#96 自由
スーパーで食材をいくつか買った。桃を手にとったとき、自然と河野の笑顔が思いだされた。最初で最後に見た彼の笑顔は、とても穏やかなものだった。これまで見てきた彼の姿がまやかしだったのではとすら思った。本来は穏やかに笑う人なのだろう。自分が近くにいると、それが叶わないだけで。
徒歩で店まで向かう道のりで、ジョギング中の女性が後ろから猪瀬を追い越していった。追い越される瞬間に横目で女性の顔を見た。知らない顔だと脳が判別すると同時に、奇妙な違和感をおぼえた。これまでとなにかが違う気がする。だが、それがなにかを表現できない。
店の付近にカメラを持った者がいる気配はなかった。見覚えのないポスターが貼られており、落書きがされていて、人の気配がいっさいしない。それだけを除けば、いつも通りに見えた。念のため用心して足早に駆けより、店内に入る。
室内も変わったところは見当たらない。不自然なほどにいつものシンクレールだった。その「いつも通り」を肌で感じるほどに、猪瀬のなかに芽生えた違和感はむくむくと成長した。ひとつ、ふたつと深呼吸をする。買い物袋をテーブル席に載せ、席に掛け、突っ伏した。ひんやりとした感覚が肌を通じて伝わってくる。
記憶がおかしい。河野の姿を目にしたときから薄々感じていた。重要ななにかが身に起こったに違いないが、すっぽりと抜け落ちている。不思議な感覚だった。思い出そうとつとめても、手がかりすら浮かばない。彼ともっと言葉を交わしたはずだが、なにを話したか考えようとすれば頭に薄くベールがかかり、真実を遠ざけてしまう。
きっと忘れたほうがいいことだったのだ。自分を説得にかかる。それでいて、3日後の手術を受けたら自分はどうなるのか、不安がもたげた。
覚えていたこともあった。河野の過去。どの事件の被害者だったのかまで記憶があった。誰かが暴いたのか、彼自身が話してくれたかは思いだせない。
被害者だからもう会わないのかとたずねたとき、彼はかすかながら動揺をみせた。猪瀬が投げいれた言葉の小石はわずかに彼の心の水面を揺らした。だがそれはじきに元の
これ以上考えるのはよそう。忘れろという彼なりのメッセージなのかもしれない。席を立ち、会計カウンターそばにあるコンポの電源を入れてラジオを流した。
車内で聞いたのとは違うラジオ局が同じようなニュースを取り上げていた。死者が6人、けが人が200人以上出ていたと知る。国立記憶科学研究所にはすでに500件をこえる問い合わせが入っているともアナウンサーは添えた。
前世の記憶を取りもどした人たちは、いま、なにを考えているだろう。自分が生きた時代を思い出し、さらなる記憶を手繰ろうとネットで情報収集しているだろうか。事故や事件に関わった者なら、該当するニュースがないかと懸命に探しているかもしれない。それか、自分の前世はこれではないと信じがたい気持ちでじっと考え込んでいるか。記憶を取りもどした
断片的な記憶を思い出した日、これ以上思いだすのが怖くて必死に気を紛らわした。しかしその晩、明瞭な夢で自分が犯した過ちを見せつけられた。起きてすぐに罪悪感にかられた。前世の罪へではなく、しでかしたことを思い出さないでいようとする自分を遡臓に見透かされた気がしたのだ。思いださないなんて許さない。それが手をかけた彼女の念か、内なる猪瀬の罪悪感の発露かは判然としなかった。
風間や高柳はどうだっただろう。どうして彼女らはあんな行動に出たのだろう。どんな過去が彼女らを突き動かし、苦しめていたのだろう。
買い物袋から桃を取りだした。ペティナイフとまな板をキッチンから持ちだし、テーブルに置いた。キッチンはコンポの音が届きづらい。音を耳に入れていたかった。ニュースが終わり、音楽番組がはじまった。陽気な男性パーソナリティが近況を語りはじめる。
高柳に過去を暴露された瞬間、もう終わりだと思った。恐怖と絶望、そしてほんのわずかな安堵。もう隠し立てしなくて済む。解放される。そう感じもした。自分ですら正視したくなかった過去を隠しつづけるのはつらかった。
受け入れて償ってゆくと河野に誓った決意も、心に根を張ったものとは言えない。なにかあれば根底から揺らぎかねない、
桃の皮を剥く。甘い香りがただよう。柔らかい皮がまな板に落ちてゆく。
高柳にかけられた言葉がよみがえる。
『本当に通いたかったら店主の前世がどうあろうとお客さんは通ってくれるんじゃないですか?』
『お店の常連さんにいますよ、娘を強姦されて殺されたお父さん。……もちろん、前世の話ですけど。その人、あなたをどんな目で見るかなあ?』
『騙されたと思うでしょうね。憎しみも沸くかもしれない。前世を思い出して辛い思いをするかも。でもそれって、猪瀬さんが正直に公表していれば防げましたよね。前世犯の営む店に近づくこともなかったでしょう。……他にもいると思いますよ。あなたが関わってきた人の中に、たくさん』
自然と呼吸が荒くなった。手を止め、首を振る。私にすべてを
陽気なパーソナリティはようやく近況報告を終えた。
『……という話はさておき。なんと今日で8月も最後、明日から9月ですって。1年って早いですねえ。ま、このフレーズも毎年言ってる気がしますが。そんな8月31日の募集テーマは「元気をもらえる往年の名曲」。みなさんが前世で聴いた、あるいはいま聴いても素晴らしいと思える曲をドンドンご紹介していきます! まずは千葉県のラジオネーム、フックンさんのリクエスト。『つらいときはいつも
芯の通った女性シンガーの声が流れた。猪瀬の知らない曲だった。手を止め、しばし耳をかたむけた。英語の歌詞で意味は分からないが、背を押される心持ちがした。
サビを終えたあたりで、コンコンと店のドアをたたく音がした。控えめなノック。
身体がびくつき、頭は高速で回転をはじめる。コンポの音は外まで届かない。外から見えない位置に座ったはずだ。いったい誰だろう。
唾を飲み、そっと身を移して近くの窓からドア前に立つ人間が誰かを覗きみた。
マスコミ関係者であれば居留守を使うつもりだったが、猪瀬はすぐにドアに近寄って開けた。カランと鐘の音が鳴る。
「りっちゃん、どうしたの?」
梨帆はこちらを見上げ、なにか言いたげにしたが力なく首を振った。
これまでにも彼女が元気なく店を訪れたことは何度かあった。同居する継母と折り合いが悪く、なにかにつけて梨帆の欠点をあげつらい、過剰な小言がいつしか故人である最愛の実母の悪口へと発展するのだと、幼い語彙で彼女は話した。家にいたくない。そう言っては店を訪れる梨帆を、猪瀬はいつも気にかけていた。
目の前に立つ梨帆は部屋着同然の服装だった。寝起きのまま家を飛び出してきたのか、髪もぼさついている。
「……おいで。桃むいたから、一緒に食べよう」
彼女の手を引き、先ほどまでいた場所に座らせた。いつもは楽しそうに店内を見まわし、ここ最近は河野の姿を見つけては喜んでいた梨帆は、うつむいて膝にのせた手に視線を落としたままだ。ラジオの曲は変わり、また聞き覚えのない洋楽が流れていた。
好きな飲みものを出してあげよう。お菓子も少しばかり残っていたはずだ。そう思って立ち上がった猪瀬を、梨帆の声がとめた。
「猪瀬さん」
かぼそい声だった。猪瀬はなるべく優しく返事をする。
「なあに?」
「ほんとなの?」
「なにが?」
「……ニュースの記事」梨帆はうつむいたまま続けた。「見ちゃったの。……猪瀬さん、前世で女の人をレイプして殺したっていうの、ほんと?」
息を呑んだ。知られた苦しさより、知った彼女の心痛のほうがよほどこらえた。店に通うのを良しと思わない継母が彼女に教えたかもしれない。レイプという単語が9歳の子どもの口から出た事実に、猪瀬は悲しみと自らへの情けなさをおぼえた。
彼女を落胆させてしまった。懐いていてくれたのに、知ってしまったのだ。目の前にいるこの女が、前世で人を殺した事実を。
それとなく話をそらすこともできた。
「……黙っていてごめんね」静かにいった。「ニュースの記事は、本当なの。でもね、りっちゃん、私は――」
梨帆に視線を合わそうと腰をかがめたそのとき、猪瀬は強い衝撃をおぼえた。胸のなかに梨帆が飛びこんでいる。体勢を崩し、後ろに倒れる。
息がつまった。小さな背中を撫でようと手をのばし、激痛が身体をはしった。熱い。
梨帆が身体をどかし、静かに立ちあがった。猪瀬も身を起こそうとしたが、痛みで動けない。痛みの中心地に手をやる。指に触れるものがあり、腹を見た。ナイフが刺さっていた。指が赤く染まった。テーブルをみやる。ペティナイフがない。
茫然と梨帆を見上げた。その顔には、明らかな
「ふざけんなよ」
これまで聞いたことのない低い声で彼女はいい、右足を強く踏み鳴らした。
「ふざけんなよっ! お前みたいな、お前みたいなやつのせいで……俺の娘は……有紗は……っ!!」
高柳の声が耳奥で響いた。お店の常連さんにいますよ、娘を強姦されて殺されたお父さん。
事実だったのか。あなただったのか。思い出したんだね。
数多の感情が全身をかけめぐった。
「……ごめんなさい」
小さく、言葉が漏れた。それを耳にした梨帆は、びくんと肩を震わせて目を見開いた。
「わたし……どうして……違うの、そんなつもりじゃなかった、だって、猪瀬さんは……猪瀬さんっ」
梨帆が駆けよる。涙が頬に伝っている。車内で聴いたラジオの音声がよみがえる。記憶を思いだすとパニックになりやすく、ふだん取らない行動に走る場合がある。非常に衝動的、暴力的な行動に出ることもあるんだそうです。
猪瀬は懸命に身体を起こし、梨帆にいった。
「逃げて」苦しげな声が出たが、かまわず続けた。「早くここから出て。私は大丈夫だから」
「だって、猪瀬さんを、わたし……っ」
「いいから。……りっちゃんは優しい子でしょう。大丈夫、記憶を取りもどしてびっくりしただけ。これくらい、ぜんぜん平気」
痛みをこらえ、腹からナイフが生えたまま、手近にあったタオルを取った。ナイフの柄に残された梨帆の指紋をぬぐう。柄が動くたび、焼けつくような痛みが襲った。
なおも梨帆は動かない。迷っているようだった。猪瀬はもう一度いった。
「行って、早く、お願い。……大丈夫だから、ね。私にまかせて。ぜんぶ秘密にする。……秘密だよ。誰にも言っちゃだめ」
血のついていない手で頭を撫でた。背に手をやり、出口に向かわせる。梨帆は振りかえったが、猪瀬がうなずいてみせると小さな手で涙をぬぐい、駆けていった。
タオルでドアノブの指紋を拭きとる。彼女が触れたであろうところすべてを拭いた。河野から渡されたブレスレットを外し、テーブルに置く。手がすべり、テーブルの桃が床に転がった。
流れていた洋楽のボリュームが下がる。パーソナリティがまた喋りだす。
『続いての曲にいきましょう、東京都江戸川区、ラジオネーム、今日で10連勤目さん。ええ、大丈夫ですか。休みましょう。『忙しいけど楽しくもなく、さほど稼げない仕事に行く毎日ですが、
きれいなコーラスが耳にはいった。聴きおぼえがある。歌詞を調べたことがある。いつだったろう。もう思いだせない。
ゆっくりとした足取りでキッチンへ向かった。梨帆に前科をつけさせはしない。殺人犯にもしてはいけない。私が辿った道を行かせてはいけない。その一心で動いた。
血が
このままあの子が自首をして、誰かがここに駆けつけたら。腹に刺したナイフが彼女によるものだと知られてしまう。それはだめだ。記憶を取りもどしたあの子を、これ以上つらい目にあわせてはいけない。
調理台に辿りつき、収納をあけ、包丁を一本手にした。それを台に置くと、ふうっと深く息を吐き、腹に刺さっていたペティナイフを抜いた。血が流れる感触。神経と神経が刺激をさけぶ。顔がゆがむ。
すばやく水道水で血を洗い流した。ペティナイフを床に落とし、つま先で蹴って冷蔵庫の下に滑りこませた。
呼吸を深め、吸って、息をとめる。調理台に置いた包丁を取り、間髪入れずにペティナイフが刺さっていた場所へ、刺した。
大丈夫だ。梨帆の
先ほどよりも血が流れてゆくのを感じとった。力をなくしかけている足を奮起して、よろよろとフロアに戻った。足がもたつき、やがて膝をつく。床に赤が散る。下を向きそうになる。こらえて、店内を見渡した。
私の
ゆっくりと床に仰向けになった。QUEENが流れている。いつか聴いた曲。
視界が少しずつぼやけていく。負けてたまるかと目を開け、視線をさまよわせた。コルクボードが見えた。子どもたちを支援した多くの客が残していったメッセージが目に入る。数多くのメッセージカードのなか、たった1枚のカードに猪瀬の目はとまった。
綺麗な字。たった一言残されたことば。
すがるように見上げた。
また来ます。
フレディ・マーキュリーが歌っている。I’m OK、I’m alright。僕は大丈夫だ、もう負けない、この監獄のような人生を抜けだして自由になってみせる、と。
目を閉じた。流れでるものを感じた。脳裏に浮かんだ人物へ語りかけた。
河野さん、私、負けません。一生をかけてあなたに証明してみせます。
信じて良かったと言ってくれたあなたを、私は信じて生きていきます。
生き抜いて、そうしたら、いつか、また――
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8月31日 13:15配信 共同新報
知人女性殺害容疑で女児聴取 警察署に自首
知人の女性を殺害したとして、湾岸警察署は江東区内在住の9歳の女児を重要参考人として聴取していると発表した。
湾岸警察署によると、女児は本日午前8時ごろ、「人を刺した」と同署に自首してきた。話を聞いた署員らが区内の飲食店を訪ねたところ、店主の猪瀬志保さん(26歳)が店内で血を流して倒れているのを発見した。猪瀬さんはその場で死亡が確認された。
調べに対し女児は「前世を思い出した。彼女は別人であると分かっていたが、感情を抑えきれなかった」と述べ、大筋で容疑を認めているという。
女児は飲食店の常連と見られ、警察は二人の間に何らかのトラブルがあったとみて調べを進めている。
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