15
早朝五時に病室へ訪れたのは、福瀬先輩だった。
「もうすぐ指定の時間が訪れるわ。一緒に事務室で待ちましょう。あなただって、寝ている間に全てのことが片付いていたら、嫌でしょう?」
その通りだった。事実、私は一睡も出来ていなかった。
先輩の顔は肝が据わっていた。私はすぐに看護服へ着替え、先輩同様に心を構えて事務室へ向かった。
そこには、橘先生と親し気に話す白髪の医者がいた。年齢はだいたい四十代後半といったところか。子供に人気が出やすそうな、愛嬌と優しさを詰め込んだようなおっとりとした顔つきだった。
彼は私たちを見つけると、微笑んで気草に手を挙げた。
「福瀬くん、久しぶり。タバコはもうやめたかい?」
「いやぁ、先生……まあまあ、あはは……」
先輩は冷や汗を掻きながら数歩下がると、私の背後に隠れて肩を叩いた。
「先生、この人がアタシの後を引き継いだ小桜です」
「ほう」
彼は興味深そうな目で私を見据えると、手を差し出す。どうやら握手を求めているらしい。それに応じると、彼は微笑んで名乗った。
「井沢です。君は?」
「小桜です」
「へえ」
井沢先生は依然興味深そうな目で私の表情を観察してくる。愛想笑いを浮かべておくと、彼は不意に大笑いして満足げに頷いた。
「身体呼応症候群にかかる者は、ほとんど社会に適応出来ていない人たちだ。それゆえに強く望んでしまう。その中でもかなり重度だと聞いていた雨森君を更生させたのは、本当に素晴らしい」
彼はソファに座り込むと、指の関節を鳴らしながら言った。
「まあ、心配はするな。手術は成功する。あくまで進行を遅らせるというだけだがね」
「ど、どれくらい伸びるんですか?」
「今回の手術は、一年が妥当だろうね。負荷が強いから、もう手術は出来ないが」
一年。それだけじゃ、結婚も出来ないし、社会にも出られない。やはり手術をしたところで、彼女の人生が元通りになるわけではない。
だが、その手術のおかげで、彼女は一つ歳をとることが出来る。
「さて」
彼は一息吐くと立ち上がり、橘先生の肩を叩く。
「そろそろだろう。行こうか」
「はい」
二人はそのまま出口へと向かうが、井沢先生は「あ」と漏らしてこちらへ振り向いた。
「小桜君、その様子だと何も心配は要らなさそうだが、一応訊いておこう。彼女の容態は? 完全に赤ん坊まで戻っていては、体が手術の負荷に耐えられない」
二人の目は、私を睨みつけるくらい真剣なものだった。
彼らの期待に、私は十分な自信を掲げて応えた。
「大丈夫です。頑張ってください」
彼らは表情を緩めて、「ああ」と言い残すと廊下へ出ていった。
残された先輩は、早速ソファに座り込むとタバコを手に取り、火を付けた。煙は優しく空間に放たれ、鼻腔を刺激した。
「さ~て、いよいよね、小桜」
「はい」
先輩は二本目のタバコに火を付ける。
「……先輩、ヘビースモーカーですね」
タバコを二本も口に咥え、先輩は気持ち良さそうに煙を吐いた。
「これを吸っている時だけ、全てを忘れられるのよ。過去も、未来も。……あの子も」
「……私は、そうだとしても、吸いたくありません」
「どうして?」
「失敗は後悔してこそ、次に繋げられるんです。逃げていたら、また同じことが起きた時、同じ運命を辿るだけですから」
先輩は器用にタバコを歯で安定させながら笑った。
「その通り、正論よ。だけれど、それは失敗を軽視し過ぎているわ。本物の失敗と向き合ったことのない人の、ただの戯言。理想に過ぎない。人には心があるんだから、それが磨り減った時のことを考えなくちゃ」
「……」
ぐうの音も出なかった。
「まあ、こんな悲しい話よりも、もっと楽しい話をしようじゃない」
先輩はソファを一人分空けて、タバコのカスを灰皿に捨てて微笑んだ。
「逃避行した後、二人でどんな生活を送りたいか、アタシに聞かせてよ」
それから、私は語った。語り尽くした。人生で一番人との会話に熱を注いだ。
まず引っ越しの準備を終えたら、家の周辺を散歩して、新たな世界を目に焼きつける。そして、気がついたら田舎の圧巻な景色に見惚れていて、辺りが暗くなるまで二人で歩き続ける。
その日の夕食は、通りかかったすき屋とかにしたい。その後は銭湯なんかに行って、さっぱりした状態で家に帰ったら、二人で就寝の準備をして、一緒の布団で肩を寄せ合って眠りにつく。
朝起きたら、私は仕事に向かわなくちゃいけない。でも、赤ちゃんに戻るまでは、彼女も一緒に連れていく。そして、病院の子供たちと、また一緒に遊ばせてあげる。
祖母がいつかまた、押しかけに来るかもしれない。そんな時は、由紀奈ちゃんといる幸せを思い返して、戻る気がないと伝える。でも、そうやって凌いでばかりでは、祖母が亡くなった時に後悔してしまう。だから、いつか二人で話に行く決意を固めたい。
副業は塾講師でも家庭教師でも良い。とにかく、そんな生活を繰り返して、彼女が赤ちゃんに戻ってしまったら、素直に子育てを始める。記憶は再構築されるかもしれないけれど、その中でまた、前みたいな幸せを勝ち取ってほしい。だから、物心がついたらまた、病院に行って、新しい子供たちと遊ばせる。
学校は残念ながら無理だ。社会にも出られない。だからこうやって、人とは違う生き方をしなくてはならないけれど、度々口にもしていた結婚については、いつか必ず叶えてほしいと願っている。
出来れば近所の人にも理解を得てほしい。良識のある人なら、きっと彼女を認めてくれる。彼女はそうやって、人の笑顔に囲まれながら生きていく。
それが私と彼女の、理想の生活だ。
気がつけば、先輩は柄にもなく涙を流していた。一滴ではない。二滴、三滴……それは滝のように溢れ出して、先輩はハンカチを両目に被せて天井を仰いだ。
「……良いね」
「……由紀奈ちゃんが喜んでくれれば良いんですけど」
「きっと……喜ぶわよ。だから……頼んだよ。アタシが果たせなかったことを果たして……、アタシの二の舞だけには、ならないで……」
「……はい」
頷くと同時に、事務室の扉が開いた。先輩は咄嗟にハンカチを取り、いつもの微笑みを作り上げた。だが、その笑みは、すっと消えてしまった。
事務室に入ってきたのは、井沢先生と橘先生だった。
もう手術が終わったのか、と思った。だが、二人の神妙な顔つきを見れば、何かがあったのは明白だった。
「あの……何が?」
二人は椅子に腰をかけると、後頭部を掻いたり、髪を掻き揚げたりして、問いかけには応じなかった。
私はますます嫌な予感がして、橘先生の肩を揺さぶる。
「何があったんですか!?」
「……知りたい?」
「当たり前です」と叫んで問い詰める。橘先生は腕を組み、背もたれに身を預けると俯きながら言った。
「なら、自分の目で確かめてみたら良いよ。彼女の病室に、もう運ばれてる」
言葉を受け取ると同時に、私は病室へと駆けた。
エレベーターで貧乏ゆすりしながら、私は嫌な予感の正体を推測してみる。
彼女は手術するに相応しい体ではなかった。
以前の手術の適用期間が過ぎていないため、始められなかった。
手術の方法に誤りを発見し、始めようにも始められなかった。
様々な可能性が浮かんでくるが、恐らく――考えたくはないが――手術するに相応しい体ではない、というのが割と現実的だろう。
けれど、四階の廊下を駆け、病室が見え始めた辺りで、私は彼女に何があったのかを察することが出来た。
元気な泣き声だった。
それを聞いて、私の足は動きを止めた。
体が、前に進むことを拒否しているのだと思う。手足も何も、石化したみたいに固まって動かない。
後ろから廊下を蹴る音が近づいてくる。それは私と同じ位置で音を止めた。
だが、想定外にも、すぐに音は再開した。私の腕を取って、福瀬先輩は病室に駆け込んだ。
「……!」
そこには、赤ちゃんがいた。奇妙な赤ちゃんだ。言語の知らない泣き声、芝居にしては出来すぎている歪んだ表情、ベッドの上で体を丸める様は赤ちゃんそのものなのに、体つきは全く昨日と大差ないじゃないか。
思わず思考が停止していた。どういう理屈か分からず固まっていると、先輩はため息交じりに説明を始める。
「あの子が遡行型の身体呼応症候群だと結論づけられたのは、体内のあらゆるものが遡行を始めていたからなの。けれど、この病は、発症者の思い込みに身体が呼応するというもの。知らない間にあの子はほかの何かを思い込んでいて、その結果、二つの願いが呼応し合い、脳の遡行のみに症状が治まったってところかしらね」
息を呑んだ。体の遡行を免れたとしても、冷静に考えて、大人の体を持った赤ちゃんの方が、さぞ生きずらいではないか。
まだ解せない点もある。
前の手術の適用期間はまだ過ぎていない。どうして一夜でここまで早く遡行してしまったのだろうか。
膝から崩れ落ちて、壁にもたれかかった。
「何で…………」
「それはこっちのセリフよ」
先輩は私を見下ろすと睨みつける。拳を小刻みに震わせながら、それでも何とか冷静さを保とうと、ため息を交えて問うた。
「どうして、あの子と一番長くいたあなたが、何も気づけなかったのかしら」
だって、とすぐに返そうとした。
だが、ふと思い至る。症状は本当に進行していなかったのか?
共に生活するにつれて、彼女が明るくなっていった理由が、単に懐いたからではなく、脳が幼児化していただけだとしたら?
彼女が子供と遊ぶ時、あれほどまでに空間に馴染めていたのも、脳が幼児化していただけだとしたら?
思い返せば、些細な点はいくらでも見つかるはずだ。馴れ初めの時点で、もう異変ならあったのかもしれない。
そう、馴れ初めの時点で。
たった一回会ったくらいで、あれだけ死にたがっていた彼女は笑い、私に興味を持ち、「二度と来ないで」といった文言を出さなかった。初めは私の能力を過信していたが、こういった無邪気さも、ただの幼児化に過ぎなかったのだろう。
あの時にはもう既に、私は異変に気づくべきだった。
「気づけなかった……私の、せいだ……」
「……まあ、あなたは本当にあの子のことが好きみたいだった。そのあなたが気づけなかったのだから、仕方ないわね」
先輩はまたため息を交えて続けた。
「何でこんなに早く進行したか……理由は分からないけれど、考えられるとしたら……あれね。子供と長く遊びすぎたことね」
「……え……?」
力が入らない脚で立ち上がる。先輩は後頭部を掻きながら、悩ましそうに説明した。
「小さい子供と、それより何歳も年上の人間が話したり、遊んだりする時、年上の人間は子供の目線になるでしょ? 例えば、腰を同じ高さまで下げたり、口調を和らげたり、一緒におままごとしたり……。大人と子供では合わないから、子供が懐きやすいように年齢を下げる。その幼児化が、図らずとも症状を進行させてしまったのかもしれないわね」
「そ、そんな……」
彼女と子供が仲睦まじく遊んでいる間に、私がそれに微笑んでいる間に、病気の進行は促されていた? そんなのあんまりじゃないか。私は何のために今まで、彼女の隣に寄り添ってきたんだ?
分からない。考えたくない。時間を巻き戻したい。私自身が、許せない。
先輩は最後にもう一度ため息をこぼすと、病室から出ていった。
ベッドで泣く由紀奈ちゃんの元へ足を動かす。だがそれは途端に力が入らなくなって、地面に這いつくばりながら、情けない格好で彼女の元まで進んだ。
手すりを掴んで何とか起き上がる。彼女を見下ろし、ふと脳裏に過る。
彼女の母親は、今、どこで何をしている?
自分の子供がこんなことになっているのに、まだ彼女を見捨てたままか?
ごめん、由紀奈ちゃん。君は嫌がるかもしれないけれど、今度は私が付いている。だから、何としてでも母親を見つけ出して、何か言ってやりたいんだ。探偵に頼ってでも。
今度こそ母親を見つけ出すと、強く誓った。
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