#89 対峙


「私の名前に覚えはありませんか」


 安田と名乗った男は、わずかに微笑んだように見えた。

 神崎は眉を寄せた。顔に覚えがあった。安田金五の字が頭に浮かんだ。名字しか名乗らなかった男の下の名前がすっと出たことに言い得ぬ感覚を抱いた。どこで会ったか思いだせないが、名前と顔は覚えている。

 良からぬものが近づいている気がして、むざむざと居心地の悪さが胸に広がった。

 反応を見せない神崎を見、安田は残念がった。「覚えてないですか。残念です」


「無理もないよ」


 別の男の声。よく通る声だった。安田の後ろから現れた男を見るなり、全身の毛が逆立つ思いがした。

 背の高い男。仕立ての良いスーツを着ている。整った顔立ち。余裕のある表情。

 深見が目の前に現れた。


「抑えろよ」


 脇で国見が忠告する。彼はこちらを注視していて、その手にはコントローラが握られていた。先走る真似をすればピリオドで止めるという意思表示を察し、頷きで返す。刀を持つ手が微妙に震えている。興奮か恐怖か測りかねた。

 安田は深見に道を開けた。ひさしの真下まで深見は歩み出た。


「もう少し近くで話をしよう」


 彼はそう言い、軽く右手を上げた。抜刀しかけるも、動きは止まる。

 深見の手に、見慣れたコントローラがあった。その形を認めるなり、国見の手元を確認した。彼の手にあったはずのコントローラは消えている。

 いったい何をしたのかと再び深見を見る。穏やかに笑む彼と目が合った。


「ほら、発動条件は何だっけ?」


 彼がそう言うなり、神崎の足は勝手に動きだした。国見もまた同じだった。操作されているかのように歩みが進む。深見と安田との距離が縮まってゆく。鞘から刀を抜く。振り抜いて風を起こそうとした刹那、耳元で声がした。


「物騒だな。話をするだけだ」


 いつの間にか真横に深見が立っていた。反射で左の拳が出るがくうを切った。彼は元いた場所に立ち、こちらを見ている。口の端に笑みが浮かんでいる。


「びっくりしたかい?」楽しげに彼は言った。

「どこで手に入れた?」

 低い声が耳に響く。一瞬ののち、その声が自ら発したものだと気づいた。

「怖いね。土壇場でしか姿を見せないのかと思ったのに。もったいぶっているのか?」

 挑発するような目で深見が言った。

 口が勝手に動く。「何をしたい?」

 自分が自分ではない感覚だった。意思とは関わらず、言葉が口から零れ出ている。

「いつか分かるよ。今日のはひとつの実験でしかない。……ああ、君たちは外がどんな騒ぎか知らないか」

 含みのある物言いに、国見と視線を合わせた。彼もその言葉が指すものを理解できていないようだった。

「今日でいったい、どれくらいの人々の人生が変わるだろうね」

 笑みを浮かべる深見の目は笑ってはいなかった。

「また周りを巻きこむつもりか」怒りを孕んだ自分の声。

「あの日のことを怒っているのか? 先に殺してきたのは君だろう」

 冷ややかな声を浴びせ、深見は探るようにこちらを見た。


 先に殺してきたのは君。

 深見の言葉が、心の奥底にある記憶にかぎを引っかけた。夢で見た光景がフラッシュバックする。

 教会。中年の男女。彼らに目を覆われていた身重の女性。自分が隅に追い詰めていた男。白い服は血に染まっていた。呪い殺すと言った男を、自分は白い刀で斬り殺した。

 時を経て、同じ場所で警察に囲まれた。密告があったからだ。少女だった。人を殺す男がいると警察を呼んだ。銃を向けられ、天井を落として逃げた。男児を一人連れて。

 あの少女は男児と違い、早くに記憶を思い出し、成熟が早かった。猜疑心さいぎしんの強い子で、自分にはあまり懐かなかった。

 記憶が糸を手繰り寄せる。警察が踏み込んでくる前夜、寝室に下がろうとする彼女が何か言っていた。ワンピースタイプの寝間着は淡い水色だった。自分が買ってやったものだ。なんと言っていたのだっけ。あのどこか冷めた目で、物静かな口調で、おやすみと言う前に、何かを。


『パパ、明日は忙しくなるね。……おやすみ』


 そうだ。確かにあの子はそう言った。あの流し目が、ある人物を強く想起させたのも覚えている。あの子が産まれる前、自らが手を掛けて殺したあの男に。


「あの子もお前だったのか」

 口から漏れた問いに深見は目を丸くしてみせた。演技だとすぐに分かった。

「ひとつ思いだしたみたいだね。でも、まだ全部じゃない。そのほうが幸せかもしれないが。……新助、早く覚醒してくれよ。のことなんか放っておいて。今度は君と話がしたい」


 左手が腰に行き、柄を強く握った。しかし、瞬きをひとつする間に、深見と安田の姿は忽然と消えた。


「逃げやがった、くそ」

 国見は舌打ちをし、二人を探してシンクレールの中に入っていった。けれども、彼が中に踏み込んだとたん、彼の気配を背後に感じた。振り返れば、いま目の前で店内に入っていったはずの彼が虚をつかれた目でこちらを見ている。

 深見と安田は蜃気楼のように消えた。シンクレールには入れない。

 これでは河野の居場所まで辿り着けない。そう思うと同時に、神崎の思考は飛躍した。


――この空間も斬れるのではないか?


 安田がピリオドを用いて空間を歪めているのなら、空間ごと斬れば元の場所に戻るのではないか。それができずとも、河野がいる場所に辿り着けるかもしれない。

 シンクレールの扉に目を向ける。ひらかれたドアの向こうには、会計カウンターが見える。

 みたび柄に手を掛け、構える。目を閉じて深くイメージをした。


 空間を斬るだなんて馬鹿げている、できるわけがない――冷静な自分が声を上げようとする。だが成功すると疑わなかった。成功させねばならないという思いが勝った。できなければ河野の元に辿り着けない。できるかどうかではない、やらなければいけない。その思いが、自然と自信へと変容するのを感じた。

 根拠はないが、できる。漠然としていて、それでいてしっかりとした輪郭を持った思いが胸のうちに満ちる。松川が言っていた「想像力」とはこれだったのかと思った。


『未確認のピリオドを検知しました』

『未確認のピリオドを検知しました』

『未確認のピリオドを検知しました』


 胸元でグラインが鳴った。近くに表出者が出た。深見と安田から差し向けられた者だとすれば、いずれここにやってくる。国見もまた丸腰だ。先ほど深見が彼の能力を使ったように見えたが、ピリオドは消失したのだろうか。思念が散る。呼吸がわずかに乱れた。

 

「集中しろ」


 ぴしゃりと背後の国見が言った。彼をうかがうと、その手には確かにコントローラが握られている。能力を奪われてはいなかった。

 前方を注視する彼は続ける。


「こっちはどうにかする。班長の手助けをしてこい。


 複数の表出反応があり、近隣に人の気配はない。この空間には二人しかいない。他の隊員と隔絶された場で武器を持たない彼を一人にして良いのか、一瞬迷った。


「迷うな」国見の言葉が迷いを切り捨てる。「選択を間違えるな。お前が行くのが最善策だ」

「……了解」


 迷いを吹っ切る。目を閉じて深く息を吐き、浅く吸う。

 物質には傷をつけない。空間を斬る。自らに命じ、息を止め、勢いよく刀を振った。

 右から左へと横に薙いだ太刀は風を巻き込み、建物を直撃する。ご、と衝撃を受けた音が響くも、扉や建物に傷が生じた様子は見えない。

 開いている扉からすぐさま店内に入る。足を踏みいれると、カラン、と鈴の音が鳴り、ひとりでに扉が閉まった。

 振り向いて国見の姿を確認しようとしたが、背後には見知らぬ景色が広がっていた。薄いベージュのタイルが敷かれた広場だった。空気が生暖かい。肌に当たる雫を感じ、耳が雨音を拾う。


 正面に目を向けた。5階建ての古びた建物があった。前方に両開きのガラス扉を見つけた。入ろうとするも、梃子のように動かない。押しても引いてもびくともしなかった。

 グラインで上昇し、窓をあらためる。いずれもぴっちりと閉められ、開かなかった。中には誰もいないように見える。だが直感で、この中に猪瀬と高柳、そして河野がいると思った。

 雨に降られながら屋上に移動する。避難用の出入り口も開かない。来るものを拒むかのように閉ざされている。

 破って入るしかない。空間を斬ったのと同じ要領でいけばいい。頭は冷静に決断を下した。

 トラップがありそうな出入り口を避け、うまく進入できそうな場所を探し、建物の裏に回る。内部構造を把握し、最上階へ通じる階段の踊り場の窓に目をつけた。位置が高く、グラインの可動域も広い。問題なく斬れるだろうし、中に入ってもある程度は自由に動けそうだ。

 浮上したままで構えた。足の踏ん張りがきかない分、腹と腕の力が重要になってくる。深呼吸を重ねる。目を閉じる。雨粒が髪を伝い、鼻をくすぐる。神経を研ぎ澄ませる。

 柄に手をやり、わずかに刀身をのぞかせる。ふっ、と息を吐き、神崎は太刀を振るった。






 ******





「いいカッコしすぎたかな」


 国見はひとりごち、感覚を研ぎ澄ませた。 

 銃もグラインもなく、神崎の検知した表出者がどこから来るかは不明。この状況からの脱出方法も不明。元凶らしき二人は姿を消した。それでいて、表出者が自然と現れた。

 最悪のケースなら寿命が尽きるまでこの空間に取り残されるかもしれない。しかし、神崎を河野の元に行かせた自分の判断は正しいと思っていた。

 大声が耳に入った。鉄パイプを持った男が右から走ってくる。「脳天を割らせろ」と叫ぶのが聞こえると同時に、彼に目を合わせ、その足を近場のブロック塀に向かわせた。全速力で男は塀に突っこみ、崩れ落ちる。


 河野がどんな状況にいるのかを考える。彼のピリオドは連撃で真価を発揮する。逆を言えば単発の攻撃はさほど殺傷力がない。一般人を庇いながら戦っているならば不利にも思える。

 何より、猪瀬の存在が彼の理性を奪わないかが不安だった。河野が、猪瀬の背後に刃を突き立てるような真似をする人間ではないと分かっているのにも関わらず、だ。


 彼の口からその過去を聞いたのは、自分が揺り戻しに悩むようになってからだ。気にかけてくれた恩を強く感じ、深く尊敬もしている。だからこそ、彼が過ちを犯すことがひどく怖い。自らのエゴが、河野には常に正しくあってほしいと願っている。高潔で、常に正しい選択をし、自分の模範であり続けてほしいと勝手な理想のフィルターを押しつけて、そのフィルター越しに彼を見ている。


 全員が無事に戻ってきたそのとき、河野は自分になんと声を掛けるだろう。神崎を向かわせた判断を評価するだろうか。もしかすれば、班長たる自分の能力を信用しなかったのかと苦い顔をするかもしれないし、よくも足手まといを増やしてくれたものだと呆れて大きなため息をつくかもしれない。


――でも、何が起きるか分からないビックリ箱みたいなやつがいたほうが面白いでしょう。

 脳内で言い訳を考えてみる。適当で悪名高い同期の言い方と似通っているに気づき、悪い思考癖がうつったなと苦笑した。


 複数の足音がし、身構える。左側で住宅が傾いだ。前方で砂塵が舞った。ブロック塀に激突した男が体勢を立て直し、咆哮する。住宅地のどこかから、「鬼ごっこする人、この指止まれ」と女児の声。グラインの検知後、さらに表出者が増えていた。

 一気に相手をするには劣勢が過ぎると判断した。ピリオドで強制的に距離を取らせ、それぞれの能力を見極めることにし、一番早くこちらに到達する人間を見つけようとした。


 が、開けた道沿いへと一歩踏み出した国見の背後で、手を打ち鳴らす音が聞こえた。


「はいはーい、国見くん以外こっちに注目ぅーっ!」

 覚えのある声に、首が自然とそちらへ向いた。

「国見さん、目ぇ閉じてください。眩しくなりますから」

 次いで聞こえた声に、慌てて目を閉じる。

 瞼の奥で光がまたたいいた。空気を切り裂くような乾いた音が断続的に聞こえ、しばしして音が止む。

 ゆっくりと目を開ければ、周囲に集まって来た表出者らしき複数人が倒れていた。隊服姿の嶋田が彼らの呼吸を確認し、無線でなにやら報告を飛ばしていた。やり取りを終えるなり、彼は満面の笑みでこちらに歩み寄る。


「せっかくなら『両手を挙げるんだ!』って言えば良かったね」

 洋画の吹き替え口調を真似る彼に、スナイパーライフルを手にした玉池が呆れ声で言う。

「それほど余裕なら、ご自分で仕留めれば良かったでしょうに」そう言い、彼は胸元に向けて続けた。「国見さんと合流しました。大垣さん、グラインと装備一式出してもらえます?」

『おー、後ろに置いといた』


 本部管理班の大垣大海の間延びした声。後ろを振り返ると、電柱の影にグラインとガンホルダー、拳銃、ナイフが置かれていた。まるで最初からその場にあって、国見がその存在を目に止めていなかったかのようだった。

 嶋田が肩をすくめて両手を挙げつつ「おいおいスティーブ、これはいったいどんな手品なんだい?」と演技するのをよそに、グラインとガンホルダーを装着する。


「待機組も出てるんだな」

 問いかけに、周囲に目を走らせていた玉池が首を振る。

崎森班ウチどころか、全員出てますよ。街中で表出者が山ほど出て、一部が暴徒化しました。ほぼ制圧しましたが」

「ここにはどうやって?」

「それがなんと、空間が割れまして」玉池はそう言い、人差し指ですっと横に線を引く素振りを見せた。「猪瀬さんと高柳さんがいたあたりに立っていたら、空に横一文字の切れ目ができたんです。切れ目が広がったと思ったら国見さんの背が見えたので、慌てて近くにいた嶋田さんを巻きこんで飛び込みました」

「神崎のおかげだな」

 シンクレールに戻って扉を開いた。足を踏みいれると、今度は店内に問題なく入ることができた。喫茶店の扉へ向けての彼の一閃は、河野がいる空間へ彼を導き、同時に国見たちが本来いた空間とも繋がったらしい。通信も回復している。

 他班の状況を聞いてから、国見は神崎が河野のもとへ向かった経緯を簡潔に話した。


「空間を斬る、ですか。すごいなあ」玉池が驚きの表情を浮かべる。

「直前のアンノウンとの会話で前世を思い出したようだった。その影響でピリオドが飛躍したんだろう。それに、途中で利き手が変わっていたのも見た」

 嶋田が眉を上げる。「級付けで君と河野班長が見たっていう、志賀新助の内面が出た?」

「たぶん」

「その状態で合流して大丈夫かな。河野班長と級付けでガッチガチにやりあったんでしょ?」

「そうは言っても、俺じゃ班長まで辿り着く手段がなかった。……それに、言葉を交わした感じでは神崎だったんですよね」


 級付けでは志賀と思しき人格は減退弾を喰らって昏倒し、目を覚ますと神崎に戻っていた。今回は、志賀の人格がなりを潜め、神崎の人格が戻っているように国見には思えた。それが何を意味するかは分からなかった。河野のもとでまた志賀の姿を見せるかもしれない。そうなれば余計に危ない気もする。果たして、彼を行かせて良かったものか。


「ほんっと、いいカッコしすぎたかもしんねえな」


 ひとりごちる。選択を間違えるなと後輩を叱咤しておきながら、自分はすでに下した判断が正しかったのか揺らいでいる。

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