#93 報復


 待合スペースには誰もいなかった。医療班は全員出払っていて、広い空間には自動販売機の低いモーター音が響いていた。

 手術室のほうから足音がし、河野は組んでいた足を元にもどした。やがて、青いスクラブ姿の藤村ふじむらはるの姿が見えた。彼が医療専門官らしい服装をしているのは何度見ても新鮮に思えた。首と肩を大きく回している。手術は終わったらしい。

 河野が腰を上げると、藤村はこちらに気づいて目を丸くした。


「もしかして、ずっと待ってた?」

「いえ、来たばかりです。残務処理が片づいたので」

「そう。怪我は平気? スタンガン当てられたところ、痕が残るんじゃないの」

「問題ありません。それより、どうでしたか」

 問われ、藤村はあくび混じりに答えた。

「ちゃんとくっついたよ、。多少の障害は残るかもしれないが」大きく伸びをした藤村は、河野が掛けていたソファを示した。「座って話そうか。立ちっぱなしで疲れた」


 河野が先に掛けると、藤村は前をすたすたと通り過ぎていった。窓ガラスに彼の姿が反射する。日はとうに暮れていて、室内灯は彼の姿をはっきりと窓に映しだした。

「現場で何があった?」

 彼は自販機の前に立ち、背中越しに問いかけた。電子音がし、次いでガシャンガシャンと物が落ちる音。彼は両手に缶を持って戻ってくると、桃が描かれた清涼飲料水を寄越した。河野が礼を言って受け取るあいだに、彼は片手で器用に缶を開け、喉を鳴らしてエナジードリンクを飲んだ。

「俺も直接は見ていません」

 缶を開け、ひとくち口に含む。甘ったるい桃の風味が染みた。脳に糖分が行きわたり、思考が働きはじめる。藤村が隣に掛けた。


 見聞きした通りに話した。猪瀬いのせ志保しほを救出しようとして別の建物に飛ばされ、途中で神崎が合流した。風間かざま花蓮かれん高柳たかやなぎ松子しょうこを人質に取り、刃物で刺した。致命傷を与えようとした風間に神崎が刀を振るった。盾にしていた高柳やグラインで急発進していた河野をいっさい傷つけることなく、彼は風間の右手首を落とした。激昂した風間は高柳にかけたピリオドと空間転移を解いた。窓枠に座らされていた高柳は窓の外へ転落し、河野は後を追った。


「間に合ったんだ、すごいな」

松川まつかわさんと結城ゆうきさんのおかげです」


 至近に松川班がいたのは幸運だったとしか言いようがない。最大加速でなんとか高柳の手を掴んだ河野だったが、二人分の重力はグラインの揚力ようりょくを凌駕し、浮上するまえに地面に激突するだろうと思われた。

 衝撃に備えて高柳を抱きかかえた。しかし、まばたきしたのちに両足に感じた衝撃はわずかなものだった。視界がひっくり返り、照りかえるアスファルトの上に高柳と二人で立っていた。代わりに、鈍い音が建物脇で起きた。ひどく重いものが高い場所から落ちたような、振動を含んだ音だった。


『すごいもんだねェ。頭っから落ちたのに、ちっともいたかない』

『でっしょー? さっすが私だよね』


 松川と結城が、河野らが落ちるはずだった場所に倒れていた。彼女らの落下場所は衝撃でわずかに地面が窪んでいた。

 松川が自らと脇にいた結城にピリオドを使って身体をコンクリート並みに硬化し、結城もまたピリオドで自分たちの位置と河野らの位置を入れ替えた。おかげで河野と高柳は無傷で地上に降り、松川と結城は傷ひとつ負わなかった。どちらかが一瞬でも判断をたがえていれば大惨事になっていただろう。


 風間の悲鳴が上がったのはその直後だった。駆け寄った佐久間さくま千佳ちか隊員に高柳を任せ、河野は元いた場所へと戻った。

 窓枠に足をかけ、室内をのぞき込んだときに目にしたのは真っ赤な血。あふれ出る鮮血の上に風間がひざまずいて苦悶の声を上げていた。

 彼女の足元には、左手首が落ちていた。中指と親指の腹は合わせられていて、指を鳴らす直前のかたちを取っていた。

 神崎が鞘に刀をおさめながら駆け寄った。その姿を見て、彼が斬り落としたと断じた。後続で部屋に入った田中たなかれん隊員がただちに医療班を呼び、河野は処置に当たった。切断された両手首をビニール袋に入れ、アイスピックの刃先を寝かせて袋に当てた。たちまち生じた冷気に袋は包まれた。低温を保ったままの両手首と止血処置をした風間は本部管理班によって移送され、藤村が接合手術にあたった。


「君の応急措置は大正解。手首や傷口を直接凍らせていたら細胞が壊死して接合は不可能だった」

 淡々と藤村が話す。彼は医師にうってつけのピリオドの持ち主だ。今回もその能力を駆使したはずだが、それを差し引いてもなお難しい手術だったのだろう。いつもは綽々しゃくしゃくとした余裕をみせる彼も、さすがに疲労をにじませている。

 藤村は続けてたずねた。「神崎くんの様子はどうだった?」

「とんでもないことをしたと感じているふしはありました」

「話に聞く、別人格の気配は? 君は一度対峙しているんだったっけ」

「特に感じませんでした。でも」河野は缶をあおり、ジュースを喉に流しこんでから口を開く。「斬った瞬間がどうだったかは知りません。彼は録画機能を有する装置グラインを俺に渡していたし、猪瀬さんはうずくまっていた。その瞬間を見たのは風間だけ。その彼女も、容体が回復したら……」

「捜査が進みしだい遡臓は摘出されるだろうね」藤村が継ぐ。「犯行時の記憶が失われるかもしれない。となれば確かめる術がない。……神崎くんは今どこに?」

「別棟で遡臓検査中です。大村おおむらさんと国見くにみがついています」

「大村さんも懲りないな」


 エナジードリンクを飲み干し、藤村は腰を上げ、缶を捨てに行った。

「多重人格説は否定されてるんだっけ?」

志賀しが新助しんすけの前世が父親のピリオドで阻害されているという見方が優勢です」

「だったら、父親が作り出したほうの人格も前世を持っていることになるよね。でないと二つのピリオドを持つことに説明がつかない。それは可能なのかな」

「分かりません」

「これは憶測だけど」藤村は振り返る。「前世が多重人格だとしたらどうだろう」

「二つの人格が生まれ変わっても一緒にあって、なおかつ同じ人間に宿っている、と?」

「そう。一人は残忍な性格で日本刀を具現化する志賀新助。もう一人は優れた第六感を持つ別人格。父親は志賀新助の人格のみを彼の記憶から阻害した」

「ありえるでしょうか」

「さあ。憶測だと言ったろ」

 肩をすくめ、藤村はおどけてみせる。


 突然、場を切り裂くように音楽が流れた。オーケストラの荘厳な音色が、ヴェルディの「怒りの日」を奏でている。藤村がポケットをまさぐり、端末を取りだした。着信音に設定しているらしい。


「どうした?……ああ、了解。……いや、河野くんと話してた。先に準備しておいてくれ。……いやいや、俺はいつも全力で職務に取り組んでいるつもりだけど。……心外だな、右腕の君にそう思われてるとは。……ああそう。じゃあ、またあとで」

 短いやりとりで、電話の相手が補佐官の塩原しおばら代助だいすけだと察した。通話を終えた藤村は小さく息をつく。

「大手術の次は司法解剖。この仕事、国家公務員なのにブラックだと思わない?」

「国家公務員だからブラックなのでは?」

「塩原くんと同じこと言うね」

「……高柳ですか」

「ああ」藤村が頷く。「そうだよ」


 高柳松子は搬送当時には息があったものの、夕刻に容体が急変して息を引き取ったという。河野はそれを塩原からじかに聞かされた。死因は失血性ショック死か急性硬膜下血腫が疑われ、いずれにせよ風間の暴行が引き金になったに違いなく、河野の責によるものでもないと、塩原は言い含めるように告げた。


 窓枠から手を差し伸べた高柳の姿が目に浮かぶ。自分のせいではないと言われても、どうすれば助かったかを考えずにはいられなかった。

 しかし河野を思考の海から引きずり上げるかのように、また別の音楽が廊下に鳴り響いた。こんどはドボルザーグの「新世界より」だ。


「はい、藤村。……そう、ちょうど終わったところ。……いまは遡臓検査中。明日の朝には帰せる。……いや、すぐには無理だ。2日か3日はかかる。……ああ、よろしく。河野くんも一緒だけど、何か伝えようか。……了解。じゃあ」

 通話を終えた彼の脇を通り、缶を捨てた。「第一中隊うちの人?」

崎森さきもりくん。猪瀬さんの検査の件でね。君に伝言。『大村から風間の遡臓検査結果を聞いておくように』だと」

「分かりました」

「大村さんなら所長室か検査室にいるはずだよ」

「人によって変えてるんですか」

「なにが?」

「着信音」

「ああ、試しに設定してみた。出たくない人からの着信が分かりやすくていいだろ」

「出たくない人?」

井沢いさわさんから着信があると、シューベルトの『魔王』が流れる」


 人差し指を立て、ツノのようなジェスチャーを見せておどける藤村に、河野は笑みを誘われた。

 彼とはそこで別れ、隣接する記憶研本所に戻る道すがらで大村を見つけた。彼はひとしきり負傷した河野を気遣ったのち、場所を変えようと言って先を歩いた。

 すれ違う職員が大村に会釈をしていく。先をゆく、側頭部の絶壁のようになっている寝癖を直そうともしない男が、記憶研職員から一目置かれる存在だということに河野はいまなおピンときていない。

 懐かしい場所に通された。両親と揃って遡臓検査の結果を聞きに来た部屋だった。大村は応接スペースを指して掛けて待つようすすめ、コーヒーサーバーをいじりはじめる。


「空いているのがここしかなかった。懐かしいね、君と初めて顔を合わせたのもここだった」

「よく覚えていますね」

「まあね。君は第一印象からあまり変わらない気がする。今も昔も冷静で落ち着いている。君から見た僕の印象はそうでもないだろうけど」


 湯気の立つカップを渡される。コーヒーの香りを感じながら、河野は大村の印象についてしばし考えた。寝癖が直らないのは昔も今も同じだ。明快な説明をする大人らしい大人だと最初は感じた。それがピリオドによるものだと思っても印象は変わらない。眼鏡を外していても彼の観察は鋭く、言葉を尽くして説明をする誠実な姿勢も一貫している。やたら話が長いのは悪癖だろうが、状況に応じて短く簡潔に話すすべも持ち合わせている。長ったらしい喋りは性分なのか、わざとなのか。そこには興味がなかった。


「あまり変わらないです。こちらも」

「素直に受け取っていいのかな、その言葉は」

「国見はどうしました? 一緒のはずでは」

「こら、露骨に話を変えるな。……国見くんなら、神崎くんについているよ」

 大村は苦笑いを零し、向かいに掛けた。テーブル端で充電器に接続されていたタブレット端末を取り上げ、操作をはじめる。


「風間花蓮の遡臓検査結果を君に確認してもらう。意図は分かるね?」

「ピリオドの研究と情報収集」

「そう。彼女のピリオドをきちんと目の当たりにしたのは、いまや君と猪瀬さん、神崎くんの3人のみ。神崎くんが装着し、君に受け渡したグラインの録画映像だけでは情報が乏しい。今後の研究の参考に、彼女の前世とピリオドの相関について君の所見を聞かせてほしい。……終わったら、君にも遡臓検査をもう一度受けてもらう。新しく思いだした記憶も記録しておきたい」

「分かりました」


 大村は操作を続けた。途中で彼は端末を取りだしてタブレットにかざした。いくつかの生体認証をパスしたのち、彼はタブレットを寄越した。

 画面には風間花蓮の検査結果が表示されていた。前世あり、今回が2度目。かつては女性、享年17歳。電車に飛び込み自ら命を絶っている。自死の直前にひとりを殺害していると記されていた。


「大村さんは」視線をタブレットに落としたまま、問う。「映像は見ましたか」

「見たよ。質問があれば受けつける」


 彼がそう言い、コーヒーをひとくちすする合間に河野は検査結果を読み終えた。風間の前世は河野に苦い記憶を想起させようとした。自分と風間は、同じ経験をしている。


「暴行を受けたきっかけが、イジメとありますが」

「部活の先輩に目をつけられていたようだ。部でトップの位置にいたその女生徒を、新入生の風間があっさりと抜いた。醜い嫉妬が醜いイジメに発展した。女生徒には大学生の兄がいた。兄やその友人らを言葉巧みに焚きつけて……あとは分かるね」

「……」

「写真を撮られたのもあって警察に届け出なかったらしい。が、女生徒のほうは写真をばら撒いた。部活の男子や、ネット上にいるの愛好家に」

「その女生徒を殺した」

「そう。地下鉄のホームにつづく階段を降りるところを後ろから突き飛ばし、倒れた彼女の頭を蹴り飛ばした。全力で」

 河野の脳裏に人影が浮かぶ。猪瀬の視覚を通して見た、風間と高柳の影。風間はいっさいの容赦をせず、高柳を蹴り飛ばしていた。

 大村は続ける。「そのあとホームを走り抜けて、入ってきた電車に飛び込んだ。端末に残されていた遺書には、妊娠していたことが書かれていた。映像から分析するに、狂言ではなく事実だ」

 彼女のピリオドは、暴行を受けたときの状況を再現しているのだろう。複数人に押さえ込まれ、身体が動かない絶望感は河野も知っている。


 風間が口走っていたことを思い出し、口を開いていた。

「自分を冷たくあしらった女性の過去を高柳に調べさせていたと言っていました。被害者らはそろってイジメの加害者だったと。人間は生まれ変わっても根っこの部分は変わらない、欠陥のある者は子どもを残してはいけない、とも」

「望まない妊娠を強いられた経験が根底にあるんだろう」大村は静かに言った。「暴行を加えて生殖機能を奪う、あるいは手足の自由を奪い痛めつける。彼女なりの復讐だったのかも」

 猪瀬に対して悪辣な態度だったのにも符合する。自らを虐げた者への復讐。加害者への嫌悪。

「ひとつ疑問なのだけど」大村が言った。「どうして加害した男性ではなく、女性を狙ったのかな。僕だったら、実際に手を下してきた男に復讐したい。あのピリオドなら体格差は関係ないだろうし」

「絶望したからでしょう」

「絶望?」

「生き続けたくなくて死んだのに、生まれ変わったらまた女だった。同じ性別に生まれたら、何かにつけて思い出すことも多いはずだ」


 たとえば、男子生徒にからかわれている女子生徒を見たとき。妊婦を見たとき。小さな子どもを見たとき。電車に乗ったとき。階段を降りるとき。

 風間の記憶のトリガーを探る。そのたびに過去を思い出し、力で敵わなかった無念さが悔しさとなり、生まれ変わってもなお同じ性別に生まれ落ちたことを彼女は呪ったのかもしれない。女性であることへの嫌悪が募り増大し、その矛先が同じ女性に向いたことは不可思議なことではなかった。


 同情しかけて、河野は目を閉じた。同じだったからだ。

 男に生まれた事実がどうしようもなく拭いがたい感情を河野に植えつけている。力でされるがままになった前世の自分が、今はたやすく女性を拘束できるだけの膂力りょりょくを持っている事実に、嫌悪感に似た感情をいだく瞬間がある。

 前世を思い出してこのかた、ひたすらに怖かった。いつか、耐えきれぬ衝動が自分の身体を支配するときが来るのではないかと。情欲や加害欲が理性を押しのけ、身を破滅させる何かをしでかすのではないかと思っていた。記憶を思い出してのち、男性は同性でありながら畏怖の対象でもあった。女性との体格差を実感すると、ある種の居心地悪さを感じた。後ろめたかった。

 風間は逆だった。同性に生まれた絶望が彼女にはあった。


「高柳は?」ようやく顔を上げ、河野は大村の目を見た。「彼女はどうでした」

 大村はタブレットを受け取ると、彼女の遡臓検査の結果を表示させた。


 一文一文を読む。彼女もまた、前世も女性だった。享年36。

 26歳のとき、彼女は見知らぬ男に襲われている。加害者男性は交際相手に暴力を振るった罪で懲役刑を受けており、出所後すぐに交際相手が住んでいたマンションを訪れた。しかし女性はとうに引っ越しており、同じ部屋には前世の高柳が転居していた。

 高柳と引っ越していった女性の背格好は似ていた。襲われたその日、彼女は出勤前に不審な男がエントランス付近にいるのを見かけていたが、さほど警戒はしていなかった。仕事を終え、帰宅した高柳はマンションそばの道路で襲われた。

 顔も知らない男に滅多殴りされ、ナイフで顔を切られた彼女は命こそとりとめたものの、癒えぬ傷を負った。再建手術を受けるも顔面は元通りにはならず、彼女に非があるような根も葉もない噂が一人歩きし、職を追われた。実家に戻り引きこもり、10年が経ち両親が相次いで他界したのを機に彼女もあとを追った。

 男の姿を一度目にしていた彼女は、事件後に何を思ったか。彼が何者か分かっていればと悔やんだに違いない。過去を見るという彼女のピリオドは、間違いなくその前世に根づいていて、彼女が前世犯を強く憎む理由にもなった。


「信じたかったんだろうね」

 大村がつぶやいた。河野は小さく首肯した。

 今世の彼女が追った対象がことごとくスキャンダルになったのは偶然ではない。彼らの過去を見て目星をつけていたとすれど、彼・彼女らは再び過ちを犯す気配があり、高柳はそれを見逃さなかった。

 性根の曲がった人間は生まれ変わっても変わらない。彼女はそう信じたかっただろう。人間は更生しない。だから自分は前世であんな目にあった。同じてつを踏みはしない。前世犯はすべからく追放するべき。なぜなら、彼らが良心に目覚めることはないのだから。

 猪瀬にも同じでいて欲しかったろう。前世の自分が味わった苦しみと理不尽を正当化するために、猪瀬に汚い人間でいて欲しかった。けれども猪瀬は過去を悔いて苦しんでいた。その清廉さが、高柳は受け入れられなかった。猪瀬の行いを正当化すれば、前世の自分が受けた仕打ちが浮かばれない。憎しみをどこにぶつければいいか見失ってしまう。


 河野には分かってしまう。風間の矛先が歪んだ理由も、高柳が執着した前世犯への価値観も。自分はただ踏み外さなかっただけだ。

 一歩間違えていたら、許せなかった世界線の自分は彼女たちと同じ道をたどっていた。理解できるがゆえに苦しい。許してしまいそうになる、情になびきかける甘さを自覚して自己嫌悪におちいった。

 どんな理由であれ許されない。そう分かっているのに、分かるよ、と手を差し伸べたくなる自分がいる。どうして自分でなければならなかったのかと、問う先のない疑問と怒りが津波のように押し寄せる瞬間の、自分が自分でなくなるような感覚。


 猪瀬を信用できなかった。だが彼女を守った。自分は寸前で思いとどまった。彼女を信じたい、信じて報われたいという一心で。見殺しにもできた。許せないとやいばを振るっても良かった。そうしなかったのはただ、自分を信頼してくれる人々を裏切りたくないと思ったからだ。信じてくれる彼らを信じたかった。自分は決してそちら側には行かないと、彼らに誓いたかった。


 大村の端末が鳴った。彼は断りを入れて出た。


「うん、そうか。……いや、同じだろうと予想はしていたから。宿泊許可は出ている。休むよう伝えてくれ。国見くんにも」


 神崎の検査が終わったのだ。結果は変わらずだったらしい。

 信じていいかと神崎に問うた。とつぜん空間を斬って現れた彼が志賀新助の生まれ変わりで、河野と猪瀬を殺す可能性はゼロではなかった。その意を込めてたずねた。これから君がする行いを信じていいか。猪瀬の命を預けてもいいか。

 はい。まっすぐにこちらの目を見、きっぱりと返事をした彼に、どこか安堵した。いつもの、律儀で真面目な神崎だった。両手首を切り落とした彼は自らのしたことに青ざめてはいたが、その行為が自分ではない者による行為だと言い訳はしなかった。


『君がやったの?』

『はい。俺が、自分の判断でやりました』


 救護措置中に投げかけた問いには、震えが混じってはいたが明確な意思を宿した声が返ってきた。誰かに身体を乗っ取られたわけではない。自分の判断でやった。責任はとる。その気持ちが込められていた。

 神崎の取った行動がどういう結果に落ち着くにせよ、河野はあの場にいた神崎の行為を咎めるつもりはなかった。

 黙りこくった河野に、大村は何かをたずねようとはしなかった。さもたったいま気になったかのように眼鏡を外し、そのレンズを白衣で拭いはじめた。どこかわざとらしい気の遣い方をする彼に心の奥で苦笑しながら、河野は少しのあいだ、風間と高柳、そして猪瀬と神崎のことを考えた。

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