#84 憎悪

 翌日も松川班は高柳松子の行方を追った。神崎も佐久間・嶋田と行動したものの、それらしき人物は見つからず、収穫のないまま笹岡班に引き継いで本部棟に戻った。

 事務仕事に取りかかる前に休憩スペースに足を向ける。廊下の隅にいくつかの自販機とソファとテーブルセット、モニターが設置されているだけの場だが居心地は悪くない。

 廊下からすぐ目につく自販機でカップ入りのアイスコーヒーを購入した。戻ろうときびすを返したとき、視界の右端でこちらに手を振る者がいるのに気づいた。そっと会釈し、近づく。


「いま戻り? クッキーあげるよ。ここ座りな」

「ありがとうございます、いただきます」


 四人用の丸テーブルについていた木島きじま飛鳥あすか1級隊員は正面を指ししめした。テーブルと同じく木目調で曲線が特徴的な椅子を引き、腰かける。テーブルの上には見慣れたパッケージのクッキーの箱と、これまた見慣れたパッケージの炭酸飲料のボトルがあった。

 彼女はやや身を乗りだして個包装のクッキーを数枚寄越よこした。動くとゆるくパーマのかかった髪が揺れる。左側の髪を耳にかけて流しており、あらわになっている耳には蝶をモチーフにしたイヤーカフがつけられている。大ぶりなそれは彼女のエキゾチックな顔立ちを引き立てていた。服装さえ違っていれば大企業でバリバリと働くキャリアウーマンに見えることだろう。

 礼を言って受けとり、さっそく個包装を破る。木島も新しい1枚を手に取り、開けた。


「まだ見つかってない感じ?」

「はい、いま引き継いできたところです。崎森班そちらはどうですか」

「サボりたがりが休みだから、いつもよりやりやすい」

 木島はそう言っていたずらっぽく笑った。中村が有給を取っていることを思い出し、笑みがこぼれる。

「買い物に付き合わされるって言ってました」

「まあねー。普段はほったらかしだろうし、今日くらいはさ」


 豪快に音を立ててクッキーを咀嚼しだした木島だったが、不意にその目が壁に設置されているモニターに移った。つられるように見ると、猪瀬を取りあげた記事がピックアップニュースとして並んでいた。


「話題になってるね」新たな袋に手をかけ、木島は言う。「ネットでも炎上してるみたいだし。今の彼女への解像度が低いからかな、知らない人からしたら元極悪人が良い人キャンペーンしてるようにしか見えないんだろうね。だからいくらでも残酷な物言いができる」

「それは感じました。今は普通の人に見えます。事件にも関わってないと思う」

「やってないって信じるんだ?」

「木島さんはそう思わないんですか」

「信じるのは味方のすることでしょ。で、疑うのは警察の仕事。うちらは中立でないとね」

 そう言って彼女は手近にあったボトルを引き寄せ、キャップを開けた。ぷしゅ、と炭酸が漏れる音が響く。

 喉を鳴らして炭酸を飲む彼女を見る。安直に信じるなと釘を刺された気がして、開きかけた口を閉じた。

 猪瀬がただ善人だというだけで、本当にかかわりがないと信じていいか。かつて人をあやめた彼女がまた凶行に走らないとどうして言えるのか。

 問いが重なり、腕を組み視線を下にやって考えこむ。木島は背もたれに背をあずけ、大きく伸びをした。


「前世の罪はどこまで糾弾きゅうだんされるべきなんだろうね。河野くんはどう思う?」


 その名を聞き、ふっと顔を上げる。自販機スペースに河野が立っていた。今まさに自販機に手を触れようとしているところだったようだ。名を呼ばれはしても彼の視線は自販機から外れない。静かな声が返ってくる。


「なんの話です」

「前世犯だけど今は良い人に、前世の罪について非難するのは正しいのだろうかって話。クッキーあげるからおいでよ」

 笑みを浮かべて手招きする木島を一瞥し、河野は軽くため息をついた。しかしジュース缶片手にこちらに近寄り、同じテーブルについた。木島の差し出すクッキーを「どうも」と受け取る。


 桃の写真がデザインされた清涼飲料水のプルタブを起こしつつ彼は話した。


「今が真人間だからといって、前世でのあやまちがチャラにはならないでしょう」

「じゃ、前世犯が非難されるのは当然、って考えなんだね」

「意地悪な言いかたしますね。警戒されるのは致し方ないってだけです」

「でもさ、今は別人だよ? 中身は一緒だけど、身を置く環境は違う。名前も顔も、性別も違うかも」

「別人だから警戒するなと言うほうが無理な話です。前世犯彼らがまた道を踏み外さないようにするのが俺たちの役目でしょうけど。……前世がある以上、人類全員平等にはいきません。知識や素質に歴然な差が出て、前世差別だってある。是正するのに試行錯誤している過渡期でしょう、今は。数十年後は前世犯の扱いだってどうなるか。遡臓検査がなくなる可能性もある」

「まあ、そうだよねえ」木島は頷いてみせ、こちらを見た。

「神崎はどう思う? 人生一回目として、前世犯ってどう見える? 怖い? 信用できない?」


 二人分の視線を受ける。慎重に言葉を選んだ。


「分かりません。熊岡みたいに『前世で上手くいかなかったから今度こそ』って思っている前世犯には腹が立つけど、仮に猪瀬さんが犯人そうだとしても同じ感情になるかどうか。……犯した罪にもよります。殺人でも、殺意があって殺したなら責められるべきでしょうけど、結果として殺してしまったとか、誰かのためにやったとか、本人に殺してくれと頼まれた、とか……単に罪状だけでその人を見るのも軽率かもしれない。それに、環境も一つの要因になりますよね。前世は環境のせいで罪を犯してしまっても、今世でまったく違う環境に身を置いて分かることもある。……だから、結局はその人しだい、としか」


 脳裏に国見がちらついた。

 父親から暴行を受けていた前世を持つ彼。幼くして亡くなった彼がもし成人まで生きていて、暴力に耐えかねて父親を殺したらどうだろう。彼は殺人のとがを負い、生まれ変われば前世犯として生きる。

 だがもしそうであっても、彼を糾弾するのは違うと感じる自分も否めない。


 自分なりに熟慮して答えたつもりだった。木島は「へえ」と短く相槌を打った。河野は缶ジュースに視線を落としたまま言った。


「環境は理由にならない。止める人がいなくとも、人を殺しても仕方がないほど追い詰められていても、人を殺しちゃいけないのは自明のこと。被害者側は納得できない」

 そっと彼の方を見やる。彼は読めない表情のまま、平坦な口調で続けた。

「元犯罪者が身近にいたら警戒するのは仕方ない。それだけのことをしたんだから。前世の過ちは自己責任だと思うけど」

「遡臓が確認される前に罪を犯した人にとっては酷じゃないですか。思い出せば最後、自分の前世に苦しめられる一生になる」

「生まれ変わると知っていたら踏みとどまったかもしれないって言いたいの? そんな仮定の話は興味ないんだけど」


 にべもない態度で言い切られ、言葉に窮する。河野は頬杖をつき、こちらをじっと見た。


「不公平だと思わないか? 他人の命を奪っても、死ねば姿かたちを変えてやり直せるなんて。生まれ変わった被害者が殺された記憶を思い出そうものなら、時を経てまた加害者に傷つけられる。トラウマになれば再び人生そのものを狂わされる。それなのに、生まれ変わった加害者が『今は改心している』と言ったところで、被害者や遺族はどう思う? 法で裁かれても悲しみなんて癒えやしないのに、加害者が生まれ変わってきたらどう感じる?」

「……」

「俺は」河野はゆっくりとした口調で告げた。「俺は、誘拐されて殺された」


 はっと息を飲む。動揺が顔に出たのが自分でも分かった。けれども河野は気にもせず、表情を変えずに続けた。


「面識のない男たちになぶられて殺された。たまたま目をつけられたのに、ネット記事じゃ俺がついていったように書きたてられた。誹謗中傷を苦にした母親は飛び降り自殺した。俺が死んで半年も経たないうちに」


 ふっと視線が外れた。頬杖をついたまま、河野は右の手のひらをゆるく開いた。アイスピックが現れ、消え、サバイバルナイフが現れ、消える。


「今でも許せない。あいつらが生まれ変わったら殺してやりたい。あいつらがいなければ死ぬこともなかったし、今こうしてピリオドを出すこともなかった。前世の記憶に苦しめられなかっただろうし、男であることに嫌悪感を抱かずにも済んだはずだ。……加害者がどんな環境で育ったかなんてどうでもいい、ただ憎い」


 ぱし、と小気味のよい音を立て、具現したサバイバルナイフが河野の手中で回る。


「生まれ変わった母親にいつか会えるかもしれないと思ったからICTOここに入った」逆手さかてに持ったその切っ先が天板を向く。「遡臓を破壊したら二度と生まれ変われないと聞いて、だったらこの苦しみを抱えたままで、会える可能性に賭けると決めた。ただ、異能犯罪者を見るたび考える。母親がなっていたら、って。そのたびにまたあいつらを憎む。何年経っても許せないのをやめられないんだ。……彼女だって」

 音もなくナイフが消える。

「前世のストーカー殺人犯と同じ思考でいるとは思わない。環境に恵まれて真っ当に生きて価値観も変わっている。前世を悔いてもいる。その生き方を侵害するのは許されないとも頭では思ってる。けど、善人であろうと嘘はつける。人を殺しておいて今さら何だ、とも思う。世間が彼女を攻撃するのを浅はかだと思いながら、彼女に対して『ざまあみろ』って思う自分も確かにいるんだよ。……信じようと思っても、心のどこかでブレーキがかかる。本当に信じていいのか、彼女は信じるに足りる人間か、って」


 淡々と語り、河野は木島に向かって小さく肩をすくめてみせた。「隊員失格ですかね」

「分かんなーい」木島は軽く返した。「理想の隊員像が何たるかを知らないもん。それに、信じるのが必ずしも良いとは限らないじゃん。信じたとたんに目に見えなくなるものもあるでしょ」

「確かにそうですけど」

「河野くんが信じたくなくても、彼女が河野くんを信じて何かを託すかもしれないし。そのときに私情を挟まなければいいんじゃない?」

「そういうものですか」

「さあ。いま適当に言った」

 ふっ、と河野は笑んだ。「中村さんみたいなこと言いますね」

「じゃあそのうち書類もやっつけでやるようになるかな。揃って崎森くんに怒られちゃう?」

「よしてください、木島さんは書類キッチリしてて助かるって言ってたんですから」

「あ、やっぱり中村くんは書類もテキトーなんだ?」

「さあ。『玉池のほうが8億倍ちゃんとしてる』ってぼやいてはいましたけど」


 缶とクッキーを手にし、おもむろに河野は立ち上がった。「戻ります。お邪魔しました」 

 木島は手を振って見送った。何をどう発すればいいか分からず、神崎はただ会釈をして彼を見送った。


 許せないのをやめられない。


 その言葉がいやに耳に残った。河野の身の上と今の境遇に考えを巡らせ、自分の発言の浅さを知らしめられる思いだった。

 自分の前世がもし、志賀新助だとしたら。殺めてきた人々やその遺族たちはどれほど自分を憎んでいるだろう。その憎悪が向けられてもなお、今の生活を続けられるだろうか。

 去来する思いはとどまることを知らず、だが木島は茶化すでも心配するでもなく、また新しいクッキーの袋を破りにかかった。がさがさという音だけが空間に響く。






 *****





 盗聴器が仕掛けられていたらと思い、いよいよ自分は参っていると猪瀬は感じた。

 夜が明ける前に覚醒し、ざわつく胸を押さえながら端末で検索を続けた。自宅が特定されていると知り、最低限のものだけを持ってまだ暗いうちに家を出た。

 行ったこともない地に逃げようかとも思ったが、逃げているようで気が咎めた。結局、近場のビジネスホテルに入った。自宅では神経がたかぶってよく眠れなかったが、ホテルのベッドで一息つくと数時間は深く眠ることができた。

 取引先や友人からの連絡はまだ続いている。あまり良い内容ではない。中には商品を卸すのを取りやめると匂わせている企業もある。アルバイトの親からは説明を求める連絡も来ている。返信しなければいけないのに、億劫で仕方なかった。説明しても、なぜ隠していたのかと糾弾されることだろう。


 前世がストーカー殺人犯だと伝えていたら、娘を働かせましたか?

 喉元までこみ上げる気持ちを飲みくだす。開き直りだと分かっている。けれども止められない。

 言ったら差別するでしょう、だから黙っていたんです。それのどこが悪いんですか? 今は前科なんてありません。過去の話なんです。悪いのって私ですか?

 誰にも言えない思いが巡る。過去を悔いているのに、過去に足を引かれると嫌になる。醜い自分が顔を出し、被害者のふりをする。

 深いため息をついた。何より、こんなことを考えてしまう自分が嫌になる。


 そのとき、小さく部屋のドアがノックされる音がした。反射的にベッドから飛び起きる。

 ルームサービスを頼んだ覚えはない。家からここまでを尾けられていたのかとも思ったが、背後に気配は感じず、誰の顔も浮かばなかったはずだ。

 恐る恐るドアスコープを覗く。立っていた人物を見て、猪瀬は目を見開いた。


「あれ、いないのかな」

 高柳松子が首を傾げながらドアをノックしている。

 どうしてここが、という驚愕と、やはりどこかで監視されているのだという恐怖がないぜになる。

「猪瀬さん、猪瀬志保さん、いらっしゃいますかー?」


 応じないと見るなり、彼女は大きめの声で名を呼んだ。

 騒がれたらたまらない。急いでロックを外してドアを開けた。こちらの顔を見るなり彼女はにこりと微笑み、さも当然かのように部屋に足を踏みいれた。かすかな苛立ちを覚えつつも廊下で騒がれるよりはマシだと思いドアを閉める。


「もう、いるなら返事してくださいよ」

「どうしてここが分かったんですか、尾行してましたか」

「まさか。ストーカーなんてしませんよ。じゃないんだから」

 笑み混じりに前世の名を呼ばれ、頭に血がのぼるのを感じた。

「どうして私の言っていないことまで記事にするんですか!? 私、あなたに何かしましたか? あんな風に書かれると思ったら取材に協力なんてしなかった、なんで私しか知らないことを」

「言ったじゃないですか、私、見えるんです。その人がした悪いこと」

「だからって、書いていいなんて言ってない! あの記事のせいでお店はいま」

「知ってます。でも、本当に通いたかったら店主の前世がどうあろうとお客さんは通ってくれるんじゃないですか?」


 高柳はペースを乱さない。メタルフレームの眼鏡の奥の目が細められる。悪びれもしないその態度は猪瀬を刺激するには十分だった。腹の中心が怒りに震え、声に伝播する。


「あの記事の……あなたのせいで、私は……」

「私のせい?」心外だとばかりに高柳は目を丸くした。「悪いのって、私ですか?」


 まじまじと見つめられ、継ぐ言葉を失う。


「いつかバレるかもって一度も思わなかったわけ、ないですよね。タイミングがたまたま今になっただけで。なんの対策もしてこなかった手落ちを私に押しつけられても困ります。それに、そもそも猪瀬さんが前世で人を殺さなければ済んだ話ですよね? 生まれ変わっただけで万々歳でしょう、幸せな人生を送れると思ってました? 前世犯のくせに? それ、見通しが甘すぎません? やっぱり服役した期間が長いと認識も世間ズレしちゃうのかなあ」


 押し寄せていたはずの怒りが鳴りを潜める。自分が思い悩んでいたことをずばりと言われ、呆然とする。

 幸せを享受して良いのかと後ろめたかった。正直に話したらどうなるかと悩んでいた。それを、赤の他人にこうも明け透けに指摘されると、浸潤していた罪悪感がその量を増し、全身を覆っていく。

 高柳はなおも続けた。


「私はただ事実を書いただけでしょう。それを読んでどう判断するかは読者次第です。勝手に記事にするのが悪いですか? その過去、隠していて周囲にメリットあります? 正直に言ってくれたほうが付き合い方を選べるのに。騙しているようなものでしょう」


 言葉が刃となって突き刺さる。刺さるたび、どろりと胸のうちから感情が零れだす。


「お店の常連さんにいますよ、娘を強姦されて殺されたお父さん。……もちろん、前世の話ですけど。その人、あなたをどんな目で見るかなあ?」


 ブラフに違いないという思いとは逆に、脳は常連たちの顔を映しだしていく。

 誰も何も言わなかった。いや、私と同じように言いだせなかっただけだ。思い出していて、忘れようと努めていたのかもしれない。心安らげる生活を送っていたのに、通い慣れた店の主が前世犯だと知ったら。


「騙されたと思うでしょうね。憎しみも沸くかもしれない。前世を思い出して辛い思いをするかも。でもそれって、猪瀬さんが正直に公表していれば防げましたよね。前世犯の営む店に近づくこともなかったでしょう。……他にもいると思いますよ。あなたが関わってきた人の中に、たくさん。ストーカー被害、殺人、その遺族、関係者、どれかは知らないですけど。すごいですね、なんて」


 生きているだけで、存在するだけで、私は誰かを傷つける。

 死んで償ってほしいと感じた関係者がどれだけいるか、死んでも許さないと思う遺族がどれだけいるか、犯人が生まれ変わったら殺してやると思い生きている被害者がどれだけいるか。

 思いだしたときからうすうす理解していた。ただ、蓋をして見なかったことにしていた。


「ダメですよ、被害者面なんてしちゃ。被害者の方々はあなたが味わっているのとは比較にならない苦痛を体験したんですから。……あなた次第では、これからも断続的に体験せざるをえないかもしれないですけどね。思い出すから」


 名前も、過去も暴かれた。これから先、前世犯の事実は一生をついてまわる。出会う人々の前世はどうだったかを考え、言いきれぬ罪悪感を覚えながら生きていかないといけない。たとえ記事が風化したとしても、思うことはやめられない。

 この人が、前世で犯罪被害に遭っていたら私をどう思うだろう、と。


 この先の途方もなく長い人生を思い、ふっと気持ちが途切れるのを感じた。ここでリタイアしたい。なかったことにしたい。どうせ生まれ変われるのなら、ここでリセットしてもいいじゃないか。分かってくれる。前世犯だと見られるのを苦にしたのをみんな分かってくれる。


「……もう、いや」


 力のない声が口から漏れた。本心からだった。記憶を思い出してからこれまで、辛かった。それ以上の苦悩がこの先に待っているとしたら、自分は耐えられそうにない。張っていた虚勢の糸が、ぷつりと切れてしまった。


「罪の意識に耐えきれなくなりました?」

 高柳の視線から逃れ、下を向く。

 彼女は一転して口調をやわらげた。「もう、生きているのはつらい?」

 こくりと頷く。これまでのことが思い返され、目に膜が張る。

 ただ、普通に生きていたいだけだったのに。前世さえなければ、思い出さなければ、ずっと幸せでいられたのに。だが、思い出してしまった以上、もう戻れない。ごまかせもしない。


「お辛かったでしょう、誰にも言わずに一人で抱えこむのは。きついことを言いましたが、私は猪瀬さんが悪い人だとは思いませんよ。ただ前世で衝動的に人を殺してしまっただけ。きちんと悔いているからこそ、子どもたちの支援をしようと思ったのでしょう。人のために何かしようと思えるかたですものね」


 諭すような口調に、手で顔を覆った。高柳へのマイナスな感情が吹き飛び、縋りたい気持ちが沸きあがる。小さく、何度も頷く。

 分かってほしい。同情してほしい。悪くないと言ってほしい。味方になってほしい。押し込めてきた感情があふれる。


「大丈夫、人間は生まれ変われるんですから。ここで終わらせるのも、責められることじゃないです。悪いのは前世のあなたと、今のあなたをバッシングする人たちなんですから。……そうだ、どうせなら最後にもう一つだけ、みんなのために良いことをしましょうよ」


 涙を拭い、ぼやける視界で高柳を見た。彼女は慈愛に満ちた目でこちらを見ている。


「若い女性が何人も殺されている事件、あるでしょう。自分がやったと公表しましょう。遺書を残して旅立ってもいい。そうすれば事件は解決します」

「……私、やってません」

「分かってます。犯人を泳がせるんですよ。警察はきっと猪瀬さんが犯人とは思いません。きっと水面下で捜査を続けます。なんなら、私が知り合いの刑事さんにそう進言してもいい。でも世間の人々は一件落着だと安心して、いつも通りの日常に戻る。世間の気が緩んだときに次の犯行をしようと真犯人は動くでしょうから、そこを警察が捕まえるんです。真犯人が捕まったら、私が真実をすべて報道します。約束します。猪瀬さんの汚名はそそがれて、みんなハッピーエンドです」


 うまくいくだろうか、という気持ちよりも、いまさらどうなってもいい、という気持ちがまさった。

 どうせ何をしても誰かに恨まれるのならば、少しでも役に立って死にたいとも思った。細かいことに頭を巡らせる余裕は、頭にも心にも残っていなかった。

 首を縦に振った。高柳は口を三日月にして笑った。


「素晴らしい勇気です。尊敬します。……行きましょう、あとは任せてください」


 手を引かれる。ドアが開く。部屋を出る。

 一歩踏み出すと、まったく違う景色が広がっていた。

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