#95 離別

 


 出口へと連れだってゆく国見と神崎の背を河野は見送った。スライドドアからは朝の光が降りそそいでいる。まだ8時前だった。

 猪瀬はしっかりとした足取りでこちらに歩みより、深々と頭を下げた。


「助けてくださって、ありがとうございました」


 彼女が顔を上げると、首に巻かれた包帯に目がいった。半袖からのぞく二の腕にもパッチがいくつか貼ってある。幸いにも大きな怪我はなさそうだった。


「いろいろと、困惑したでしょう」


 記憶のぐあいを確かめるように河野はたずねた。

 記憶研職員から、高柳は治療中ということになっていると釘を刺されていた。河野もそれでいいと思っていた。下手へたに事実を伝えて罪悪感を抱かせるよりは知らずにいたほうがいい。世の中のたいがいの事象は知らないほうが幸せでいられる。

 猪瀬が自らを気遣うのに返事をしながら高柳のことを考えた。もしすぐに生まれ変わってきたとすれば、さらに強大なピリオドを宿やどしかねない。転生が確認されれば、すぐに彼女はICTOの監視下に入るだろう。


 印象的な前世を有する者にはピリオド表出前に減退薬を投じるべきだという議論はたびたび起こるが、技術的にまだ難しいのが実情だ。ICTOが設立し、記憶研が遡臓研究に乗りだしてから減退薬の開発がはじまった。本格運用からそう長い年月が経ってはいない。

 減退薬が遡臓の機能停止に効果を発揮する時間は短時間にとどまる。そもそもが長期使用を目的として開発されたものではなく、長期使用が人体にどう影響を及ぼすかまで研究が進んでいない。というのも、遡臓じたいがいまだ未解明な部分が多い臓器であるゆえに積極的な薬の使用がためらわれる風潮にある。生物学界では遡臓のメカニズムを明らかにするためにも薬の投与をいとう派閥があると大村が話していた。

 本部管理班の大垣大海や記憶研職員の四宮悠貴は、長期使用できる薬が開発されたら論争が激化すると話していた。ピリオドを人間の進化としてとらえる派閥と、人間の領域を逸脱した脅威ととらえる派閥。ピリオドを薬で抑えるか否か。薬の長期使用は利か害か。四宮は「生きているあいだには解決できない問題」と称していた。ただ、長期使用向けの減退薬の開発はどの国でも後手に回っている。どの国もピリオドがどんな利益をもたらしてくれるかを値踏みしている段階にあるのだろうと大垣が推察していた。

 高柳が生まれ変わったそのとき、彼女が少しでも前世の記憶に苦しめられなければいい。いまの河野にはそう願うことしかできない。


 猪瀬の記憶は記憶研職員の言ったとおりだった。前世犯に恨みを持つ風間と高柳によって拉致され、殺されかけたところを河野と神崎に助けられた。


「これからは、自分の前世ときちんと向き合います。過去の罪も背負って生きていこうと思います」猪瀬はまっすぐに河野の目を見ていった。「人生ごと終わらせようと思ったけれど、それは前世で悔い改めた自分も否定するような気がして。……ちゃんと向き合って、真っ当な人間だと胸を張って生きたい。ぜんぶ、逃げずに受けいれます。前世の罪も償って生きていこうと思います」


 高柳の記事を指したであろう言葉に、河野はじっと耳をかたむけた。

 記事じたいは高柳の死去後に削除された。警察側の申し立てによる処置だろう。だがひとたび世間に流れた噂は消えない。『シンクレール』の評判は下がり、猪瀬の名や顔、これまでの経歴もネットの波に乗り、彼女の手の届かない場所まで行ってしまった。


「償わなくてもいいんじゃないですか」


 河野が発した言葉に、猪瀬の目がわずかに揺らいだ。

 それを認め、まだ彼女もどう生きてゆくかに迷いがあるのだと感じた。


「今のあなたは前世のではないんですから。あなたはあなたの人生を生きればいい」


 言葉が滑りでてから、月並みな言葉でしかないと感じた。陳腐で当たり障りがなく、内奥ないおうに迫らないうわべの言葉に聞こえた。このさき、罪を犯した前世を多くの人に知られている現実を背負って生きねばならない彼女に寄り添ったものではない。

 自分はまだ彼女を許せていないのか。河野は自分の本心が分からなくなっていた。

 猪瀬は目を伏せていくらか考えるそぶりを見せたあと、ふたたび河野の顔を見すえた。


「ちゃんと後悔しないと、きちんとした人間に戻れない気がするんです。今まではずっと、目を背けていたから。……きちんと向き合ったとしても、お店を再開するのは難しいかもしれません。再開しても続かない可能性もある。それでも、私のできるやりかたで誰かを助けたいって気持ちは揺らいでいないんです。誰になんと言われても、図太く生きていこうとも思っています。元犯罪者だと指をさされても、私のやりかたで……料理で子どもたちを支援したい。だから、見ていてください。きっと、きちんと生き抜いてみせます」


 そういって彼女は笑った。強がりの笑みなのはすぐに分かった。誰よりも彼女が怖いはずだ。病院を一歩出た先で、自宅に帰ったあと、社会生活に戻ったときに自分がどういう目で他者から見られるか。怖くないはずがない。名も顔も知らぬ者の悪意は容赦がない。こちらの事情も知らずに振りかざされる刃の鋭さには覚えがあり、それは河野が憎むべき対象でもあった。

 猪瀬の根底にある芯の強さに尊敬の念をおぼえた。彼女ならば周囲の目やいわれない非難をものともせずに自らの望んだ道を進めるのかもしれない。かつて、母がその命を終わらせる選択をするまで追い詰められたものたちに、彼女は打ち勝てるのかもしれない。

 そう思いながら、河野は口をひらいた。


「残念ですが、お会いするのは今日が最後かと」

 晴れやかだった猪瀬の顔が少しだけ曇った。ためらいがちに彼女はいった。

「それは、河野さんが元被害者だから、ですか」


 その記憶は残されていたのか。河野はわずかに目を閉じる。どこまで知っているかを確かめるつもりはなかった。今となっては些末なことで、知らない方がいいに違いなかった。

 言葉を探した。自分が元被害者。むろん、それもある。事件は終わった。もう関わる必要も理由もない。それらを包むオブラートを脳内でさぐる。

 横たわった沈黙を肯定と取ったのか、猪瀬は唇を引きむすんで何度か軽くうなずく仕草を見せた。自分を納得させているように見えた。それから彼女は小さな声でいった。


「好きな食べ物は、なんですか?」

 投げかけられた問いに、河野は軽く首をかしげた。意図が読めなかった。

 彼女は穏やかに続けた。

「助けてもらったお礼に、河野さんの好きなものをメニューに入れようと思って。……いつかお店が大きくなって、支店をたくさん持てるようになったら、そのどこかで食べてください。それなら、私とは会わなくてすむでしょう?」


 猪瀬を見つめた。後ろから朝日が射しこんでいる。遠くで職員の話し声がする。カートを押す音。金属がふれあって起きる、かちゃかちゃという音。外から入ってきた者が横を通りすぎてゆく。閉まりかけの自動ドアから、車のエンジン音が聞こえた。見慣れた黒い車が見えた。


「行きましょうか」


 なにか言いたげな表情を浮かべた彼女を見ずに、先に建物を出た。運転席に国見がいた。神崎の姿はない。猪瀬を後部座席に乗せ、河野は助手席に乗りこんだ。


「神崎は?」

「中村から連絡があって残りました。ヘルプでこっちに来るらしくて、自分が乗ってきた車を戻してほしいと」


 中村まで呼びだされるところをみると、医療班はかなり逼迫ひっぱくしているようだ。車を戻してほしいとはつまり、長丁場になるから勤務後は直帰したいのだろう。彼は中隊内では珍しく、第一中隊ではなく本部が管轄する千代田区内の宿舎に住んでいる。車で来るのだからいったんは第一中隊へ出勤したようだ。もっとも、彼の性格からして大垣大海に依頼してピリオドを使ってもらいショートカット出勤した可能性はじゅうぶんにある。それを崎森に読まれてペナルティを課されるところまで容易に想像できた。


 車が動きだし、建物を離れてゆく。ルームミラーで運転席の後ろに座した猪瀬をうかがった。彼女はただ、じっと窓の外を見つめていた。






 *****





 自宅でよろしいですか。国見と呼ばれた青年がルームミラーごしにこちらを見た。猪瀬は軽く首を振った。


「お店に……『シンクレール』へお願いします」

 国見は隣の河野を見る。彼は前を向いたままいった。

「なにか用事でも?」

「いえ。ただ、気分転換に料理をしたくて。お店の状態も確認しておきたいし。お店からは自分の足で帰ります」

 河野は少しのあいだ考えたあと、うなずいてみせた。国見は周辺の地図を見ながらたずねた。

「食材あります? 近くのスーパーがいいですかね」


 よくよく考えれば、店に戻っても食材がない。まだ頭がきちんと回っていないようだ。苦笑し、国見にそうするよう頼んだ。店から歩いて5分もしない場所にあるスーパーの名を告げた。場所を確認したのち、国見はハンドルをきり、左手でカーオーディオのボタンを押した。ラジオが車内に流れはじめる。男性パーソナリティの真面目な声音が耳に届く。


『……いまのニュース、ちょっと不安になったかたも多いと思います。江東区の東陽2丁目周辺で暴動があり、負傷者が多数でました。この暴動がですね、遡臓が活性化して前世の記憶を思い出した方が強いショック症状を起こしたことに原因があるようだと、国立記憶科学研究所が発表しました。もしかすると、いまこの番組を聴いている人のなかに、昨日とつぜん前世の記憶を思い出したなーって人もいるかもしれません。まずは落ち着いて、国立記憶科学研究所まで連絡をしてください。記憶を思い出してつらい人向けに、専門のカウンセラーがお話を聞く電話窓口も設けられています。まずはね、冷静になって、思いだした記憶と自分本来の記憶を整理しましょう。くれぐれも、ひとりで思い詰めたりしないようにしてくださいね』


 パーソナリティはそういって、国立記憶科学研究所への連絡方法と電話窓口の番号を繰りかえした。


『これはあの、よく言われることですけども、記憶を取り戻した方でも特に、お子さんには注意が必要です。身体や精神が成熟していない状態で強い印象の記憶……これはたとえば、大災害で被災したとか、事故に遭った、とかですね。そういう記憶を思いだすとパニックになりやすく、ふだん取らない行動に走る場合がある。非常に衝動的、暴力的な行動に出ることもあるんだそうです。ですのでね、江東区にお住まいでお子さんをもつ保護者のみなさん、あるいは区内の学校の先生がた。数日はお子さんの様子をよーく見てあげてください。もし記憶を思い出したような子がいたら、さきほどの連絡先まで知らせてください。そしてね、お子さんのお話を注意深く聞いて、ケアしてあげてくださいね。ではあらためて、事件の概要を佐藤アナウンサーよりお伝えします』


 続いて、事件の詳細がつたえられた。女性アナウンサーがニュース原稿を読みはじめる。被害状況に話題がうつったところで彼女の声量が絞られ、代わって着信音が流れた。カーオーディオに接続した国見の端末が着信を告げたようだった。

 河野が代わりに応答した。猪瀬には聞き覚えのない声だったが、話を聞くうちに彼がいましがたの会話で出た中村という人物だと察しがついた。

 彼らは何事か仕事上のやりとりを交わした。用件がすんだと思われたころ、国見がたずねた。


「きのう大丈夫だった? ナツキは」

 中村は、ああ、とこたえた。

『帰ったらもう寝てた。今朝も起きる前に出たから顔合わせてない。でもけっこう怒ってるな、あれは』

「なんで分かるの」

『ゆうべ寝ようとしたら俺のエリアだけ寝具がぜんぶ冬用になっててさ。おまけに敷布団にカイロがびっしり貼ってあった』

「現代版の秀吉かよ」国見は笑いまじりにいった。

『クッソ暑くて寝つくのにすげえ時間かかったわ』

「で、今朝はどうやって出勤した?」

大垣ガキさんに送ってもらった』

「だと思った」

『いったん出勤してまた家の方面まで出てくるなんて手間、俺が取ると思う?』

「バレなかった?」

『崎森さんと矢代さんが「お前にしちゃ出勤が早い、絶対におかしい」とか難癖つけてきた』

「それは難癖と呼ばないのでは」河野が小さく言った。

『河野くん、神崎と同じこと言うね。戻ってもチクんないでよ』

「俺よりも神崎を口止めしたほうがいいと思いますよ」

「確かに。あいつ、けっこう顔に出るタイプですもんね」国見が同意する。

『本人も言ってた。『なんで俺に真相を話すんですか、バレるに決まってるでしょうが』って逆ギレされた』

「それは逆ギレと呼べないのでは」

「どっちかと言えば正当寄りの怒りだろ」


 猪瀬は神崎の顔を思いだす。年若いが落ち着いて行動している印象があった。実は顔に出やすい人なのかと、思わず小さな笑みがこぼれた。


 通話が終わり、しばらく国見と河野は話をしていた。国見が「俺は崎森さんに聞かれて表情でバレるに昼メシ賭けます」と言えば、河野が「ベットがバラけないと賭ける意味ないでしょ」と返した。

 出勤時間とかち合い、幹線道路では車は低速にならざるをえなかった。輸送トラックや乗用車が鈴なりになってのろのろと進む。国見は途中で脇道に入る選択をした。ナビも見ずに車を走らせているあたり、周辺を走り慣れているようだ。

 裏道をいくつか通り、じきにスーパーが見えた。24時間営業の店だが、早い時間というのもあって停まっている車はまばらだった。

 広い駐車場で車が停まる。猪瀬は国見に礼を言って降りた。すると、河野もまた車を降りた。

 彼は猪瀬に近づくとブレスレットを手渡した。シルバーのシンプルなデザインのそれは、一見ふつうのアクセサリーのように見えた。


「あなたの健康状態をモニタリングするものです。3日後の遡臓検査まで肌身離さずつけていてください。下側にボタンがあります。不審な人物を見かけたり、身体に異常を感じたり、記憶を思い出したりしたら強く押しこんでください。近くにいる者が駆けつけます」


 ブレスレットを左手首につける。ひんやりとした感触がした。

 外に出て気づいたが、朝は過ごしやすい温度だった。8月も終わりに近い。じきに秋がくる。ときおり吹く風が心地よかった。


「ありがとうございました」


 ふと、河野がいった。猪瀬はブレスレットに落としていた視線をあげ、彼を見た。


「あなたを信じて良かったです」


 信じてよかった。それがなにを指しているのか、猪瀬は分からなかった。感謝されるようなことをしたかと思いだそうとするも、思い当たることが浮かばない。彼と出会ってから交わした会話を手繰たぐろうとする。


「では、これで」


 思いだすよりも先に、河野が助手席のドアを開けた。

 待って。そう言って止めたい衝動にかられた。なんのことですか。私、大事なことを忘れている気がする。でも、それがなにかすら思いだせない。なにかとても大事な話を交わした気もする。

 彼に手を伸ばそうとした。しかし理性がそれをとどめる。もう会わないと言うのだから引き留めてはいけない。伸ばした手を引っこめる。

 思いが通じたのか、車に乗りこんだ河野がドアを開けたままでこちらを見上げた。


「さっきの質問」

「さっき?」問いかえして思い出す。

 好きな食べ物は、なんですか。

「桃」河野がいった。「桃が好きです」

「……桃、ですね」猪瀬はくりかえした。「じゃあ、桃のおいしい料理、考えておきます」

「頑張ってください」


 そういって、河野が微笑んだ。猪瀬が初めて見た彼の笑顔だった。つられるように、猪瀬も微笑みをかえした。

 ドアが閉まる。車が静かに動きだす。猪瀬は手を振った。ウインカーが光る。駐車場の出口にさしかかる。

 晴れわたる空の下、猪瀬は去りゆく車を見えなくなるまで見送った。



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