#92 切断
青年の動きは素早かった。踊り場に着地するなり位置関係を把握し、ぐっと足に力を込めた。彼が動くと、その身にまとわりついている雫が散った。
気体が噴出するような音がしたかと思えば、次の瞬間には真横に青年がいた。加速装置のようなものを使ったのかと、目線が青年に釘付けになる。
腰に差していた白い刀を青年が間髪なく抜くと同時に、金属同士が衝突する鈍い音がした。強張った身体を動かせないまま、猪瀬は青年の動きを目で追った。抜き身で風間のハサミを受けた彼は、刃先をいなしながら
「下がって」
左手で制され、後ずさる。風間は鋭い眼光でこちらを睨み、舌打ちをして
「姿が消えました」
「この建物内の別のどこかに繋がっているんです。部屋か窓が……」
猪瀬は手短にこの奇妙な建物の構造を説明しようとし、青年が入ってきた踊り場の窓を見上げ、あっと小さく声を上げた。
割れたはずの窓が塞がっていた。窓には雫がつき、何事もなかったかのように降りしきる雨を受け止めている。足元に視線を落とす。床にはガラスの破片と雨粒が散っていて、青年の侵入が幻ではないと物語っていた。青年も窓を見上げて驚いたそぶりを見せたが、すぐにこちらに向きなおった。
「怪我はありませんか」ガラスを足でよけながら言う彼に、猪瀬は首を振る。
「私は大丈夫です。でも、河野さんが」
そう言ったところで、青年の後方から河野が姿を見せた。1階の出口を通ってきたようだ。足取りにはややぎこちなさが漂うが、支えなしで歩いている。
「河野さん、ごめんなさい。私の――」私のせいで、と紡ぎかけた言葉は、河野の手で遮られる。
「怪我は?」
「……平気です。この方が助けてくれました」
河野は右眉のあたりに垂れる血を拭い、踊り場に立つ青年を見おろす。
「河野さんこそ、大丈夫ですか」心配そうに青年が声をかける。
「改造スタンガンを喰らった。思うように身体が動かない。少し休めばマシになるかも」
彼の出血が止まらないのを見、青年はポケットを探って大きめの絆創膏を取りだした。
「用意がいいね」
「しょっちゅうあちこち怪我するんで。動かないでください」
青年が絆創膏を貼ってやっているあいだ、河野は簡潔に状況を説明した。
「さっきのが主犯の風間。触れた場所を硬化させる能力」
「松川さんと同じような?」
「そう。風間は痛覚も操れる。自分を硬化させて痛覚を抑えれば負傷しないし痛みもない。逆に、相手の身体を拘束して痛めつけられる。硬化はおそらく、手に触れたら解ける。他人の硬化と自分の硬化は同時にできない。建物内の部屋と窓はランダムで繋がっていて、部屋は施錠すれば建物内のどこかに飛べる。外に繋がる出口が最低でも1か所あるはず。……ありがとう」
河野に絆創膏を貼り終えると、青年は腿に手をやり、ホルダーのようなものを外した。銃身が見え、本物の拳銃だと気づき猪瀬は息を呑む。
青年はガンホルダーを外すと河野に差し出した。
「どうぞ」
「……俺、身体が動かないって言ったよね」
「情けないけど、それでも俺より河野さんの方が命中率は上です。使いこなせる人が持っていたほうがいいと思って。これも」
彼はそう続け、胸元に手をやった。電子音が鳴り、彼の身体を覆っていた鋼色の装置がアタッシュケースに様変わりする。青年はそれを開いた状態で河野に向けた。
わずかに逡巡するそぶりを見せたが、河野は手をケースの底面に載せた。ケースが姿を変え、鋼色が河野の身体を覆ってゆくのを見つめる。
「どうやって入ってきたの」
「ガラスを斬りました」
ちらりと河野は青年が入ってきたはずの窓を見やった。「転移能力を持つ男がいる。安田と呼ばれていた。風間と結託している。君が狙われる可能性もある」
「会ってきました。安田にも、深見にも」
鋼色を纏った河野に、青年がガンホルダーを手渡す。装填されている弾数を確認する河野の手つきは慣れたもので、彼が一般人ではないことを今さらに猪瀬に強く印象づけた。
銃を
「『今度は君と話がしたい』と言われました。……俺に言ったかどうかは分かりませんが、深見はまた俺の前に姿を現すつもりでいます。だとすれば、この場で俺が殺される可能性は低い。猪瀬さんには俺がつきます」
ホルダーを装着した河野は、青年を見据えた。
「神崎」
「はい」
「信じていい? その言葉」
青年は迷いなく、しっかり頷いた。「はい」
「……分かった。彼女は任せる」
静かに河野は言い、猪瀬へ顔を向けた。「高柳の場所は分かりますか」
「あの人は……」
彼女を置いてきた場所を思い出し、猪瀬は言葉を止めた。
彼女に身を隠させたのは、今しがた風間が逃げ込んだ部屋ではなかったか。
部屋を見やる。人影はない。階下に目をやった。3階の一室に、二人ぶんの人影が写っていた。片方は床に倒れている。高柳に違いない。
「3階に、一緒にいます。階段を降りて右奥の部屋」
「どこにいるか見えるんですか」神崎と呼ばれた青年が驚きの声を上げた。
どう説明すれば思考を巡らせるより先に手が動いた。
片手で神崎の肩をつかみ、風間らがいるであろう部屋の方角へと向けさせた。
「分かりますか」
そう告げて神崎の表情の変化を見守る。その目が驚きの色を宿すのを見、確信を深める。
彼の目は、自分と同じ見え方をしているはずだ。赤外線カメラやサーモグラフィーを通したかごとく、建物の構造が透けて人影が映しだされたこの視覚は、触れた相手と共有できる。
河野が神崎の肩に触れた。彼もまた同じ視界を手にしたようで、じっと風間の挙動を見ているようだった。
人影が動く。風間が、横たわる高柳に蹴りを入れているように見えた。その手にはハサミではないものが握られている。
「……包丁だ」
神崎がそう言うが早いか、河野は軽々と手すりを飛び越え、気体音とともに階下へと姿を消した。
*****
「俺の後ろにいてください。離れないで」
そう声を掛けると猪瀬は頷き、背後に回った。先に行った河野を追うようにして階段を降りてゆく。
神崎の脳内では、室内に入るまでのことが自然と思いだされた。
窓ガラスを割って入るにはかなりの時間を要した。何度刀を振るってもガラスはびくともせず、ただ体力を奪われるのみだった。しかし、直前に交わした深見との会話を反芻していくうちに、徐々にガラスにひびが入っていった。遡臓が記憶を取り戻し、ピリオドが増幅されているのだと分かった。ひどく不思議な感覚だった。
そもそも、この空間に辿り着けたことすら想像をはるかに超えていた。河野と猪瀬を助けなければという一念を、深見によって思いだされた記憶が後押しした。
そっと後ろをうかがう。ぴったりとついた猪瀬は神崎の背に触れている。彼女の視覚が共有され、河野が風間と高柳のひそむ部屋に銃を構えて立つのが分かった。
猪瀬のピリオドはここまでのものではなかった。背後に立つ人間の顔が分かる程度だったはずだ。風間に襲われ命の危機を味わったことで彼女の遡臓もまた活性化したに違いない。
「撃ったら殺すから」
風間の声が響き渡った。右奥の部屋、開け放たれたドアの向こうに銃を構えた河野の背が見える。静かに距離を詰め、刀をすぐ抜ける体勢を取って室内に足を踏みいれた。
風間は窓際に立っていた。高柳は開け放たれた窓枠に、室内のほうを向いて腰掛けている。呼吸は荒いが身じろぎひとつしない。その顔は腫れあがり、鼻や口からは血が垂れている。うう、と小さなうめき声が雨音に紛れてかすかに聞こえた。
彼女の姿勢はひどく不安定に見えた。身体を硬化させられているせいだと察する。ひとたび硬化が解けてしまえばバランスを崩して後ろに倒れ、窓の外に転落してしまいそうだった。開いた窓からは打ちつける音が
風間の位置取りは絶妙な位置だった。射線上に高柳を据え、盾がわりにしている。
神崎の姿を認め、風間は眉をしかめた。
「安田さん、誰か入れたでしょう」彼女は独り言のようにつぶやいた。「虫が一匹増えてる。黒い服の。注意しろって前に梶井先生が言っていたの、これですか。……そうですか。戻してもいいですよね、私のタイミングで」
相手の声は聞こえない。独り言のように見えた。その表情はどこか虚ろで、温度のない目が自分を射るのに気味悪さを感じた。
「撃ったらこいつの拘束を解く」低い声音で風間が告げる。「そうしたら、3階から真っ逆さま。それでも生きていられるか試したい?」
拘束された高柳の目から涙がこぼれる。声を出そうと口を開いているが、声帯ごと硬化されたのか音にはならない。風間は包丁を高柳の首元に押しつけた。
「最悪。腹立つ。お前が足を引っ張るからだ」
包丁が高柳の皮膚を裂く。赤い
河野は銃を下ろさなかった。静かに狙いを定めている。
「その人を離せ」
不意に、神崎は視界に現れるものを認めた。風間から死角となる位置、テーブルの影に音もなく河野のアイスピックが表出した。それは刃を下にして床に刺さる。すると、みるみるうちに白い
刺さった箇所が凍りはじめていることに気づき、河野が銃を下ろさないのは風間の視線を引きつけるためかと意図を理解した。河野のピリオドは体温の乱高下を誘発するのみではなかったか。彼もまたこの空間にいるうちに新しい能力に目覚めたのか。身体がうまく動かないと言っていた彼が、遠隔でアイスピックを操るのは大きな負担になっているのではないか。
俺ができることはなんだ。思考が高速で回りはじめる。人質を取られている。こちらの攻撃が相手に届くより、風間が高柳の硬化を解いて突き落とすほうが早いだろう。盾にされていては
「銃を捨てなければ、突き落とす」
風間が河野に言い放つ。彼女は包丁を高柳の身体で隠れる位置にずらした。高柳が目を見開き、口を大きく開いて何事か叫ぼうとした。音のない悲鳴ののち、血がぽたりと窓枠を伝い、壁に垂れてゆく。
猪瀬が目を逸らした。身じろぎすることで神崎の身体に触れる。視覚が共有され、風間の持つ包丁が高柳の身体に刺さっていると知る。
抵抗できない人間をいたずらに傷つける卑劣さに怒りがこみ上げる。感情的になるなと律しつつも、手出しできない自分が歯がゆい。
状況を察した河野は銃を床に投げた。風間はいまだ、アイスピックに気づいてはいないようだった。
「大人しく死ねば、こうはならなかったのに」
猪瀬に向かって風間が言った。猪瀬の肩がびくりと震える。
「レイプ魔が一丁前に生きる価値だの罪悪感だのほざくな。申し訳ないと思うなら死んで詫びれば良かったんだ」風間の声はだんだんと熱を帯びてゆく。「自分の欲求もコントロールできない猿は死ねばいい。反省なんて猿でもできる。性欲に支配された人間モドキに生きる価値なんてないんだ。ほら、お前がみっともなく生きるから関係ない人が死ぬよ。犯罪者のせいで一般人がまた殺される」
風間は猪瀬を
神崎は河野に視線をやった。彼は床に落とした銃を目で示す。同じようにしろという指示に頷き、刀を床に放った。派手な音を立てて刀は足元に転がった。
「聞きわけがいいね」にんまりと風間が笑う。「馬鹿ばっかりで助かる」
猪瀬の視覚が、高柳の身体に隠れている風間の腕の動きを見せる。高柳の身体に刺さった包丁が抜かれ、風間は包丁を後ろに大きく引いた。
急所を刺す。風間の意図を悟ったとき、床に転がった刀が消えた。次の瞬間には神崎は抜刀の構えを取った。手には柄の感覚が確かにあった。
全身が
風間が眉根に皺を寄せる。河野も動きを見せた。指がグラインのコマンドを繰る。射出量全開で前進する。
向かっていく河野も、盾の高柳も傷つけない。
強く念じ、一瞬のタメをつくる。
――新助ならできるさ。
声が響いた。聞き覚えのある懐かしい声。いつか見た夢の記憶で聞いたのとは違う声だった。優しく響く声が、刀を振るう右腕を後押しした。
抜刀と同時に、斜め上へ大きく切り上げる。高柳が目をぎゅうと閉じた。
確かな手ごたえを感じた。斬れたという確信があった。高柳をうかがう。目を閉じたままの彼女の身体から血が噴き出る様子はない。
からん、と包丁が落ちる音がした。
「ああああ!!」
甲高い叫び声が上がり、風間が背を丸めた。その足元にぼたぼたと血が落ちる。床に落ちたものを見、神崎の心臓は跳ねた。
右手首がすっぱりと斬れ、包丁を掴んだまま床に転がっている。
痛みに身じろぎした風間は足を取られてバランスを崩した。河野のアイスピックが見事に足元を凍らせて動きを封じていた。彼女が足元に目をやったとき、グラインで急接近した河野は高柳の身体を支えようと手を伸ばしていた。
風間がこちらを睨みつけた。左手で指を鳴らし、河野の手が触れる寸前、渾身の力で高柳に体当たりをした。
ぱちんという音を合図に、窓から光が射しこんだ。雨は消え、靄のかかっていた外の風景はビル街へと変わる。車の往来する音とパトカーのサイレンが耳に入り込む。国見と一緒に入った江東区の工事現場に戻った。
高柳の身体が大きく
「やだ、やだやだやだっ」
かすれた声がこだまし、高柳の身体が視界から消えていった。
「きゃああ!」
錯乱した猪瀬がしゃがみ込む。河野は素早く後を追った。射出音が響く。河野さん、と外で誰かが彼の名を呼んだのが聞こえた。
「間に合うわけないだろ!」
風間の
肩を震わせる猪瀬の前に立ち、神崎は風間の視線を受けた。
「邪魔が減った、仕切り直し。今度はすぐに殺してやる」
そう言って風間は左手を掲げ、親指と中指の腹を合わせた。
指を鳴らす。空間が遮断される。
神崎の身体は反射で動いた。血の匂いを強く感じた。それすらも懐かしさを覚えた。
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