、期待の詰まった「はい」が返ってきた。
ハードルを上げすぎた。目の前の光景に気疲れしたような目を向ける彼女を見て、私は「おかしいなあ」と漏らしながら思考を捻った。
「おかしいなあ、ではありませんよ。私は極度の人見知りと言ったでしょう……」
「え……で、でも、これは人見知りとかじゃなくて」
「いえ、人見知りを極めすぎると、知らない人に会うのすら怖くなるんです。目線とか気にしちゃって。だから、ここはまるで……」
天国、と言って、子供なら誰でも大はしゃぎするものだと思っていた。寒蘭を跨いだこの市は、あそことは比べものにならないくらいに人口密度が段違いの都会だ。その中でも有名スポットである、割と大きめの遊園地に来たわけだが、彼女は私の背後に隠れて、胃を痛そうにしていた。
「ここはまるで……地獄です」
「地獄、か……」
とりあえず私は、持参していた胃薬を持たせてトイレへ向かわせた。
その間に入場チケットを二人分購入して中に入り、適当に店を見つけて子供用のプリキュアお面を買っておく。彼女がトイレから戻ってくると、その心配顔をお面でシャットアウトした。
「未希さん……」
「私としては、由紀奈ちゃんの楽しそうな顔が見れないのは残念だけど、仕方ないね」
「……見なくて良いです」
「えー? 見たいよう」
「見なくて良いですっ」
彼女はそう言って私に背中を向けると、なぜかお面を外し始めた。
「……見なくて良いですけど、お面を被っていたら、この人見知りはいつまで経っても治りません」
「うん」
「だから……恥ずかしいけど、頑張ります」
「……うん!」
子供をあやすように頭を撫でてあげると、彼女は耳を真っ赤にして俯いた。
それから昼食を取るまで、私たちは片っ端からアトラクションに並びまくった。コーヒーカップ。ミラーハウス。メリーゴーランド。お化け屋敷。彼女は頑張っているというよりかは、全て忘れて心の底から楽しんでいるように見えた。人が多くても、各々が自分のことで夢中になっているので、私たちを気にかける人間なんてせいぜい店員くらいで、その店員も数秒後にはもう他のお客さんを気にかけている。それに気づいた彼女は、自分の世界に入り込むことが出来ていたのだろう。
お昼はプールサイドに店を構えるプールスナックで済ませた。外で食べると必然的に外の景色を観ることになるわけだが、彼女は度々人の視線を気にしていた。だから店の一番端っこの席につき、人混みに背中を向けさせてあげると、いつも通りの様子に戻ってくれた。
そうして、お化け屋敷、ジェットコースターとアトラクションを回り終えると、時刻は夕方に差しかかっていた。
一応、子供たちとも遊んでやらなければならないので、もう帰らなければいけない。私は「帰ろっか」と提案すると、彼女は朱色の空にそびえたつ観覧車をじっと眺めているだけで、反応はなかった。
「……由紀奈ちゃん?」
「ああ、そうでした」
「ん? 何が?」
「両親がいなくなる前に、一緒に乗ったことがありました。微かに、覚えてます」
「……そうなんだ」
彼女がいつ、両親と離れ離れになったのかは分からないが、顔も名前も住んでいた場所も覚えていないと言っていた辺り、相当小さい頃の話なのだろう。そんな頃の記憶なんて普通はほとんど維持していないもので、私だって、親に写真を見せられても、その時のことなんて何も思い出せない。だから、彼女にとって両親とは、そんな微かな記憶の断片なのだ。そのうちの一ピースを、彼女は今、思い出した。
「……乗ろっか」
「え?」
「また、何か思い出すかもしれないでしょ?」
「……うん」
彼女は申し訳なさそうに、それでも嬉しそうに、弱弱しい微笑みを浮かべて頷いた。
待ち時間には一時間以上かかっていた。もう夕日も完全に落ちて、空を暗闇が支配し始める。
福瀬先輩に、「子供たちへ遊べないと伝えてください」とメールした辺りで、ようやく私たちの番は回ってきた。
地上から足を離し、彼女は中の椅子に不安そうに飛び移った。扉が閉められ、ほどなくして観覧車は回り出した。
「おお、おおおおおっ」
「怖いの? 由紀奈ちゃん」
「怖いと言いますか、こ、怖いっ!」
観覧車が昇る度に足を震わせ、落ち着いて窓の外を眺めたら顔を青ざめさせていた。私は彼女を抱えてあげると、自分の太ももの上に座らせる。
「高いところは苦手かぁ」
「おお……に、苦手というか、いや、これマズいでしょっ。こ、壊れたら死にますよ!」
「壊れないよ」
「可能性としてはありますよね!? ほんの少しでも可能性があるのに、どうして人はこんな危険な物に乗りたがるんですかね、全く……」
「う、うん……」
怯え続ける彼女の頭を撫でて、私は外の景色を覗いた。
そして圧倒された。
「うわ、由紀奈ちゃん! すごっ!」
遊園地、そして、それを越えた先に広がる都会の全ては、決して田舎では見られない輝きを放ちながら、夜という暗闇の中でしっかりとその建物の全てが存在感を残していた。
まるでここら一帯で何らかのパーティーが行われるのではないか、なんていう、都会民には見慣れた夜景で錯覚に陥っていた。
由紀奈ちゃんは私のはしゃぎっぷりを疑問に思ったらしく、私にしがみつきながら恐る恐る景色を覗いた。
彼女の瞳は徐々に潤い始め、頬まで擦りつける勢いで、恐怖なんて忘れて、ただその景色に見惚れていた。宝石でも見つけたかのような反応だった。
「落ちても良いです」
「え?」
「ここになら、落っこちても良い。それくらい、何だか神秘的な魅力を感じます」
「分かる」
彼女は満足げに度々頷くと、反対の窓からも景色を覗いては、しばらく沈黙していた。その後、私の太ももを枕にして、体を丸めて寝転がり、透けた天井の窓から夜空を覗いた。
「何も思い出せませんでした。でも……来て良かったです」
私は彼女の前髪を整えてあげながら微笑んだ。
そして、彼女も薄く笑って、
「ありがとう」
と、頬を真っ赤に染めながら、面と向かってそんな感謝を述べてきた。
私もかなり恥ずかしかったが、彼女の目を見て「うん」と返してあげた。
そうして、彼女は夕食も取らずにすうすう眠ってしまった。私は病室まで彼女を運び、夕食を冷蔵庫に仕舞い、メモにそのことを書き置きしておく。
余った時間で、近くの図書館へ向かった。
彼女がどのようにして寒蘭の病院に運ばれたのか分からないが、もしかしたら、母親の本籍地が寒蘭なのかもしれない。住所録から、彼女の母親を探し出せる可能性は眠っていた。
ふと目覚めると、窓から差し込む光の強さに違和感を覚え、布団から飛び起きてスリッパを履いた。
「おはようございます、未希さん」
だが、昨日の夕食を朝飯代わりに食べている彼女を見て、自分が今、謹慎状態にあることを思い出した。
「そういえば、未希さん」
「ん? 何?」
手ぐしで髪の毛を整えながら洗面所に向かう。彼女は分厚い何かをパンッと叩いて言った。
「寒蘭に住んでたわけじゃないので、ここの住所録を見ても分からないと思いますよ」
私は手に持っていた歯磨き粉をポトリと落とした。
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