#97 再来



「こんな形で顔を合わせたくはなかったな」


 藤村は静かにこぼした。

 塩原も唇を噛み、二人のあいだに横たわる遺体に目をやった。司法解剖を終えた猪瀬志保の胸には、十字の縫合痕が刻まれている。


 死因は失血死と断定された。数日経ち、重要参考人の女児の証言も明らかになりつつある。女児は猪瀬を刺したあと、いったんは店を出たという。その時点で救急車を呼んでいれば、あるいは猪瀬がブレスレットの通報ボタンを押していれば間に合ったに違いなかった。だが現実では女児は店を去り、猪瀬はブレスレットを外した。


 ブレスレットが外され、電話にも応答がないのを不審に思った本部はただちに崎森と玉池を差し向けた。彼らが現着したとき、猪瀬はすでに事切れていた。女児の自首を受けて湾岸警察署の機動捜査隊員2名が次いで到着した。年若い隊員は猪瀬と面識があり、変わり果てた姿を見て言葉を失ったという。

 藤村はひとつため息をつき、かたわらのディスプレイの前に座った。


「塩原くん、これは殺人なのかな」


 藤村に目をやった。彼の視線はディスプレイに注がれたままだ。そばには事件で用いられたのと同型の2本のナイフが置かれ、画面には女児の証言と捜査で明らかになった猪瀬の足取りが描かれている。


 女児は前日に江東区で起こった表出騒ぎの影響を受けていた。とはいえ当初思いだした記憶はさほど多くはなく、想起のきっかけはその晩に見た明晰夢めいせきむだったらしい。

 彼女は起きるなり家を飛び出し、「シンクレール」へ向かった。猪瀬に記事の真偽を確かめ、衝動的にテーブルに置いてあったペティナイフで彼女の腹部を刺した。

 錯乱状態だった女児はすぐに正気を取りもどした。狼狽する彼女に、猪瀬は店を出るよう言った。女児をかばうためとみられ、その証拠に店内のドアやテーブル付近には少量の血が散っていたが、女児の指紋はきれいに拭き取られていた。


 猪瀬はその後、キッチンへ向かった。腹部のペティナイフを引き抜き、ナイフについた血液を水で洗い流している。ペティナイフは冷蔵庫の下に隠されていた。床に落としたのちに蹴り飛ばして奥に押し込んだのだろう、彼女の靴のつま先にわずかに付着した血液がルミノール液に反応を見せたと報告があがっている。

 そして、女児の痕跡を消し去った猪瀬はキッチンにあった別の包丁を取り、女児が刺したのと同じ場所を自ら刺した。


「どうしてかばったんですか」


 目を閉じた猪瀬に向かって問いかけた。

 そんなことをしなければ、あなたは。

 女児が猪瀬を刺したペティナイフは刃渡り15cm。猪瀬が自ら刺した包丁の刃渡りは18cm。その3cmが命運を分けた。

 ペティナイフでは届かなかった太い血管を傷つけ、大量出血をまねいた。 

 

 これは殺人だろうか? それとも自殺か?

 塩原は自らに問う。


 猪瀬は女児をかばった。前科者にさせたくないからに違いない。女児の未来を思案し、来店した痕跡をすべて消した。女児が通報しても言い逃れできるよう、一度刺さった刃を抜き、自らがやったように仕向けもした。状況証拠や証言ではそう取れる。

 だが、猪瀬が現実に絶望し自死を選んだとも解釈できる。自らの前世の暴露記事、休業に追い込まれた店舗、殺人犯ではないかという疑いの目、周囲からの弾劾だんがい。挙げられる理由はいくつもあった。女児の弁護人はそこを突いてくるはずだ。

 自殺の可能性。衝動的な犯行。初犯。未成年。前世を思いだしたばかり。錯乱していた。殺意はなかった。反省している。後悔もしている。更生できるはず。未来ある若者。もう一度チャンスを。

 世間がどちらの肩を持つかは明らかだ。いずれ女児の前世がクローズアップされる。猪瀬の前世もまた取りあげられる。世間が彼女をどうとらえるか。


 いまとなっては分からない。包丁を自らに突き立てたとき、猪瀬に生きる希望があったのかどうか。最初から死ぬつもりだったのか。怪我で済むと思っていたのか。誰にも分かりはしない。



「不幸中の幸いは」藤村は立ちあがり、つぶやいた。「遡臓摘出前だったことだ」

 言葉の意を汲み、塩原はいった。

「……彼女はまた、生まれ変わってくる」 

「そう。殺人を犯した木田秋岳の記憶と、前世を悔いて常連客を命がけで守った猪瀬志保の記憶を持って、また生まれてくる」


 生まれ変わるまでにかかる年月は人による。10年とせず生まれ変わった者も、100年以上経ってから生まれて来た者もいる。法則はない。誰がいつ生まれ変わるかも、誰にも分かりはしない。


「人間の魂は、いつ身体にさずけられるんだろうね」ひとりごとのように藤村はいった。「彼女の魂はいま、身ごもった女性の腹にあるかもしれない。たったいま産声をあげたどこかの赤ん坊に、彼女の魂がもう宿やどっている可能性もある。……あるいは、もっとずっと遠い未来、俺たちが死んだあとに生まれてくるのかも」

 想像する。彼女がまた生まれ変わる未来。

 するりと言葉が漏れた。

「河野を思いだすでしょうか」

「……思いだすだろうね」


 現場写真には、剥きかけの桃が床に転がっているのが映っていた。別れ際に、河野が猪瀬に桃が好きだと言うのを国見が聞いていた。

 いつか生まれ来る彼女は、いつ記憶を思い出すだろう。喫茶店に行ったとき? 背後に誰かが歩いているのに気づいたとき? 桃を剥いたとき?


「会えると思いますか」

 頓狂とんきょうな問いが出た。また彼らが会える確率など、天文学的数値に違いない。分かっていても聞きたくなった。肯定してほしかった。

 主語の抜けた問いを藤村は理解し、塩原の目を見て微笑んだ。

「会えるかもしれないよ。意外に世間は狭いから。現に、実例が目の前にいるだろう」


 口を開き言葉を発しようとして、藤村の端末が鳴った。

 不穏さを感じさせるピアノの旋律。シューベルトの「魔王」。

 井沢専用に設定したその曲を聴くなり、藤村は露骨に嫌な顔をした。

 その顔を見て、塩原はようやく笑うことができた。








 *****








 蝉の声はもうしない。めっきり気温が下がり、薄手の羽織はおりものが手放せなくなった。薄暮はくぼがせまっている。ビルの狭間から見える夕日は燃えるようなオレンジ色で、河野は少しのあいだ立ち止まり、その光をながめた。手に持ったものが風に吹かれ、がさがさと音がたった。

 人気の少ない道を選んで通って店の近くに出た。規制線はもうかれていた。業者が荷物を運びだしたシンクレールは、ひっそりと夕日に照らされていた。周囲には誰もいない。がらんどうの店内と相まって、ものさびしさが漂っていた。


 店先まで近寄る。壁には誰が貼ったのか、猪瀬を非難するポスターが残っていた。

 因果応報。天罰。地獄で償え。

 その紙に、そっとナイフを立てた。刃先から煙が出る。夕日色の炎がじりじりと紙を焼いた。黒いかすと化したそれらを踏みつけてなすれば、黒い尾が引いた。

 入り口の近くには献花台が設置され、色とりどりの花が置かれていた。報道で見た光景だ。献花台を設置したのは常連客のひとりで、猪瀬の支援活動を振り返り、その死をいたんでいた。別の常連客は、この先も命日には献花しますと涙ながらに語っていた。


 花束を置いた。白いユリとトルコキキョウ。置いたとたんに香りが立った。近くにあった花屋の老爺ろうやは、供花だと告げると猪瀬への花束かとたずねてきた。花束をつくりながら、店内に飾る花をよく買いに来ていたと彼女を懐かしんでいた。

 献花台には小さなメッセージカードとペンがあった。脇に置かれたイーゼルには、大きなコルクボードが立てかけられている。

 猪瀬さんへメッセージを送りませんか。そう書かれたボードを埋め尽くすように、メッセージカードが貼られている。

 大人の字。子どもの字。角ばった字。丸みを帯びた字。

 ありがとう。またどこかできっと会いましょう。美味しい料理をありがとう。いのせさん、だいすき。天国で美味しい料理を作ってくださいね。誰になんと言われようと、あなたを尊敬します。子どもがお世話になりました。ぼくがおじいさんになるまえに、生まれかわってきてね。

 写真もいくつか貼られている。料理の写真。笑顔を浮かべる子どもの写真。客が生前の彼女と撮った写真。店前で子どもたちとおどけている猪瀬。彼女は屈託なく笑っている。

 写真をながめた。きっと、きちんと生き抜いてみせます。そう告げた彼女の顔も笑っていたのを思いだした。


 カードを取り、ペンを走らせた。名前は書かなかった。ピンをつまんで、コルクボードの隅に、そっと刺した。


 また来ます。


 ただそれだけのメッセージを残し、河野はゆっくりと来た道を戻っていった。






 <因果編 完>


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