#90 協力
「どこかに出口が必ずあります」
階段を下りて4階にまた降り立った。河野は廊下の窓を開け、ナイフを下に向けて投げる。室内に耳を澄ますと、カラン、と音がした。窓から投げられたナイフが、繋がった先のどこかに落ちた。
「この手の能力は、袋小路にはできません」
空間を歪める能力者は必ずその場からの出口を用意するのだと、訓練隊員時代に崎森に教わった。出口の数はピリオドの練度による。表出したばかりなら出口は多く、熟練者ほど少ない。
安田という男は手慣れているふうだった。出口の数は1つか2つと考えたほうがいいだろう。問題は、どの窓、どの扉が外界に繋がる出口なのかだ。
「扉と窓をひとつずつ確認すれば、どれかは出口に繋がっているんですね」
「そうです。それさえ見つけられたら外に出られ――」
猪瀬から視線を外していた河野は、視界の端に何かうごめくものを認めて視線を戻した。彼女の背後にある部屋の扉から、音もなく風間が姿を現し、鋭利なハサミを振り下ろそうとしていた。
「危ないっ」
河野が彼女の手を強く引き、ハサミは空を切る。風間は舌打ちして河野を睨みつけた。すかさずアイスピックを表出し反撃に転じたが、風間は高柳を動線に差し出してくる。
きゃあ、と高柳が身をよじる。間一髪で切っ先を止めるも、高柳の後ろからハサミが突き出される。
「こっちへ」高柳の手首を掴み、彼女も後ろに隠す。「猪瀬さん、俺が足止めしているうちに出口を探してください」
「は、はい!」
猪瀬は弾かれたように階下へ降りていった。高柳は風間に加勢するかと思いきや、盾にされたのがショックだったのか、畏怖のまなざしを風間に向けると逃げ出すように階段を駆け下りていく。
もし高柳が凶器を持っていたら、猪瀬が危ない。
わずかに意識が逸れる。風間はそれを見逃さなかった。
「優しいね、守るんだ? でも、守れなかったらどうだろうね?」
彼女は素早い動きで河野の右足に触れた。硬直により身体のバランスを崩しそうになる。こらえる
襲い来る痛覚を覚悟したが、いっこうにその感覚は訪れない。風間はにやりと笑った。
「少しずついたぶってあげる。前世みたいに」
身を翻した風間にすんでのところで触れ、身体の自由を取り戻す。が、代わりに焼けつくような熱と痛みが右腿を襲った。
風間は階段の手すりを飛び越え、3階に降り立った。着地の衝撃をものともせずにすぐさま駆け出し、背を見せて逃げる高柳の首を、野良猫をつまみあげるかのように掴んだ。
腿に刺さったハサミを抜き、河野は階段を駆け下りる。高柳にハサミを突き立てようならナイフで防ぐ算段だったが、風間は悠々と高柳を盾にし、首元にハサミを向けていた。身体に触れられて動きを封じられた高柳は、短く早い呼吸を繰り返している。
「足、超~痛いでしょ?」風間は笑って言った。「動きを止めるだけじゃないの」
彼女はそう言い、ハサミで高柳の二の腕をつまみ、力を込めた。シャツからむき出しの腕に切っ先が食い込んでゆき、悲鳴が上がる。
「痛いっ! 痛いぃっ……」
高柳の両目から涙があふれる。しかし動きを封じられているせいで身じろぎもしなかった。
河野は表出させたアイスピックで風間の手を突き刺す。その手からハサミが取り落ちる。それでも風間は涼しい顔を崩さなかった。高柳の拘束は解け、痛い痛いとしゃがんで泣きはじめる。
身体を硬化させているあいだ、痛覚も自在に操れる。痛覚と意識を保ったまま相手の身体の自由を奪うことができる。逆に、自らの痛覚を鈍麻させることも可能。
痛みの中、河野は思考を整理し続ける。右腿の傷は比較的浅く、太い血管を傷つけてはいない。止血をすればまだ十分に動き回れる。アイスピックを刺しても痛がらなかった。自らを硬化したせいだろう。そして、同じタイミングで高柳の拘束は解けた。自分と他人を同時に硬化できないのではないか? それに、右腿の傷の痛みは時間差で襲ってきた。彼女はどうだ? 飛び降りて着地した衝撃や、いまアイスピックが刺した痛みはどこへ行った?
ずるずると這うようにして逃げる高柳に目をくれず、痛みに顔をしかめる河野に好戦的な視線を送り風間は言った。
「ゆっくりいたぶってあげるからねえ。なんせ、私の好きなタイミングで解けるからさ、これ。死ぬまで身体が動かない気分も味わえる。死んだ後に解放してあげようか?」
殺したあとも硬化の時間を持続できる。それは、彼女がピリオドを解いた瞬間から死後硬直が始まることを意味する。捜査線上に彼女が浮かばなかったのも頷ける。自らのアリバイを立証できるだけの時間を稼いでからピリオドを解けばいいだけの話だ。
「今回はどういうオチにしようか」顔に笑みを貼りつけ、風間は続けた。「三角関係が面白いかな? 行きつけの飲食店の店長に恋をした青年と、その青年に片思いしていたジャーナリストの痴情のもつれ。ナイフで青年とジャーナリストは殺しあってどっちもお陀仏、責任を感じた店長は首を吊って自殺しましたとさ、おしまい。……うん、悪くない。みんな食いついてくれると思うよ。また卒業アルバムの写真が晒されちゃうかもね」
「話が違うじゃない!」高柳が叫んだ。「私も殺すの? 都合の良い奴をおびき寄せればいいって言ったでしょ! 嘘つき! ここから出してよ!」
高柳は流血する腕を抑え、手近な部屋に転がりこんだ。錠の降りる音がし、彼女の気配が場から消える。風間は高柳が転がり込んだ扉を開け、「あーあ、逃げちゃった」と残念そうな声を上げた。痛む足を叱咤しながら、河野も3階フロアに降り立つ。
扉を閉め、意地の悪い笑みを浮かべて風間は問う。
「どうする? 足手まといが二人に増えたけど。両方守りながら私に勝つって無理ゲーでしょ」
高柳の血のついたハサミを手に、風間はまたも河野の右腿を狙ってくる。ナイフで躱し、河野は次の手を考えはじめる。
*****
猪瀬は2階の廊下にある窓をすべて開けた。近くの部屋にあったスリッパを窓へ投げ込む。だが、一番手前の窓に投げ込んだそれは、一番奥の窓から出てきた。
ふと足音がし、身を隠す。物陰からそっとうかがうと、高柳が腕を抑えて廊下の反対側に位置する部屋へ入っていった。怪我をしている。血の匂いがぷんと漂った。
目を閉じる。恐怖に息を殺す。ここにいて見つからないだろうか。さっき、高柳の悲鳴が聞こえた。風間は高柳をも殺すかもしれない。ここで3人とも殺されてしまう? 河野を一人残していいのか。自分も加勢しなくていいのか。出口が見つかったとして、先に逃げていいのか。
ぐるぐると葛藤する。耳に、高柳のうめき声が聞こえる。うう、と苦痛に耐える声は、前世で自らが殺めた女性が首を絞められながら発した声音にひどく似ていた。記憶が
高柳の様子をうかがおうとして、廊下の先に目をやった。
そこで、猪瀬は自らの目を疑った。
高柳の姿が見える。扉や壁で隔てられているのに、人影が見える。青くぼんやりと人の姿を模したものが見える。
ふと、視線を上げた。河野と風間がいるであろう方向には、対峙する二人分の人影が見えた。一人は青い影で、もう一人は赤い影だった。姿かたちから、青が河野で赤が風間だというのは見て取れた。
瞬きをしても光景は変わらない。目の錯覚ではなかった。
自らの身に起こったことが現実だと理解するなり、猪瀬はすぐに行動に移した。人影を辿り、向かいの部屋に足を踏みいれて高柳に近づく。怯えた顔をする彼女に、人差し指を立てて静かにするよう伝えた。羽織っていたジャケットを脱ぎ、負傷した二の腕を縛ってやる。指先まで
「こっちへ」
上階の赤い影がこちらに向かってこないのを確かめつつ、1階へ降りる。最初に出た出口のそばで、息を殺して待つ。じっと上を見つめ、赤い影が動く様子を見守る。
河野と風間は互いに武器を持っている。その種別までもが影となっていた。風間は切っ先鋭いハサミを用い、河野はナイフとアイスピックを使い分けている。触れられると身体が硬直させられるからか、河野は距離を取っている。何もない場所から、彼の持っていたアイスピックが現れる。風間は数度、攻撃を喰らったようだが、その動きに鈍さはなかった。
何度目かの河野の攻撃を受け、風間の人影がこれまでと違う動きを見せた。階段へとその影が移動する。首が左右を向いている。何かを探している。
私を探しているんじゃないか。そう判断し、猪瀬は高柳の肩を掴み、ほぼ同時に出口を出た。一瞬ののち、二人は5階の廊下に戻される。猪瀬は自らの足元をじっと見つめた。床を通り越して、人影が動くのが見える。
これで時間を稼げるかもしれない。風間がどこかの窓から不意に現れたら、手近な窓に入り込めばいい。逃げ回れる。河野の援護もできる。
ただ一点を見つめるばかりの猪瀬を不審に思ったのか、高柳が恐る恐る小声で問うた。
「あなた、何が見えているの?」
彼女の目を見つめる。
自分は人を殺してこの能力が宿った。では、彼女は?
彼女は何をし、どんな目に遭って他人の前世を見る能力を授かった?
「あなたと同じです」猪瀬は告げた。「私にしか見えないものが見えます」
高柳に出口の場所を聞いたが、彼女は力なく首を振った。風間への恐怖が臨界点を越えたのか、細かく震えてうまく歩けないでいた。このままここで殺されるのかということを何度も問う。猪瀬は隅の部屋に高柳を連れて行き、目立たない場所に彼女を座らせた。
生きて帰りたかったらここから出ないで。猪瀬の言葉に、彼女は小さく何度も頷いた。
脅迫され、後ろ暗い過去のある人を誘い込む役を買っていただけだと察した。
では、なぜ? どんな過去があって? 高柳も風間も、前世犯を強く憎んでいる。それが二人の共通点?
階段の踊り場から階下を見る。建物の内部までもがうっすらとした輪郭を持っていた。まるで設計図を俯瞰しているかのように、河野と風間の位置が分かる。河野は2階へ続く階段を降りる途中で、風間は今、1階の西端の部屋に入り、扉を閉めた。
錠の落ちる音がし、風間の赤い影が階段の踊り場から姿を現す。背を向ける河野へとハサミが向けられる。
「河野さん、後ろ!」
声を張り上げた。河野の青い影が動く。ナイフが空間に出現し、彼はそれを手に掴むなり素早い動きでハサミを弾き、風間に連撃を与えた。
やれる。これなら河野を助けられる。風間を戦闘不能にすれば、出口を探すだけだ。一緒にここから出られる。猪瀬は湧きあがる希望を噛みしめ、目を離すまいと二つの影を目で追った。
*****
ナイフの連撃を受けても、風間の動きに変化はなかった。痛覚の遮断により、河野のピリオドも通用していないのかもしれない。だとすれば、ナイフとアイスピックはただの刃物でしかない。だが白刃戦ではこちらに分がある。
同じことを風間も悟ったのか、彼女は手近な窓に勢いよく飛び込んだ。気配を探る。
「4階です! 西側の廊下!」
猪瀬の声が降ってきた。彼女も身の危険を察知してどこかの窓に飛び込んだのか、その声は途切れる。
目を閉じ、意識を集中させる。4階の風景を思い出し、ナイフとアイスピックを場に打ち込む。かん、と床に刃が当たる音。外したようだ。
「窓に入った! 2階、すぐ右の部屋にいます!」
今度は階下から猪瀬が声を上げた。彼女が飛び込んだ先は1階に繋がっていたらしい。
彼女のピリオドは明らかに深化していた。背後にいる者の顔ではなく、視界にいる人間の動きを把握している。河野にとっては俄然戦いやすくなった。
右の扉を開けると、風間がこちらに向かってくるのが見えた。ハサミを振りかぶり、襲いかかってくる。苛立ちからか攻撃が大振りになっている。見切って躱そうと思ったが、彼女のピリオドの性質が頭をよぎり、寸前でわざと動きを止めた。
ハサミが右眉の上を掠った。痛みとともに、血が伝う感触がした。
風間は勢いづき、河野の右腕を掴む。
「今度は右腕にしてあげる!」
そう叫ぶと、河野の右腕は自由を失う。
その瞬間、河野はアイスピックを彼女の背に表出させ、突き立てた。間髪を入れず、突きを続けざまに打ちこむ。
風間は顔を歪め、膝をついた。その肩に触れ、右腕の拘束を解く。
「やっぱり、自分と他人の硬化は同時にできないんだな」
「……残念でした、もう効いてませえん」
苦々しく風間は笑ってみせる。それでもあの一瞬で10回近く攻撃をした。体温は二度ほど下がっている計算になる。常人であれば悪寒が止まらないはずだ。
風間の手が触れない程度に距離を取る。かすかに彼女の腕が震えているのが見て取れた。そして、その手――河野がアイスピックで刺した場所を、強く押さえている。
「
風間が毒づく。今の衝撃で、無効化していた自らへのダメージがその身を襲ったようだ。階下へ飛び降りた際の衝撃や、アイスピックの刺し傷が時間差で彼女を
再びアイスピックを手にする。もう遠慮はいらない。あと数度攻撃を食らわせれば昏倒するだろう。そのあとはじっくりと出口を探し、猪瀬と高柳を連れて脱出すればいい。
ぶるぶると震える風間は、シザ―ケースに手をやった。
「これ、使うと痕が残るからさぁ……偽装が面倒くさくなるけど、しょうがないか」
風間は黒い物体を手にした。
ばち、と鈍く鋭い音が響く。
河野の脳が、その音を発するものが何かを即座に彼に思いださせた。
前世で何度も受けたその衝撃すらも、容易く彼の記憶から引き出させた。
風間は身を翻し、素早い身のこなしで部屋の隅にある窓に手をかけた。窓を開け、躊躇いなく飛び込む。
河野はすぐに後を追った。そして叫ぶ。
「逃げろ!」
視界が変わる。1階の廊下沿いの窓から内部へ転がるように出た河野は、周囲を見渡す。5階へ繋がる出口の前に、猪瀬が立っていた。彼女へ向かって、よろめきながら風間が近寄ろうとする。がくがくと肩を震わせる風間に、猪瀬は気圧され動けないでいる。
考える暇もなく河野は床を蹴った。風間よりほんのわずか先に猪瀬に辿り着き、その両肩を強く押し、出口から出させる。猪瀬が河野に向かって伸ばされた手は、届くことなく扉の向こうへ消えてゆく。
全身を強い衝撃が襲った。万を超える針で身体中を貫かれたような痛みと、脳が沸騰するかのような熱さが同時に襲う。神経は命令を破棄し、四肢は活動を停止する。視界が急速に暗くなる。思考が強制終了したかのように繋がらない。
思い出したくはない痛みだった。前世で受けたそれよりも威力は数段に上だった。
スタンガンの強烈な電撃を受け、河野はその場に昏倒した。
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