#86 分岐



 芳香が鼻腔をくすぐった。やわらかく甘い香り。シャンプーの匂いだと気づく。

 踏み出した先はこじんまりとした美容室だった。ローテーブルの傍らにモスグリーンの一人掛けソファが置かれている。四つある席はいずれも空席だ。


 高柳に連れられ、ホテルの部屋から出たはず。

 猪瀬は混乱しながら店内を見渡した。前に立つ高柳が手を引き、猪瀬を手近な座席に座らせた。

 大きな鏡に映る自分はまばたきを繰り返している。背後に立った高柳は控えめに微笑んだ。鏡越しに、彼女へ問う。


「ここは?」

「猪瀬さんに会って欲しい人がいるんです」


 彼女が笑うと、射しこむ陽光が反射してきらりと鏡が光った。背後から控えめな足音がし、一人の女性が鏡に写り込んだ。

 麻の白いシャツワンピースを着た女性は、ふわりと笑みを浮かべた。


「初めてのご来店ですよね」


 彼女は猪瀬の両肩に手を添えて言った。

 長い黒髪を綺麗に編み、後ろでまとめている。年齢は自分とそう変わらないだろう。

 振る舞いは自然で、猪瀬はまるで自分だけがこの状況に取り残されている気になった。

 女性は戸惑いを隠せない猪瀬を気にもせず、テーブルの脇から冊子を取りだして見せた。


「良かったらカットモデルになってもらえませんか? わたし、練習中でして。いろんな人に声をかけているんです。ほら」


 開かれた冊子はアルバムで、女性の写真がおさめられている。肩から上のアングルで撮られている数人の女性。ヘアスタイルを見せるアングルもあれば、正面からモデルの顔を映したものもある。

 モデルの顔に既視感を覚えたが、上手く思いだせなかった。いったいどこで見たのだろう。ぼんやり考えていると、「先にシャンプーしちゃいましょうか」と女性に手を取られた。


 私は、何をしようとしたんだっけ。……高柳に言われて、連続殺人を告白しようとしたんだ。それがなぜ、こんなところにいるのだろう。


 思考がクリアになる寸前で、シャンプー台に座らされた。ケープのようなものを掛けられるわけでもなく、「倒しますね」の一言で背もたれごと身体が後ろに倒れていく。

 何かがおかしい。ようやく悟った猪瀬は、小さく声を上げた。


「あの……」


 ちょっと待ってくれませんか。

 そう言って身体を起こそうとした。

 だが、身体は倒されたまま動かなかった。見えない何かに強く圧迫されているかのように、身体が自由を失っている。


「はい、これでよし」


 女性がこちらを見下ろした。その唇が三日月のような弧を描く。細められた目が、自分をじっと見つめている。




 *****





塩原しおばらさん、樋高です。至急管制室まで来てください』


 樋高が別の回線に向けて言葉を発した。神崎と国見は工事現場の前に立ち、建物全体を注意深く観察する。

 隣の敷地は更地さらちとなって瓦礫が積みあがるのみだが、こちらは骨組みがまだ残っており、くすんだ青のシートが覆うように全面にかけられている。正面の一部だけ、人ひとりが通れる幅でシートが外れている。そこから見える内部は暗く、中がどんな構造かは分からない。周囲を背の高い建物に囲まれていて、光がじゅうぶんに入っていないせいだ。


 国見は自らの端末を手にし、誰かに発信するそぶりを見せた。だが応答がなかったのか、ややあってからポケットに端末をしまった。

 猪瀬と高柳は確かにこの入口を中へ進んでいった。なのに、人の気配は消え失せている。神崎はそっと中の様子をうかがった。


『もう少しよく見せてもらえます?』


 耳元で塩原代助だいすけ医療専門官補佐の落ち着いた声がした。胸部のカメラに見えるよう、角度を調整して再び内部を見渡す。ざわざわとした落ち着かなさは感じるが、本能が「この場に脅威はない」と告げている気がした。


 シートの奥には、がらんどうの空間が広がっていた。昼間とは思えないほど仄暗く、湿った空気が充満している。

 中心に椅子があった。わずかな光が照らすそれは黒い革張りで、リクライニング機能がついている。背もたれは最大まで倒されている。

 何もない空間に置かれているその椅子は、強烈な違和感をかもしている。

 ピリオドの使用痕跡を視覚化できる塩原も同じものを感じたのだろう、静かに告げた。

 

『建物全体にピリオドの残滓ざんしがありますが、いちばん濃いのはあの椅子です』

『神崎くん、今どこにおるん?』次いで、佐久間の声がした。

「さっきの交差点を東に進んで、右手にある工事現場です」

『更地の横のとこ? 中に入った?』

「入口で国見さんと様子をうかがってます」

『おかしいなあ』佐久間が声をひそめた。『いま目の前におるけど、二人の姿見えへんで』


 そんなはずはない。

 後ろを振り向く。

 瞬間、まったく違う景色が眼前に広がっていた。

 先ほどまで視界を照らしていた陽光も、耳に飛び込んできていた車の走行音も、人の声もどこかへ立ち消えた。

 代わりに、猪瀬が経営する店「シンクレール」が目の前にあった。


「佐久間さん、聞こえますか」

 問いかけに応じる声はない。呼びかけもない。

「飛ばされたな」

 舌打ち混じりに国見がつぶやく。双眸は警戒するように周囲をうかがっている。

 

 カラン、と小気味の良い音がした。ドアベルが鳴る音だった。

「シンクレール」のドアが開く。店内から男が姿を現した。

 中肉中背で温和な表情をした中年男性。医療従事者なのか、白いスクラブを着ている。男はこちらを見、どことなくぎこちなさの残る笑みを浮かべて口を開いた。


「こんにちは、安田やすだと申します。今世では初めましてですかね。今の名前は……神崎、でしたっけ」


 男は、品定めをするようにこちらを見た。

 息を飲む。左手が、音もなく現れた刀を強く握った。






 *****






 着信履歴に国見航大こうだいの名を認め、河野は発信ボタンをタップした。すぐに自動音声に接続され、電波が入らない場所にいるか電源が入っていない旨を知らせる。

 着信からそう時間は経っていない。今日は都内に住む弟を訪ねると話していた。電波が入らない状況にいるとは考えづらい。非番にもかかわらず業務用端末から着信を残したのも気になる。

 彼の身に何か起こったのかもしれない。GPSを起動し、国見の現在位置を追った。非番時の緊急配備に備えるため、班長は各班員の居場所をGPSで追える仕様になっている。河野は就任して初めてこの機能を使った。

 オフラインになっているかと思いきや、マップはすんなりと国見の現在地を表示する。


 ピンの立てられた場所を見、河野は動きを止めた。

 彼の現在地は洋食店「シンクレール」前となっている。

 だが、河野もまた「シンクレール」の目と鼻の先を歩いていた。見回すも、国見の姿はどこにもない。

 休業中の札が掛けられた店の周りに人はいない。入口ドアには誰がやったのか、猪瀬を取り上げた記事をプリントアウトしたものが粘着性の強いテープで貼られている。敷地付近には無造作に捨てられたゴミがいくつも転がっている。

 店外を一周してみる。人の姿はない。窓から店内をのぞくも、人の姿はない。

 出入り口前に戻ってくると、鐘のがした。河野が店の前に立ったのを見はからったかのように、内側からドアが開いた。しかし、押し開く者がいるはずの場所には誰もいない。ひとりでに扉が開き、閉まる気配もない。

 店内の様子がうかがえた。警戒しつつ、近づく。



 カウンターに人がいる。背格好から猪瀬だとすぐに分かった。顔を伏せ、その表情は見えない。台に乗っているのか、河野を見下ろすように高い位置に立っていた。

 両手に何かを持っている。天井から伸びているを、猪瀬は両手で持っている。


 ――ロープ。


 察するなり、河野はサバイバルナイフを猪瀬の頭上に具現してロープを断ち切った。輪に首をかけ、踏み台を蹴ろうとした猪瀬はバランスを崩して前に倒れ込む。受け身も取らず、硬直したかのように姿勢を保持したままカウンターにくずおれた。

 駆け寄り、脈を確認する。息はあるが、姿勢は解けない。

 目は見開かれ、茫と空間を見つめている。髪は重力に逆らい、放射状に広がりを見せている。横になっていた彼女をそのまま縦にしたかのようだった。それでいて、微動だにせず首を吊ろうとした瞬間の姿勢を取り続けている。

 身体を床に横たえてやる。毛足の長いラグとブルーシートが敷かれている。カウンターの上には白い封書が置かれている。誰が彼女をこうしたのかを河野は理解した。


「初めてのご来店ですか? 少々お待ちくださいね」


 テーブル席から声がした。視線をやれば、こちらに背を向けて女が一人座っている。黒い髪を編んでひとつにまとめている。声は柔らかいが耳にすっと入る明瞭さがあった。どこか好奇の色が滲んでいるようにも感じられた。


「どうしてですか」別の声が上がる。悲痛な響きを孕んだ女性の声だった。「ちゃんと連れてきたじゃないですか」

「連れて来ただけでしょ」


 すげなく女は返す。立ち上がると前の座席に手を伸ばし、何かを掴んで引き上げた。

 姿を見せたのは高柳松子だった。二の腕を掴まれ立たせられた彼女もまた、硬直したかのように不自然な姿勢でいる。一点を見つめながらも、声は必死に女に縋る。


風間かざまさん、やめてください、もう嫌」

「痛い思いをしたくなかったら、さっさと連れてくればよかったじゃん」


 風間と呼ばれた女は楽しげに言い、抵抗を見せない高柳の頬を躊躇いなく張った。空気をはじく音が響き渡る。「痛い」と高柳は漏らしたが、目線も姿勢も動きを見せない。

 ゆっくりと振り向いた風間と、河野の視線がかち合う。


「男かあ、めんどくさいな。……ま、二人も三人も変わらないか」言い捨てると、風間は天井を仰いだ。「安田さん、場所変えてください。この前の建物がいいです」


 足元で猪瀬が身じろぎをした。河野がちらりと彼女に目をやると、ラグとブルーシートが敷かれていたその場所は、コンクリートの床に変わっていた。

 視線を戻す。高柳もまた身体の自由を取り戻したようで、張られた頬に手をやっている。

 視界がまるで変わっていた。埃くさい匂いがする。薄暗い空間、すぐそばに階段があった。踊り場の照明はちかちかと点滅している。高い位置に窓がある。間隙かんげきなく雨が打ちつけ、ざあざあという音が耳に届く。

 高柳は視線を彷徨わせている。河野はナイフを手にし、まっすぐに風間を見つめた。

 

「そのナイフ、どういうカラクリ? 気になるなぁ」


 サバイバルナイフを指し、風間はいたずらっぽく尋ねた。


「別に」河野は短く返す。「そんな大層なものじゃない」






 *****







『通信、途絶えました』

「空間転移系だね、どこかに飛ばされたかな」

 樋高の報告を受け、嶋田はガンホルダーから銃を抜いた。佐久間は松川と通信をつなぐ。

「神崎くんと国見くんが消えたわ。場所は――」

『未確認のピリオドを検知しました』


 二人のグラインが、近隣でピリオドを表出させた者の存在を告げる。佐久間は苦い顔をした。


「こんなときにタイミング悪いなあ……あっちゃん、どうする?」

 松川の判断に迷いはなかった。

『増援回す。二人は待機で。おあや、法師と櫻井ライチに連絡して』

『りょーかい』


『未確認のピリオドを検知しました』


 またグラインが音声を発した。佐久間は思わず隣の嶋田と顔を見合わせた。


『未確認のピリオドを検知しました』

『未確認のピリオドを検知しました』

『未確認のピリオドを検知しました』



『は? 江東区東陽でピリオド反応多数……10、20……どんどん増えてるんですけど』

 中谷なかたに綾管制担当が困惑の声を上げた。松川がすかさず指示を飛ばす。

『近隣に緊急警報を発報、中隊全員にコール。樋高ラスカル、増援頼める?』

『すぐ手配します』


 慌ただしく通信が飛び交う合間にも、表出を告げる通知は止まない。


「ゾンビ映画にこういうシーンありそうですよねえ」

「そうやなあ」


 何がなんやらといったふうに嶋田は苦笑した。ハンドガンに込められていた弾を、すばやく減退弾と入れ替える。

 きゃあ、と甲高い悲鳴が耳に入った。佐久間に目配せをし、声のした方へ駆ける。パンツスーツの女性が日傘を振るっている。その先端は尖り、鋭利な刃物と化していた。逃げ惑う人々の背に向かって女性は日傘を振りかぶった。服が裂ける音がし、スーツを着た男性が転ぶ。


「はい、ストップストップ」


 嶋田は女性に向け、右手の指を打ち鳴らす。すると彼女はぴたりと動きを止め、勢いよく嶋田の方へ首を向けた。

 左手で構えた銃で照準を合わせ、引き金を引く。減退弾を受けた女性は倒れ、日傘は元の姿を取り戻した。


 発砲した嶋田に驚き、人垣が揺れる。

 金属がきしむ音がし、頭上を見上げた。道路標識が支柱を外れ、落ちてくる。

 グラインを起動して避け、今度は標識の根元付近に佇んでいる老爺に照準を合わせる。


「まったく、いったい何がどうなっちまってるんだ?」


 海外ドラマのセリフじみた独り言をこぼしつつ、また引き金を引いた。

 視界の外れで、佐久間もまたピリオドを発動させていた。

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