軽自動車の窓を開け、春の涼しい風を車内に流しながら山を登った。

「いえーーーい!」

 今までの彼女からは全く想像出来ない奇声が上がる。

 先輩と先生が、なぜ彼女を外に出してはいけないと言ったのか分からないが、外に出ることの出来た彼女はこんなにもはしゃいでいる。

 子供のように、無邪気に、楽しく。

「もうすぐだからね~」

「は~い!」

 一刻も早く彼女に景色を見せてあげたくて、さらに速度を上げて坂を上った。

 それにしても判断が難しいものである。彼女は元々子供なのだから、病気がなくてもこれくらいの喜び方をしてもおかしくないのだから。


 山頂まで登って、目的の湿地帯に足を踏み入れると、がらりと世界は雰囲気を変えた。無数に連なった細い木々が丸括弧のように囲い、それは空間の中心に向かうに連れて数が減り、十分に身動き出来るスペースとしては六畳間程度のものだった。水分を帯びた雑草は手前より少し奥の崖まで続いており、切断されたかのようにその向こうに自然はなく、点々と星々が煌めく夜空だけの世界が広がっていた。

 そして、この空間を飛び交う発光体の群れ。彼女は目を見開いて、あり得ないものを見るような目でその景色を眺め回していた。

「これは……」

 彼女が漏らすと、私はその正体を指に止めて答えた。

「ゲンジホタル。まだ夏の始まりだけど、このホタルの生息期間は五月から七月だからギリギリ見られるんだ」

「……」

 彼女は黙り込んで、その景色に釘付けになっている。それもそうだろう。この暗闇に広がる無数の発行体は、まるで英雄の帰還を祝っているかのように光を散らして踊っている。さらにこの地域の湿った匂い、心を癒す春の虫たちの鳴き声、川のせせらぎと、この場所には誰もが人目を引くレベルの芸術があるのだから。

「……っ」

 鼻水をすする音がして彼女の方を見ると、手の甲で目尻を擦っていた。だが顎から垂れゆく涙は止まることなく、彼女はしゃがみ込んでうずくまった。

「由紀奈ちゃん?」

 私が近づこうとすると、酷く震えた声で「来ないでください」とかけられた。

 彼女は鼻水を止めようと穴を塞ぎ、必死に腕を動かす。笑う姿といい、感情を人前で晒すことが苦手なのだろうか。

 そんなことを考えていると、彼女はついに立ち上がり、真っ赤な目でもう一度ホタルを見渡して呟いた。

「……ダメだ」

「……何が?」

「……」

 彼女は少し溜めた後、首を左右に勢い良く振った。

「ううん、私は間違ってないの。そう、間違ってない……」

「……」

 また、彼女は幾分か溜めて、真顔で私の方へ向き直る。

「未希さんのバカ、アホ、ドジ、間抜け」

「……」

「……何で何も言わないんですか」

「いや、ツッコむべきポイントかなって思ったから」

「……ツッコむべきポイントだと思ったんですか!? じゃあ何でツッコまないんですか、もう……」

 彼女は疲れたように雑草の上にお尻をつけて座ると、おもむろに夜空を見上げて笑った。

「あなたって、本物のバカなのか、私の心を掴むための演技なのかどっちなんですか」

「うーん。マクド派かな」

「誰も訊いてませんよそんなこと」

「それ以外私、分からないよ」

「あーもう分かりました! どうせ計算してるんですよね! あなたに心を掴まれた私の負けですぅー!」

 そう叫んで、彼女は片手で鼻から下を覆った。

「もう……」

「……まあ、本当は演技なんだけどね」

「でしょうね!」

「でも、素でもあるよ。いつもの私はもう少しハメを抑えてるんだけど、由紀奈ちゃんの前ではわざとらしくしてる、みたいな」

「はぁ……。お気遣いどうもです」

 彼女はまた顔を覆って、表情が落ち着くのを待っているらしい。

 少しかかりそうなので私も座ろうとしたところで、彼女は口を開いた。

「……あなたは悪魔ですね」

「え?」

「あなたは私から、大切なものを奪っていった。あれがないと、私の存在意義が乱れるのに」

「……」

 言葉の意味が分からず黙っていると、彼女は深呼吸してもう一度口を開いた。

「少し、一人になりたいので、どこか別の場所に行っていてもらえませんか?」

「……うん、良いけど……なんか、ごめんね」

「謝って当然です。私は……間違ってないんですから」

 彼女は依然顔を覆っていて、表情がどんなものなのかは分からない。

 ただ、先ほどから震えていた声が笑いによるものではないことだけは、何となく感じることが出来た。


 病人である彼女の姿が観察出来る位置で、私は考える。私が彼女から奪ったものが、彼女の存在意義が崩れるとは、何なのかを。

 私が来てから、確実に彼女は変わった。彼女自身がそう言っていたし、言われなくても、自分でも実感出来る。

 そうやって現実に執着心を燃やすことは正解のはずだ。なのに、それをすることで奪われてしまうものがあるらしい。

 病気に抗うことで失われるもの。それは何だ?

 ――まさか、彼女は病気に侵されたいのか? それなのに、私の登場によって図らずとも現実に執着心を抱いてしまった、とでも言いたいのか?

 だが、次の瞬間、そのような推測は瞬時に打ち消される。

 目の前に広がったものが、予想のはるか上を行くものだったからだ。

 ――彼女は傍の岩石を抱え、自分の頭部に大きく振りかぶっていた。

「由紀奈ちゃん!」

 急いで飛び出し、襲いかかる勢いで彼女にしがみつこうとする。

 彼女は私が迫っているのを確認すると、足元をふらつかせ、酷く焦りながら前方へ走り出した。

 その先は、――山を一直線に下る崖だった。

「危ない!」

 その警告と共に、彼女は足元の異変に気がつく。だが既に時は遅く、崩れた足元から彼女の体が宙に浮いた。

 届くか分からないし、もし届いても、自分ごと落ちてしまうかもしれない。

 だが、それでも、目の前の彼女は助けなければならない。

 必死に、崖下へ消えそうになる彼女の手を目がけて飛びつく。

 ――パチンと、手と手が触れ合う感触を味わった。

 彼女の体は完全に崖下へと落ちている。唯一彼女と私が触れている箇所は、手のひらと手のひら。

 完全に間一髪だった。

「……なぜですか……」

「え!?」

「何で、助けるんですか……!」

 だが、こんな、誰もが生にしがみつくであろう場面で、彼女はそう叫んだ。

 瞳一杯に、涙を溜めて。

「何で助けるって……そりゃ、助けないと死んじゃうでしょ!」

「私は!! 死にたいんです!!」

「え……!?」

 彼女は迫真の叫び声でそう嘆いた。溜まった涙を散らせ、私の手を必死に振りほどこうと足掻き始める。

「私には! 家族も! 友達も! 何もない! おまけに、少ない人生をループする!? 社会にも出られないし、仕事にも就けない! 結婚も出来なければ、一生養ってくれる人もいない! 楽しい出来事も、嬉しい出来事も、いずれ全て忘れる……! そんな、そんな私ですよ!? 死んだ方がマシじゃないですか!!」

「由紀奈ちゃん……」

「それでもあなたは! この手を離さないって言うんですか!? ねえ! 小桜さん! こんな絶望だらけの人生、何か価値があるんですか!? ないですよね!? 分かったら離してください! 私を……死なせて、ください……っ!」

「……」

 何も、反論出来なかった。なぜなら、世の中には、本当に死んだ方がマシな出来事がいくつもあるからだ。

 今だってそうだ。自らの死と、彼女が背負う全ての絶望を天秤にかけた時、その天秤はどちらに傾くだろうか。

 答えは、どちらにも傾かない。釣り合ってしまうのだ。死と同列の絶望を、彼女は背負っているのだ。

 一瞬、腕の筋肉が緩みかけた。ここで彼女を死なせる方が間違っているのか、自分でも分からなかった。

 彼女の抵抗力も相まって、ズルズルと体が崖の方へ引っ張られる。手のひらが離れてしまいそうになる。

 気がつけば、私は彼女の指だけを掴んでいた。

 ――瞬間、隣から看護服の腕が見えた。それを誰だか視認する頃には、彼女は釣られた魚のように崖から引っ張り出されていた。

「全く、外には出すなって言ったじゃない……」

 腕の正体――福瀬先輩は、ため息交じりにそう吐き、私の頭に割と強めのげんこつを下した。

「……すみません」

「もっと反省しなさい。この子はね、ただ病室にこもっているんじゃないの。アタシが外出禁止にしているのよ。室内にも、凶器になり得るものは置いていないわ。なぜか分かるわよね? こうなるからよ」

 先輩は火の付いたタバコで由紀奈ちゃんを指さす。彼女は不機嫌そうに目線を下に落とした。

「入院した半年前もそうだったわ。病気のことを橘先生に告げられて、病室に戻った直後に傍の果物ナイフで頸動脈を切りかけたのよ」

「……」

 彼女から反応はない。否定しないということは、全て本当のことなんだろう。

「はぁ……随分と嫌われたものね。小桜のすごさが身に染みて分かるわ」

 先輩はタバコを崖下に落とすと、近くに転がったヘルメットを被る。

「先に帰っているわ」

 そう言い残すと、先輩は徐々に暗闇へ姿を消していった。

「はぁぁ……」

 由紀奈ちゃんから長めのため息が聞こえた。未だ繋がれた彼女の人差し指に力がこもる。

 彼女の体が、崖の方へ翻った。

「待って」

 腕を掴んで呼び止める。彼女は一瞬だけ動きを止めたが、腕を振りほどこうと試み始めた。

「待って、由紀奈ちゃん」

「何ですか」

「私の質問に答えてほしい」

 彼女の両肩に手を置き、俯く顔を覗き込む。彼女の言葉に対して感じた不信感を、率直に問うた。

「生きたいんでしょ?」

 直後、彼女はピタリと動きを止めた。図星だろうか。私はさらに詰め寄った。

「由紀奈ちゃんは、私を先輩みたいに脅さなかった。私に笑った。この景色に涙を流すほど感動した。そして、私は間違ってないって、ここに来て二度も言い聞かせていた。……自殺することに、迷いがあるんだよね……?」

「うるさい!! どうぜ私なんて、生きてても!」

「でも」

「うるさい!!」

「由紀奈ちゃん!」

 私は拳を震わす彼女を優しく抱いた。彼女から疑問符が漏れた後、やがて、鼻水をすする音が聞こえてきた。

「確かに、君の絶望を考えると、本当に死の方が救いなのかもしれない。けど……君に、由紀奈ちゃんに、少しでも生きたいって、病気に抗いたいって想いがあるなら、私はそれを叶えさせてあげたい」

「……生きたく、なんか……」

「素直になって良いんだよ」

 声を酷く震わす彼女に、優しくそう投げかける。

 私の肩に、生温かい水滴がいくつもこぼれ落ちた。

「……生きたい……っ。生きたいよ……。ここで死んでおいた方が、楽なのは分かってるのに……。生きて、生きてまた、あなたに笑いたい……。こんな景色を、また、観せてほしい……っ」

「うん。いくらでも笑わせてあげる。いくらでも、見せてあげるからね。だから……病気に、抗おう」

「うん……。うん……っ!」


 この選択を、間違っていると捉える人もいるかもしれない。

 実際、これから始まる彼女との物語は、酷く切なく、悲しく、失意の連続。たった一つの『私』という希望に縋って、彼女はこの病気と、何十年も戦い続けなければならない。

 それでも、彼女には生きてほしいと、今はそうとだけ思っていた。


 そうして日は明け、彼女の手術は始まった。

 効果の適用期間は一か月。この間だけは、症状の進行をある程度食い止めることが出来るらしい。

 だが、いつかは終わりの日がやってくる。赤ちゃんへ戻り、彼女はそれを繰り返す。

 そんな彼女を生きさせたのは私だ。彼女が私に縋ったのなら、私はその期待に応えなくてはならない。病を治す勢いで彼女を幸せにし、現実への執着心を濃くしていかなければ。

 そうやって彼女の残酷な現実から、光なき未来から目を背け、思考を歪ませていたことに、今の私が気づくすべはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る