#91 深化
『
ドアの向こうで生体認証を解除する音がした。伊東は銃口をドアへ向けて引き金に指をかける。立位ではあるが、彼の射撃の腕は中隊内でも上位に属する。笹岡班でも笹岡・本田に次ぐ三番手だ。開かれたドアの先に立っているのが
「失礼しま……うわ、こっわ!」
村越
彼女が武器の類を持っていないことを確認し、伊東は銃を下ろし、軽く頭も下げた。
「すんません。この人の警護が
そう言って彼は後ろ手に大村を親指で指す。村越は肩を撫でおろし、胸に手を当てる。結ばれていない長い黒髪が、さらりと横に流れる。
「もー、とんだサプライズだよ。遭遇するならもっと良いサプライズが良かったな。来日中の石油王に一目ぼれされるとか、富豪に港区の土地の権利書をプレゼントされるとか」
「サプライズに求めるハードル、高すぎません?」
「みんなに言って回ったら、いつか叶えてくれるかもしれないでしょ」
「俺が用意できるのはせいぜい万馬券くらいですね」
「中村くんと同じこと言うねえ」
笑いながら彼女はタブレットを操作し、執務机に座る大村に寄越す。
「結果、出ました」
「ありがとう」
受け取るなり、連なる文字を読みはじめる。
江東区に大量に表出者が出て困惑したのは第一中隊だけではない。記憶研も各所への報告とデータ収集に追われている。警護優先度が最も高い大村は有無を言わさずセキュリティが厳重な室長室に戻ることを余儀なくされた。伊東がつき、ドアの外には本田が控え、棟そのものは笹岡が監視する中、館内の通信システムを利用して大村は次々と研究員たちに指示を出した。
大半の研究員はいま、拘束された表出者の前世を洗い出し、遡臓検査の結果と最近の数値を洗い出す作業を行っている。続々と集まるデータを集計し分析するのは、大村を中心とする少数精鋭だ。
村越には二人の人物の遡臓検査結果照会を依頼していた。一人はフリーの記者・高柳
「外しましょうか、俺」伊東が控えめに声をかけてくる。
「いや、大丈夫だよ」
静かに応じ、資料を読み続ける。村越は勝手知ったるとばかりに部屋の隅の給湯スペースでアイスコーヒーを作り、応接用のソファに掛けた。
片耳だけにイヤホンをはめ、検査映像を再生する。別のモニターには検査結果を投影させ、読み進める。
風間花蓮の検査結果には「いじめ」「性的暴行」「電車」「加害」の文字が連なっている。再生された映像を見、早送りをして彼女の前世を垣間見た。
高柳松子の検査映像も続けて再生する。モニターの文面には「人違い」「暴行」「陥没」「引きこもり」の文字が踊っている。
「高柳は被害者、風間は被害者でもあり加害者です」村越が言った。「前世を考えれば、猪瀬さんを追いまわす理由も腑に落ちる」
「そうだね。高柳のピリオドがあれだったのも説明がつく」
「風間はどうでしょう」
「事件を起こしたときのではなく、事件に遭ったときの経験が反映されているだろうね」
「同感です」
「かわいそうに」
大村の口から言葉が漏れた。目の前では、前世の高柳がマンションの廊下でうずくまっている場面が映されている。
「同情です? それ」村越がストローでコーヒーをすする。ずず、という音が響く。
「同情でもあるし、憐れみでもある」
「良かったぁ、同情だけじゃなくて」
「同情しか
「失望するくらいですかねえ」
からからと涼しげな音が立つ。彼女の持つグラスの中で氷が踊る。細い指がストローをかき回すのを見つめる。
「週3の4時間労働がいい」と口癖のように言い、「不動産の資格取ろうと思うんです。富豪に土地を譲られたときのために」と真面目に宣言し、先月の七夕で本部棟入口に犬束隊長が飾った笹に「不労所得で生きる」とでかでかと書いた短冊を吊るした彼女は、あまり労せず金を得るために様々な手段を夢見ているが、仕事上のスタンスは現実的で一貫している。どんな前世を持っていようとも今世で罪を犯す理由たりえないという主張はブレたことがない。
記憶研職員は研究員主任になると他者の遡臓検査を見ることができる。多くの研究員ははじめ、垣間見た人生に肩入れして同情的な見方をしがちだ。研究員主任になったばかりの者の報告書には私見が入りやすいというジンクスが存在するほどに。
しかし村越はフラットに物事を判断した。「それがなにか?」と言わんばかりに、当人の今世と前世を結びつけて考えない。どんな状況でもぶれない価値基準を維持する精神力を楢橋所長は高く評価し、彼女をすぐに専門科長に推した。
専門科長となれば捜査目的に犯罪被害者の遡臓検査を閲覧する権限が付される。彼女の仕事ぶりはいかんなく発揮され、ついには大村が自らの補佐官に指名するまでになった。
「人間はすごいよね」大村はつぶやいた。「僕たちはピリオドを見ると、その前世に何があったのか想像する。けど現実は、想像なんかよりもっと
「それは、『すごい』ではなく『愚か』の間違いでは?」
首を傾げて村越が笑ってみせる。大村は頷いた。
「そうかもしれないな」
モニターの中では、通りがかった女性が必死に前世の高柳に声を掛け、顔じゅうから流れ出る血を止めようとハンドバックからハンカチを取りだすところだった。
*****
わずかでも身体を動かせば、突き刺すような痛みが全身に走る。腕も足も痺れ、河野はただ意識を保つべく呼吸に集中する。
護身用のスタンガンに見えたが威力はけた違いだった。改造されたものに違いない。受けた箇所が焦げ臭い。肌も火傷をしたように熱い。
ふーっ、ふーっ、と荒い呼吸を繰り返す。喰らった瞬間に意識が飛んだが、痛みのおかげで意識を取り戻した。だが少しでも気をそらせばまた意識を手放しかねない。勝手に脳が思考をシャットダウンしかけるのを、必死でこらえる。
ナイフとアイスピックは消えている。ピリオドが消えれば、体温の乱高下は元に戻ってしまう。せっかく風間に加えた攻撃も無に帰した。ナイフを表出しようとするも出てこない。肉体疲労や怪我がひどいとピリオドはコントロールできない。久しぶりに味わう感覚だった。
霞む視界に足が映る。焦点の定まらないまま見上げる。
「フツーはぶっ倒れるんだけど」
笑いを含んだ声。右目の視野が狭い。右眉をハサミが掠ったのを思い出す。目に垂れる血を止めるために腕を動かすことすら難しかった。全身が重く痺れ、自分の意思で動かない。神経ごと焼き切れたのかと錯覚するほどに。
「自己犠牲の精神ってやつ?」風間が嘲る。「ねえ、この子、あんたのせいで死ぬよ」
彼女は上階に向かって声を張った。5階へと身を移した猪瀬に戻ってくるなと声を張ろうにも、細い息が口から漏れるだけで音を成さない。
意識が混濁をはじめる。流血で右目の視界が埋まってゆく。
気を失うなと何度も己に命じる。相手に意識を集中しろと自らを鼓舞する。
ぼんやりと声が聞こえた。水の中で聞こえるようにくぐもった声だ。何度も聞こえてくる。しだいにそれは輪郭をなし、聞き覚えのある声へと変わる。
『言ったじゃんか、本物だって』
若い男の声だ。楽しんでいる。
あの日、逃げようとして左足にスタンガンを当てられた。痛みにのたうちまわっていると、あの男が言った。馬乗りになった男はいたずらに何か所にも押し当ててきた。金切り声を上げ、痛みのあまりに失禁した。生暖かい感触がして、男は舌打ちをし、何度も頬を張った。ぐらぐらと頭が沸騰するように痛かった。
声は続く。聞きたくないと耳をふさごうにも、勝手に反芻をはじめる。
『逃げられないんだってば、無駄なことすんなよ、手間のかかる』
逃げようとしたときも男はスタンガンを使った。この日は別の男たちに身体を拘束させて、左足に金属バットを振りおろしてきた。あげた悲鳴は、口に押し込められたタオルを濡らした。生まれて初めて、骨が折れる感覚を味わった。
『片方潰れたって死なないって、大丈夫』
右目から血が止まらなかった。あの男の持つアイスピックの先端は血で染まっていたように思う。涙で視界が滲み、両目は何も映さなかった。どこもかしこも痛かった。こんな思いをするならこのまま目を閉じ、なにも見たくないと心から願った。
『これからお前の母親をここに連れてくるからな』
お腹が痛い。刺された。じくじくと痛い。足を折られた痛みや目を潰された痛みよりはマシだった。ただ、落とされた言葉に絶望した。お母さん、と小さくつぶやいたが、息が漏れるだけで声にはならなかった。
お母さん早く逃げて。どこにいる? 私を探して外に出てない? お母さんも同じ目に遭うの? 嫌だ、どうして力が入らないの。嫌だ、お母さん、逃げて、早く。
『外で母親マワしてやっからよ、ここで聞いてろ』
蓋が閉まった。寒い。暗い。内側から叩く。反応がない。冷たくて痛い。足が何かに当たった。冷えた血が固まっていく気がする。自分が
お母さん、お願いだから家から逃げて。部屋がどこかも、私の名前もバレてるんだよ。学校も知られてる。私はいいから、お母さん、お母さん。
少女が声を上げている。力の入らない腕を必死に振り上げては、冷凍庫の扉を叩き続けている。
ふいに、開かない扉に文章が浮かび上がった。
宮城女子高生誘拐殺人事件 被害者少女の母 自殺か
十五日未明、仙台市内の公営住宅の住民から「敷地に人が倒れている」と110番通報があった。仙台中央警察署の署員が駆け付けると、住民と見られる女性が頭から血を流して倒れており、その場で死亡が確認された。女性は7月に仙台市で起きた誘拐殺人事件で犠牲となった永窪絢乃(ながくぼ・あやの)さん(享年16)の母、永窪琴乃さんとみられる。倒れていた場所は永窪さんの居室がある棟の真下で、4階の自宅の窓が開いていた。自宅には自殺をほのめかすメモが残されており、警察は自殺とみて調べを進めている。
「カワイソーな人生。また、苦しみながら死んでくんだね」
女の声。誰の声だろう? お母さん? 違う。お母さんはこんな声じゃない。もっと優しい声で、いつも機嫌がいいのがお母さんだ。私が作ったご飯を何でも美味しいと言ってくれて、疲れていても私と話す時間を取ってくれる。優しくてしっかり者で、心配性なお母さん。
最後に何を話したっけ? あの日、私が起きたらもう仕事に出ていた。
そう、前の日の夜にドラマを見た。なんで今まで思いだせなかったんだろう。恋愛ドラマの結婚式のシーンを見て、私の目も気にせず泣いていた。
そんなに感動する? これ。
うーん……絢乃もいつか結婚するのかな、って思って。
ええ、何年先の話? 結婚するかどうかも分からないでしょ。
そうだけどさ、やっぱり考えちゃう。いつかはお母さん、一人になるのかな。
なりません。結婚したら同居コースです。ほらもう寝なよ、明日早いんでしょ。
明日、お母さんちょっと遅いから。
私もバイト遅いかも。先に帰ったらごはん作るね。おやすみ。
おやすみ。
右手を動かす。手に触れるものがあった。慣れた感触。刃の長いアイスピック。
力を振り絞り、風間の足に渾身の力で突き刺す。
会いたい。もう一度会いたい。先に死んでごめんなさい。私のせいでお母さんをたくさん傷つけた。家に帰れば良かった。窓から飛び降りてでも、大怪我をしてでも、あいつらを殺してでも生きて帰れば良かった。
どうしても詫びたい。一目でいいから会いたい。辛かったでしょう。私、自分からついていってなんかない。お母さんに会いたかった。最後までずっと、家に帰りたくて仕方なかった。
会えるまで、俺は死ねない。
そう思った瞬間、河野の霞んだ視界に光が射した。
何かが割れる音がした。ぴき、とひび割れるような音。それが断続的に続き、右手に冷気を感じた。
重い頭を上げ、目をこらす。アイスピックを刺した場所から冷気が立ちのぼっている。風間の足が氷に覆われ、ぴき、ぴき、と音を立てる。
足を見るなり、風間は悲鳴を上げた。「なに、なにこれっ」
彼女はハサミを振り下ろし、氷を砕きはじめる。河野は全身に力を込め、ふらつきながらも立ち上がった。
頭はガンガンと鳴り、右目には血が伝う。足にはうまく力が入らないし、気分は最悪だった。それでも眼前の女性に言った。
「ありがとう、思いださせてくれて」
氷を砕ききった風間は河野をねめつけ、スタンガンを突き出した。動きを見切り、悲鳴を上げる筋肉を総動員して躱す。左手に表出したナイフでスタンガンを刺した。とたんにスタンガンから焦げ臭い匂いがあがり、煙が出る。
熱い、と発して風間は手を離した。ナイフの刺さったスタンガンはしゅうしゅうと音を立て、やがて回路が焼き切れる
「さいっあく」
風間は舌打ちし、すぐそばの出口に身を滑らせる。追おうとするも、強い立ちくらみが身を襲い、その場に座り込む。
*****
河野を助けに行かなければ。そう思って下に降りようと階段に足を掛けた瞬間、階下に見えていた風間の影が姿を消した。
背後を振り返る。鬼のような形相をした女が、ハサミ片手にこちらに手を伸ばしていた。
手を掴まれてはいけない。そう思うよりも先に風間は猪瀬の手首をつかんだ。掴まれた箇所が感覚をなくし、動かそうと思っても動かせない。
1階を見下ろす。河野が動けないでいる。他には誰もいない。もう逃げられない。風間がハサミを振りかぶる。
今度こそ逃げられない。
猪瀬は目を閉じた。だが、耳をつんざくような音がし、意識がそちらに奪われる。
何の音? ガラスが割れる音だ。
薄く目を開く。風間は猪瀬の背後を見、目を瞠っている。その隙に彼女の身体にすばやく触れ、身体の自由を取り戻す。
身を翻し、音の根源を見た。4階へと続く踊り場の窓が割れ、誰かが立っていた。
「やっと入れたっ」
日本刀を片手に肩で息をする彼には覚えがあった。店に一度訪れ、公園で河野と話をする自分の背後にいた、頬に傷のある青年だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます