#88 証明


 猪瀬はふらつく足を必死に動かし、階段を下りていった。

 踊り場の壁の階数表示で、自分たちが4階にいたことを知る。手すりから階下をのぞき込むと、1階がひどく遠く感じられた。

 日中だが建物内は薄暗い。踊り場の照明が、輪郭のぼやけた影を作りだしている。廊下はなお暗く、薄暗闇から誰かが出てくるのではと恐怖心が煽られる。リノリウムの白い床を踏みしめると、きゅ、と音が鳴った。


 ばくばくと脈を打つ心音がひどくうるさい。胸のあたりを強く握る。

 河野の手に音もなくアイスピックが現れたとき、猪瀬は驚き、同時に納得もした。

 あなたもなんですね。あなたもまた、前世の記憶によって不思議な能力が現れた人なんですね。そう声をかけたかった。

 彼もまた前世に何かがある。猪瀬志保が前世で殺人を犯したのも知っている。だから彼は自分をマークしていた。胸に落ちるものがあった。


 時間を稼ぐと言った彼は、あのサバイバルナイフとアイスピックで戦っているのだろうか。上を見上げるも、当然のようにその姿は見えない。

 死んでしまいたいと一時いっときは命をなげうったくせに、助けられ、言われるがまま逃げ出した己を猪瀬は恥じた。だが、あの場にいても自分が足を引っ張るのは目に見えていた。

 ひたすらに階段を下る。足を踏み外しそうになっては手すりを掴んで耐えた。背後に集中する。追う者の存在は感じなかった。

 ようやく1階まで下りきり、下りた先にあった両開きのガラス扉を両手で押した。ライムグリーンの扉は抵抗なく開き、雨音が迎えた。


 助けを呼ばなければ。端末はどこかに置いてきてしまった。走って、どこか人のいるところまで――。


 そう考えながら猪瀬は外へ出た。

 だが、踏み出した右足が地面を捉えると、きゅ、と音が鳴った。

 眼前に広がる光景に足が止まる。すぐそこに、下へと降りる階段があった。踊り場の壁には「5」と表示がされている。

 仄暗く、冷たい空気が身体にまとわりつく。


「嘘でしょ」


 発した声は細く、背後のガラスを叩く雨音にかき消される。

 出口から出たのに、なぜ私は5階にいるの。

 金属がこすれ合う音が階下で響いた。恐る恐る踊り場まで下り、そっと様子をうかがう。

 河野の姿が見えた。彼もこちらを認め、わずかなあいだ目をみはった。だがすぐに視線を正面に戻した。


「降りてこないで」 


 自分への言葉と理解し、身を硬くした。

 あはは、と明るい笑い声が、河野の正面のほうから聞こえた。


「どう? エッシャーの騙し絵みたいで楽しいでしょ?」


 階段を上っているはずが、いつの間にか元の場所に戻っている絵が脳裏に浮かんだ。

 

――ここから出られない?


 恐るべき可能性を見出したとたん、悪寒が背を駆け抜けた。






 *****






 踊り場の猪瀬は身を潜めてこちらをうかがっている。視線で動かぬよう制し、河野は歩を進めて階段前に陣取った。

 建物は階段を中心として左右対称になっていた。東西に5メートルほど廊下が伸び、階段側に2部屋が並び、廊下を挟んで反対側は窓になっている。突き当たりにも1部屋あり、1フロアにつき計6部屋がある。部屋のドアはライムグリーンのスライド式で、学校施設か病院のように見受けられた。

 猪瀬は1階の出口を出て5階に戻された。安田という男の能力には、空間転移だけでなく空間を歪める能力も含まれているらしい。

 前方の風間は楽しげにハサミを動かしている。刃先がこすれあい、しゃりしゃりと音が鳴る。高柳は彼女の脇にひっそりと立っている。存在を抹消するかのように動かない。

 

 アイスピックを風間の眼前に表出させる。鋭い切っ先を前にし、風間はハサミを振った。金属が擦れる高音とともに、アイスピックは宙を舞う。

 間をおかず、サバイバルナイフを空いた左腕上腕部に具現し、切りつける。三度ほど軽く傷をつけたところで風間が空いたほうの手でナイフをはじいた。

 瞬間、サバイバルナイフが宙に浮いた。落ちるでもなく、弾かれた方向に飛ぶでもなく、動きを止められたかのようにその場に静止した。

 触れたものの動きを止める能力かと推し量る。だとすれば、被害者らを拘束するのも容易だったはずだ。

 足元に転がっているアイスピックを拾い上げ、宙に浮いたままのナイフの具現を解く。ナイフによる三度の攻撃で計0.6度。まだ彼女は、自分の体温が知らぬ間に上がっているとは思っていないだろう。

 ナイフが消え、風間は口を三日月に歪めた。


「もしかしてさ、前世で同じ刑務所だったから庇ってたりする?」


 小馬鹿にした口調で言い、かたわらの高柳を見やる。高柳はじっと河野を見据えた。

 高柳の存在が厄介だった。風間がそう命じているのか、そばを離れない。風間の盾でもあり人質でもある。脅されて犯罪に加担させられている可能性を捨てきれない以上、高柳は保護対象だ。

 

「誘拐殺人の被害者です」高柳は河野に視線をやったまま告げた。「宮城女子高生誘拐殺人の被害者。……なんだか皮肉ですね。男に生まれ変わったなんて」

「ああ、聞いたことある。レイプされて冷凍庫に閉じ込められて死んだんでしょ。可哀想」

「自分からついていったんですよね?」高柳がこちらを見る。「売春してたって聞きましたけど。自業自得じゃないですか」


 見え透いた挑発に、河野は無表情を貫いた。高柳はあくまで風間側の立場なのだと理解する。風間の支配下に置かれても猪瀬を陥れたい。では、その理由は何か。

 攻撃できる隙を待ちながら思考を巡らせる。風間は微笑み、軽く両手を広げてみせた。


「アンタもこっち側じゃん。今も加害者を許せないんでしょ。いま、絶好のチャンスだよ。前世の復讐しなよ。あの女を殺しても、ここなら誰も気づかないよ」

「相手が違う」

「復讐したいことは認めるんだ?」


 重ねられる言葉に、また無言を貫く。ストロボのように記憶がちらついた。

 三人の男の顔。自分を組み敷いて見下ろしたにやついた表情、下卑た笑み。順番に犯しながら笑いあっていた声のトーン。殴られた痛み。光を無くした右目の視界。真っ暗闇。がちがちと鳴った歯の根、生温かくぬめりを帯びた腹。くらんでぼやけた視界、震える手が感じたアイスピックの感触。

 容姿を品評する書き込み。晒されたアルバム写真。下された判決文。最後まで謝罪の言葉はなかったというルポ記事。夜中に娘を出歩かせるのが悪いと言い切ったコメンテーターの顔。母を罵倒した書き込み。花束が添えられた献花台。報道が苛烈だったのだと糾弾するインタビュー。

 

深く息を吸って、吐いた。息とともに、頭を占領していた記憶のかけらは身を隠す。


「ここで死んでも、生まれ変わったら今日を思い出して異能を出す。また同じことを繰り返すだけだ。だから死なせない」

「生きて償わせて満足してあの世に行ってもらうつもり? きれいごと言うね。アンタ、性犯罪者がこの世で一番憎いんじゃないの。なのに見逃すんだ」

「正しい道を進もうとしているのはやめさせない」


 言葉が滑り落ちる。きれいごとを言っている。自分でも分かっていた。

 猪瀬に苦しんでほしい、再び生を受けたことを後悔してほしい。そう願う犯罪被害者の自分と、正道せいどうを歩み過ちを悔いて欲しいと願うICTO隊員の自分がいる。

 来世で苦しまないためにも今世で過去を清算してほしい。前世に苦悩しつつも子どもを支援していた彼女を守りたい。その過程を妨げる者を排除したいとも思う。それでいて、今の彼女が抱える苦難はすべて因果応報だろうとも思う。自分以上に前世にさいなまれて欲しいとも思う。

 風間は息を吐いた。物分かりの悪い生徒に教師がするようなため息だった。


「生まれ変われて、名前を変えて人生やり直せて、黙っていれば誰にもバレなくて、バレても真面目に生きれば許されて……リセマラで人生楽勝って感じのヤツをなんで信じられるかな。周りにいる子が未来の被害者になるかもって考えないの」

「再犯するとどうして言える?」

「むしろ、なんで再犯しないって言い切れるわけ? 反省だって演技に決まってる。テキトーに騙してやり過ごそうとしてるだけじゃん。反省できる知能がある人はさ、そもそも人をレイプして殺したりしません。分かる?」

 肩をすくめ、風間は小さく首を振った。「分からないなら別にいいけど、私からすれば庇うのも同罪なの。未来の加害に加担してるわけだしね。未必みひつの故意ってやつ」


 言うなり、風間は身を低くし足で床を蹴り、距離を詰めた。眼前で踏み込み、右足で回し蹴りを喰らわせてくる。河野はひらりと身を躱し、左手にナイフを具現し振りだされた足に二撃加えた。デニムの生地が綺麗に裂け、足首に赤い線が走る。

 しかし反撃されるのを狙っていたのか、風間がナイフを持つ河野の手首を掴み、そのまま手指にも触れ、すぐ離した。


 触れられたと同時に、強い圧力を手に感じた。生ぬるい温度が手首全体を包み、左手が空間に押さえつけられる。指先まで圧力は伝播し、ナイフは手から零れた。

 感触といい温度といい、人間の手のようだった。見えない手が手首を強く押さえつけている。左腕に意識を集中し、動かす。触れられた箇所だけがその場から動かない。

 身を返した風間がハサミを突き出してくる。がら空きになった身体を狙われると瞬時に判断し、腕の動きを見切って手首を掴み返した。

 すると、固まっていた手首は自由を取り戻した。

 触れた箇所の動きを止め、対象に触れられると拘束が解ける。松川に似た系統の変異型ピリオドだ。近接戦向きだが距離を取れば恐れるには足りない。そう分析し、河野は次の動きを注視する。

 ひねり上げられた腕を振りほどいた風間は蹴りのモーションを見せた。素早く距離を取る。追ってくるかと思ったが、彼女もまた距離を取った。高柳のそばへ戻り、手近な部屋に揃って身を滑り込ませ、引き戸を勢い良く閉めて扉を施錠した。


 立てこもったのではないと直感が告げた。

 トラップを考慮してアイスピックの長い刃先を使って扉を開けた。施錠されたはずの扉はゆっくりと開き、室内が見渡せた。

 黒い天板の幅広な机がいくつかあり、木目調の四角い椅子が並んでいる。壁際にはガラス棚があり、模型が収められていた。理科室を彷彿とさせる部屋を注意深く見渡すも、二人の姿も気配もない。部屋に入る、扉を閉める、施錠する。いずれかが条件となって建物内の別の場所に移動できるようだった。


 同じ行動を取って後を追うのは待ち伏せされるリスクがある。移動先がどこか分からない中で動くのは躊躇われた。それに、猪瀬と離れてしまえば彼女が真っ先に狙われる。


 部屋を出、猪瀬の元に駆け寄る。一部始終を見聞きしていた彼女は床にしゃがみ込んでいた。水の張った目が河野を見上げる。


「ごめんなさい」発された声は震えていた。「巻きこんでごめんなさい」

「あなたのせいじゃないです」

「私を置いていってください」

「できません」

「お願いします。もう嫌なんです。前世に縛られてまで生きていたくない」彼女の頬に涙が伝った。「終わりにしたいんです。生まれ変わりたくない。楽になりたい」


 言葉尻は細く、消えかかるようだった。

 河野はじっと彼女の目を見つめた。見えるはずのない、彼女が、が歩んできた日々を知ろうとした。

 何度この人は罪を悔いただろう。前世の記憶を取り戻した瞬間から、この人の人生はどう変わった? 過去を暴かれ、積み上げてきた信頼が崩れ、どこに感情の矛先を向けている?


「ここで死んでも辛いだけです」河野は言った。「やってもいない罪をなすりつけられて汚名を被せられるだけです。そうして生まれ変わっても、今と同じだ。過去に苛まれて罪悪感を味わい続ける。……同じてつを踏むだけです」


 死んで逃げるなんて許さない。そう叫ぶ自分がいる。

 生きて一緒に苦しんでほしい。そう願う自分もいる。

 信じたいと切に思った。かつての犯罪者、悪意を持って人を殺めた者の中にも、猪瀬のように悔いを抱え真っ当に生きようと足掻く者もいるのだと信じたい。

 信じ、報われたい。信じて良かったと思いたい。


「あなたは違う。俺も、そう思いたいんだ」


 ぽつりと言葉がこぼれた。

 どうか証明してくれないだろうか。人間の奥底にある善性を、過ちを犯しても後悔し更生できるということを。

 どうか希望を持たせてほしい。そうでもしなければ、前世の俺が報われない。

 その言葉を飲み込み、河野はじっと猪瀬を見つめた。




 *****






 高柳の言葉に猪瀬は息を呑んだ。河野が、あの事件の被害者だったなんて。

 前世の猪瀬――木田きだ秋岳あきたけも、あの事件の犯人らも、ともに被害者に性的暴行を加え殺した。けれども猪瀬は、その事件に思いを巡らせるたびに思っていた。

 あいつらに比べたら、自分はまだマシだ。

 3人で何日も輪姦したわけじゃない。暴行を楽しんだわけじゃない。目を潰しても、酒瓶で殴ってもいない。ナイフで何度も刺してもいない。わざと足の骨を折ってもいない。死ぬと分かっていながらも放置していない。

 考えては自分の罪悪感を軽くしようとした。前世でも、今世でも。


 河野へ口にした謝罪は、そう考え続けたことに対してのものでもあった。自分がひどく矮小な存在に思えた。猛烈な罪悪感が襲った。

 あなたの表情が乏しいのは、前世が原因だからですか。記憶を思い出すまでは笑えていましたか。男に生まれたことに絶望したんじゃないですか。加害者と同じ性別に生まれて、つらくなったときもあったんじゃないですか。男の自分が嫌ではないですか。

 猪瀬は嫌というほど感じていた。女性に生まれて思い知った。前世の自分が犯した行為がどれほど残酷だったのかを。そして、河野を見て突きつけられた。生まれ変わってもなお苦しむ人がいる現実を。

 自分は来世まで長く続くであろう苦痛の種を、ただ自分の欲のままに、なんの罪もない人に植えつけた。

 

 許されない。死んで償うしかない。そう思い詰めた猪瀬は、河野の目を見て動きを止めた。

 縋っているように見えた。河野が感情をあらわに映すのを初めて感じ、悟った。


 自分と同じように、この人もまた前世に囚われている。自分を――前世犯を、信じたくても信じ切れずにいる。信じたいと強く願っているのに、過去の自分が阻んでいるのだ。


 あの事件がどれほど凄絶なものだったかを知っている。無念の死を遂げた被害者が、死後どんな目に晒されたのかも。尊厳と自由を生きながら奪われ、死してなお名誉を踏みにじられた女の子が、今、姿を変えて自分の前に立っている。


 内奥に湧きあがる気持ちを感じた。

 河野を助けたい。過ちを悔い改める者がいると彼に証明したい。

 ここで生を手放してはいけない。前世の自分のためにも、自分と同じ立場の者たちのためにも、彼と同じ立場の者たちのためにも、手を掛けたあの子のためにも。

 偽善でもいい。河野が信じてくれる猪瀬志保を信じたい。やり直せるのだと自分にも河野にも言ってあげたい。に証明したい。の気持ちに応えたい。


 強い力で涙を拭き、河野と視線を合わせた。手が差し伸べられる。まっすぐに彼を見る。いつもと変わらぬ表情で、河野は言った。


「生き残りましょう。なんとしてでも」


 差し出された手を取る。しっかりと、猪瀬は自分の足で立ち上がった。



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