#80 襲来


「カン太郎はどう? あの人、信頼できると思う?」

「信じたい、とは思ってる」


 隣を歩く門脇は「そっかあ」と零した。

 彼女と神崎との合間に陣取って歩くボーダーコリーは人懐こい性格で、神崎の足に頭を擦りつけて甘えるそぶりを見せた。手を伸ばして撫でてやればふわふわの毛の感触が手に伝わる。

 足に毛がいっさい付着していないのを見、ボーダーコリーが門脇のピリオドによって具現化された存在だと自覚する。あまりに自然すぎて、実在の犬だと脳が勘違いをしてしまう。

 むやみやたらとピリオドを表出するのは推奨されていないが、門脇はピリオドを出すとしばしば解くことを忘れる。神崎も犬は好きなほうなので、しれっと気づかないふりをしている。


 昨晩、河野と猪瀬は長い時間を二人だけで話していた。ほとんど猪瀬が話し、河野は短く返答しているように見えた。会話の詳細は分からない。落ち着くまでは監視の目があるが気にしないように、という説明がなされたのは確かだろう。

 話を終えた猪瀬を自宅付近まで小平と神崎で送り届けた。念には念を入れ、仁科にしな隊員にも同乗してもらい、周囲には人払いを施した。猪瀬とICTOが接触したことを知る者はいないはずだ。たとえ、沖野の言っていた辣腕らつわんの記者であろうとも。


「ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」

 車を降りる際、猪瀬は深々と頭を下げてからマンションに入っていった。

「話したんでしょうねえ、自分の前世。どこか吹っ切れた顔してました」

 車を発進させると、助手席の小平が言った。サイドミラーを確認しながら神崎は応じる。

「どんな気持ちでいるんでしょう、今」

「人によりますよね」仁科の高い声が背後から届く。「普通の人生ならまだしも、加害者側とあれば居心地の悪さは感じるかもしれません」

「なんとなく、その気持ちは分かるかも」

 ぽつりと神崎は答えた。小平はそこで横にいる後輩が大量殺人犯の前世を有するかもしれないということを思い出したのか、「別に、前世が悪いから今世も悪い、ってことはないと思いますよ」と言い含めるように優しい声をかけてきた。



「いい人に見えるけどね、私にも」

 門脇が明るく言う。「何かの方法で犯人に前世を知られて、上手く容疑者位置に入れられてるだけ、とかさ。ありそうじゃん」

「だったらいいけど」神崎も同意する。「これ以上被害が増えなければいい」

「だねえ。そのためにもキリキリ働きましょ。……失礼しまぁす」


 揃って執務室に足を踏みいれる。門脇に指導されつつ作成した書類を、須賀に確認してもらう必要があった。


「お疲れさま」


 椅子に背を預け、松川がひらひら手を振って迎えた。笹岡班の吉岡よしおか玲那れいな管制担当と絹川が傍らに立ち、タブレット片手に何やら話をしている。奥の席では崎森が身体を小さく前後に揺らしながら画面に向かっている。須賀の姿は見えない。門脇が室内を見渡す。


「班長出ちゃってます?」

「面談中だよ」 吉岡が奥に続くドアを指した。「沼田ぬまたさんと」

「沼田さん来てるんですか?」


 門脇が明るい声を上げると、足元のボーダーコリーもくるくる回った。

 初めて聞く名に誰のことかと思っていると、察した絹川が補足する。


「神崎くんは初めましてだよね。管理班の方で、そろそろ育休から復帰予定」

「そうなんだ、教えてくれてありがと」

「息子さんは? パートナーさんに預けてきたんですか?」


 門脇の問いに、松川が崎森を指差した。「ゴウちゃんなら、そこ」

 聞くなり門脇は崎森のデスクそばまで歩いていく。ボーダーコリーが「ぼさっとしてないでお前も続け」とばかりに足に頭を擦りつけるので、神崎も続いた。


 入室時には画面で見えなかったが、崎森が腕に幼児を抱いていた。

 月齢は1歳くらいに見受けられる。紺地に花火を模した刺繍がなされた甚平を着、両手で小ぶりのテディベアをしっかりと抱えている。こちらの視線に気づくと、不審がるようにぎゅうとテディベアを抱きしめた。

 門脇が「かわいい」と高い声を上げる。


「崎森さん貧乏ゆすりデカすぎでしょって思ってたんですよ。抱っこしてたんですね。ゴウちゃん久しぶり、お姉ちゃんのこと覚えてる?」


 大きく両手を振る門脇を、ゴウと呼ばれた男児はぽかんとした目で見つめている。神崎も控えめに片手を振ってみる。変わらず、ぽかんとした顔をされた。

 彼は神崎らよりも門脇の足元に座っているボーダーコリーに目をつけ、「わんわん!」と指を差した。だが好奇心よりも恐怖心が押し寄せたのか、しばし見たのちに「こわい」と言い、顔をゆがめる。


「驚かせちゃった? ごめんね」


 慌てて門脇がピリオドを解き、ボーダーコリーが瞬く間に消える。ゴウは眉間に皺をよせたまま、崎森の二の腕を強く引いた。

 崎森は「はいはい」と脇の下に手を差し込んで抱え直す。ゴウも崎森の首にすがるように抱き着く。抱き方や、安心させるように背をぽんぽんと叩くさまは手慣れているふうに見えた。


 絹川が時計を振り仰いで言った。

「面談、しばらくかかると思う。急ぎじゃなければ後でもいいんじゃない?」

「どうする?」門脇に問うも、彼女の返答は松川の声に遮られる。

「ねえカンカン聞いてよ! 昨日本部に行ったら井沢さんと遭遇してさあ」

「あー……それはそれは」

 災難でしたね、という言葉はかろうじて飲み込む。

「みっちり5分嫌味言われてさあ、もう最悪。『名前は忘れたが白い刀を操る曲者のバカ真面目な新入隊員はどうだ、生意気な口を私に利いた以上は目覚ましく日々成長しているに違いないと思うが』って聞かれて」

 口調を真似する松川に門脇が声を上げて笑う。「そこまで覚えてるなら絶対名前も覚えてるでしょ」

「でっしょー? だから『やだ、そんなに日が経ってないのに忘れるなんて頭の検査したほうがいいんじゃないですか? カンカンなら日夜頑張ってますけど』って言っといたから」

「ありがとうございます……」

「気にかけてもらってるみたいだから頑張ってね」


 できれば自分の存在は忘れていてほしかった、とは言えず曖昧に笑う。

 神崎の複雑な心境を知るよしもない松川は、崎森に顔を向けた。


「ねー法師、しかもさあ、射撃練習して帰ろうとしたらセブンと秀吉ひでよしが相手だった。こっちが外すたびにさんっざん煽られたんだよ、ほんと性格悪いよね。先輩としてなんか言ってやってよ」

「自分で言え」

「私が言うと負け惜しみにしか聞こえないじゃん。射撃負けちゃったし」

「勝って煽り返せばいいだろ」

「簡単にできたら苦労しないんだってば! あー、思い出すだけでムカつく」

 怒りがぶり返してきたのか、松川は頬を膨らませる。絹川が「まあまあ」と仲裁に入る。

七重ななえさんと羽柴はしばさんが煽るのは今に始まったことじゃないですし、あまりムキにならなくても」

「セブンと秀吉って、その二人か」門脇が合点の行った表情をして頷く。「井沢さんの下にいる人って変な人多くないですか?」

 吉岡が苦笑しつつ指摘した。「みやこちゃん、崎森くんも井沢さんの部下だったの忘れてるでしょ」

「あ、やば。嘘です、撤回しまーす!」


 女性陣が声を上げて笑った。と、静かだったゴウの背がびくんと反応し、再び機嫌の悪そうな声が上がる。崎森は呆れたような視線を彼女らに投げかけた。


「うるさくて寝れねーってよ」

「ごめんごめん」松川が手を合わせ詫びる。

 崎森は嘆息し、立ち上がって窓際に寄り、ゴウに外の景色を見せてやった。背をリズムよく叩かれるうちに眠たくなったのか、ゴウが片手で持っていたテディベアが床に落ちる。


「じゃあ、俺らはあとでまた来ることにします」

「そうだね。訓練場行く? 今なら中倉さんか三澤さんいるかも」

「私も管制室に戻ろっかな」


 吉岡も加わり、三人で執務室を出た。ひらひらと手を振る松川と絹川に会釈をする。崎森が屈んでテディベアを拾っているのが見えた。

 

「ゴウくん、人見知りしない子ですね。慣れない場所に来て家族以外の人に抱かれても、わりと大人しかった」

 率直に感想を告げると、吉岡は笑って首を振る。

「それがね、私と絹が行く前に松川が抱っこしてたらしいんだけど、ギャン泣きだったんだって。崎森くんにバトンタッチしたら大人しくなったの」

「手慣れた感じでしたね。崎森さん、お子さんいるんでしたっけ」

「いないよ、独身だもん」

「親戚の子で慣れてるんだぁ」 門脇が頷きながら言う。

「それもあるだろうけど」

 語尾がやや濁った言い方に、吉岡をちらりと見る。彼女はさりげなく続けた。

「良いパパだったみたいだよ。は」





 *****





 洗面台の鏡に映る顔は、目元にクマができていた。

 コンシーラーで隠れるだろうか、と思いつつ顔を洗う。冷たい水が眠気を覚ますことを期待したが、大した効果はなかった。フェイスタオルでこするように水気を拭う。

 昨晩はよく眠れなかった。河野にすべてを明かしたことから来る妙な興奮、後悔、不安。感情がさざ波のように押し寄せては引いていき、うつらうつらとしか眠れなかった。眠ってしまえば悪い夢を見る気がして、あの日手をかけた女性の顔が出てくるのではないかと怖くもあった。


 もしも、生まれ変わった彼女が、今、生きていたら。

 顔を思い出すたびに考える。すでに顔見知りになっている誰かの中に、生まれ変わった彼女がいたら。すべてを思い出し、猪瀬志保と木田きだ秋岳あきたけが同一人物だと知っていたら。

 自分だったら、きっと殺しに行く。のうのうと生まれ変わり、別人としての生を謳歌する姿を見るのは耐えられない。まったく違う人生を歩み、まったく違う価値観を持っていたとしても許せない。

 自分の内奥に潜む「悪」が増殖して、善性を覆い尽くしてしまう日が来るのではないかと怖くてたまらない。前世の自分が抱いていた歪な感情が今の自分を支配してゆくのではないか。考えただけで恐ろしい。自分が自分でなくなってしまう気がする。


 寝間着から着替え、化粧を始める。気持ちを落ち着けるためにいつもよりじっくりと、丁寧に。

 コンシーラーを目元に叩き込む。薄れていくクマを鏡越しに見つめながら、ゆうべの河野の姿を思い返した。

 自分の話が終わったあと、彼はずいぶん長いこと押し黙っていた。醸す雰囲気は平時と変わらなかったが、声をかけるのは躊躇われた。しばらくのち、彼はこちらの視線に気づいて「すみません」と詫びた。


「いえ、こちらこそ。重い話をしてすみません」

「気にしないでください。職業柄、慣れてますから」


 平坦な口調で彼は言った。

 彼の所属する組織は、前世で罪を犯した者の研究や追尾調査を行っている。自分よりも凶悪な過去を持つ人間と相対したことがあるのかもしれない。

 分かってはいても、その他大勢の見知らぬ元犯罪者と同じくくりに自分も入っているのかと思うと、やめてくれとも思った。

 私は違う。そう叫びたくなった。


「河野さんは……河野さん自身は」

「はい」

「私が今回の事件に加担しているとお思いですか」

「思ってません」

 即座に彼は答えた。その言葉に深く安堵した。だが、河野は「ただ」と続けた。

「自発的には関わってないというだけで、脅迫や何かしらの圧力で加担せざるをえない状況にあったり、知らないうちに片棒を担がされていたりする可能性は否定できません。状況証拠や犯行の範囲にしても、不自然なくらいあなたと結びつく。あなたが誰かから恨まれていて罠にはめられているだとか、犯人にとって罪をなすりつけやすい位置にあなたがいるというのも想定できます」

「そう、ですか」

「いずれにしても、犯人が捕まるまではある程度ご協力いただくようになります。負担を強いることになって恐縮ですが、ご協力いただければ幸いです」

 小さく頭を下げる彼に、猪瀬は頷くほかなかった。

「平気です。……お嫌でなければ、またお店に来てください。河野さんのファンになった子がいるんです。喜ぶと思います」

「ええ、時間を見つけて行きます。遅い時間にありがとうございました。帰りは送ります」


 ブランコから立ち上がると、彼はベンチに戻り、置いていたイヤホンを装着して何事か指示した。

 彼が送ってくれるものだと思って話題を探そうとしていたが、公園入口に寄せられた車には、自分たちの後方で見張り役をしていた二人と、初めて見る顔の女児がいた。


 ――この車に乗ったら、どこか知らない場所に連れていかれて、殺されるんじゃ。


 一瞬、不穏な想像が頭をかすめるも、振り払って乗りこんだ。

 外に立つ河野に会釈をしようとし、思いとどまって手を振った。笑顔を心がけた。

 彼は表情を変えず、小さく会釈を返した。

 車が発進してから、ふと気づいた。

 出会ってから今まで、自分は彼の笑顔を見たことが無い。


 薄くリップを引いて化粧が終わる。鏡には普段通りの自分が映っている。口角を上げる。うまく上がらなくて、両手の人差し指で唇の端を引き上げる。ミストスプレーをいつもより多めに顔に吹きかけ、鞄を持って部屋を出た。

 エレベーターで1階に降り、廊下に出てすぐ、右から人が飛び出してきた。ぶつかりそうになるが、ぎりぎりのところで身を躱す。


「すみません」

 反射的に謝る。飛び出してきた者の顔を見、動きが止まる。

「いえ、こちらこそ。……あれ、猪瀬さんじゃないですか」

 銀色のフレーム越しに細められた目。ひとつに括られた、肩までの黒髪。

 高柳たかやなぎが、人懐こい笑顔を浮かべてこちらを見ていた。

「……どうも」

「奇遇ですね! ここ、私の知人も住んでいるんです。昨日は泊めてもらっちゃって。これから出勤ですか?」

「はい」

「じゃあ私もご一緒していいですか? お店の料理がすっごく美味しかったので、今日も行こうかなぁと」

「ええ、もちろん」


 平然と高柳は隣に立って歩き出した。

 アスファルトに照りつける陽光が眩しい。熱気をまとった空気が二人を包む。

 暑いはずなのに、猪瀬は急激に寒気を感じた。

 漠然としていた不安が、形を成して襲いかかる。


 知人がいるなんて嘘に違いない。どこかで私の住所を知ったに違いない。どうやって? 河野が教えた? 違う、彼はそんなことはしない。車で送り届けてもらった際、周囲に不審な車はなかった。

 口内がからからに渇いていた。唾液を飲みこみ、静かに問う。


「自意識過剰だったらごめんなさい。私のこと、尾けてました?」

 思い切って口にすると、高柳はにっこりと笑った。

「ふふ、隠し立てしない方がいいですよね。昨日は何時に帰ってきたんですか? エントランスで突撃しようと思ったのに一向に姿が見えなくて……ああ、でも私も買いたいものができてコンビニに行ったから、その間に入れ違いになったのかも」


 世間話をするような口ぶりで、恐ろしいことを言う。

 昨晩の時点でこのマンションに目星をつけていた。河野と合流する前にいたと思ったが、彼女はむしろ自宅に先回りしていた。


「どうやってここを……」

「だって猪瀬さん、お店のブログに時々ご自宅のこと書くでしょう。部屋の写真も載せたりしてるし。ああいうの、やめたほうがいいですよ。どこに住んでるかなんて、すぐに割り出せますから」

「そんなこと……」

「割り出すのが悪いと思います? でも、身元が割れるような写真をアップするほうも悪いと思いません?」


 悪びれもせず言う彼女の言葉に、ばくばくと心臓が早鐘を打つ。

 SNSで公開されている情報から、相手の住居を割り出し、近隣に出没する。

 自分が過去に行ったことを、やり返されている。

 高柳は続けた。


「でも、世の中にはもっと悪い人もいますよ。元カノが婚約したのが許せなくて、ストーカーや嫌がらせを繰り返したあげく、誘拐してレイプして殺した人もいるんですから」

「……」

「ねえ、猪瀬さん」

「……」

「木田秋岳って、もちろんご存知ですよね」


 とうとう来てしまった。恐れていたことが起きてしまった。ぎゅうと鞄を握りしめる。背に汗が伝う。


「だって、猪瀬さんの前世ですものね」


 そうでしょう?

 確信を持った目が、意地悪く猪瀬を射貫く。

 遠くで踏切が下がる音がした。猛烈に、線路に飛びこみたい欲求に駆られた。


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