#78 懺悔

 足を動かすたび、ぐしょりとした感触が足裏に伝わる。昼間の雨は夕方には止んだが、地面はふんだんに水を吸って足形がつくほどだった。


「両親は医者で、私も医者になることを強く望んでいました。熱心な教育のおかげで小さいころから成績は良くて、運動神経も良いほうだったし、外見も悪くはなかったです。たいがいのものは手に入る人生でした」


 語りながら、かつての自分の姿が目に浮かんだ。

 洗面台の鏡に映っている見慣れた顔に始まり、周囲が買ってもらえないと嘆くなかで自分だけは持っていた玩具、満点の答案、1位の等級旗に駆けよる自分、交際した女性たちの顔、大学の合格発表、掛けられた手錠、留置場の風景。

 記憶がスライドショーのように切り替わっていく。


「自分が輪の中心にいる感覚がありました。周りは私の言うことを尊重してくれて、なにかあれば意見を求めてきました。自分は人より優秀だと信じていました」


 成功体験を積めば積むほど、周囲は自分を持ちあげた。

 絵に描いたようなエリート。恵まれた家庭環境に、文武両道で見目も秀でる。寄せられる関心は敵意などなく、純粋な尊敬をも含んでいた。それは心地よく、やわらかにあがめられている気分だった。

 そのうち、自分と違う意見を唱える存在にだんだんと不信感を抱くようになった。育ちあがった自信が形を歪めはじめていることには気づかなかった。


「違う意見を主張する人に、なんで自分の言うことを聞かないんだ、生意気だ、って思いはじめて。ただ、表に出さないだけの分別ふんべつはありました。高校生ごろからその傾向は顕著になって、相手を自分の思っている通りにうまく誘導する話術や処世術を身に着けていきました」


 優等生の皮を被りつつも、理想通りにならないと過剰に苛立ち、対立を主張する意見を完膚かんぷなきまでに叩きのめしたいという願望が膨れあがっていった。自分は人より優れているという思念は根を張った。

 煙たがられたり邪険にされたりしなかったのは、頑固な主張をしても相手への細やかなフォローを忘れなかったからだ。そのバランス感覚は天性のもので、おかげで友人に囲まれたまま過ごすことができた。

 曖昧なバランスで世界が大きく崩れたのは、研修医になりたてのころ。一人の女性と知り合った。


「……彼女は大学の後輩で、合コンで知り合いました。謙遜が得意、って言えばいいんですかね。私なんかが、っていうのが口癖で、自分を下げる代わりに相手を持ちあげる子で。すぐに気に入りました。自分の欲求を満たしてくれると直感したんです」


 私なんて一人暮らしなのに自炊あんまりしなくって。怠け者なんです。女子失格ですね。

 ご両親もお医者さんなんですか、すごいなあ。うちの親なんて、傾いた中小企業勤務ですよ。羨ましい。

 すごい、物知りなんですね。木田きださんと会わなかったら私、馬鹿のまんまだったかも。


 自然とそういう物言いをする女性だった。信念を持ってそのスタンスを貫いているというより、置かれた環境や周りからの影響で無意識にそうなっているようだった。邪気なく持ちあげられ、自尊心と承認欲求は満たされた。彼女も自分に好意を持っていたのは明らかで、ほどなくして交際が始まった。


「彼女は、環境のせいで植えつけられた価値観のゆがみに気づいていませんでした。無意識に口にすることで、その価値観はだんだん私にもうつっていきました」

「価値観?」 河野はそこで、猪瀬が話をしはじめてからようやく反応を見せた。

「女は家事が一通りできてないとダメだとか、男は家庭を持ってこそ一人前、だとかいうやつです」

「ああ、そういう」河野は目を細めた。


 そういう、の先に続く言葉を考える。

 そういう、ひと昔前にすたれた考えね、だろうか。

 彼はどんな前世を過ごしたのだろう。

 ふと気になった。自分が生きていたころの社会通念がまだ通用する時代か、価値観が変わりつつある過渡期か、変革を終えたころか、それよりもはるか昔か。

 どこで、どんな生涯を送っていたのか。どんな人生を歩めば、これほどの落ち着きが備わるのか。身ぎれいで聡明な彼はきっと、両親から深く愛され正しい教育を受け、適切な倫理観を学んできたに違いない。

 じっと見つめていると、河野が手を動かした。続きをどうぞ、と促すようなそれに、慌てて続ける。


「付き合って半年経ったころには、モラルハラスメントをしていました。自分の望み通りにならないことは彼女のせいにしました。彼女も、私が正しいと疑っていなかったと思います。他人から見たらいびつで、カップルというよりは主従関係みたいに見えていたはずです。でも、私たちには普通でした。自分たちがおかしいだなんて思いもしなかった」


 均衡が崩れた発端は、彼女の友人だった。

 二人でいるところを見た友人が、その関係のおかしさに気づいて彼女を説得した。最初は抵抗を覚えていた彼女も、次第に認識のゆがみを自覚するようになった。洗脳のように染みついていた習慣や口癖は矯正され、心理学系の書籍で認知の歪みを直していった。

 交際開始から1年も経たずして、彼女は別れを告げてきた。


「人生初の失恋でした。振ることはあっても、振られることはなかった。彼女は少しして、洗脳を解いてくれた男性と交際を始めました。そこから、私の中で色々なものが崩れていきました」

「……」

「自分ほど優れた人間を振るなんて何を考えてるんだって思ったし、間をおかずに交際が始まったと聞いて怒りが噴きあがりました。思考がどんどんズレて被害妄想が膨らんで、自分に恥をかかせるために二人は共謀したに違いないと思いこみました。……私を嘲笑うために彼女は近づいてきた。あれはハニートラップだった。今ごろ、ふたりでバカにしてるんだ。……そう考えて自分に理由を与えました。自分じゃなくて彼女たちが悪いんだ、だからこれからすることは悪いことじゃない、って」


 簡単な嫌がらせから始めた。復讐行為ではないと言い聞かせた。自分の元を去り別の男と付き合ったせいで嫌な目に遭う。あの男と一緒にいるとロクなことが起きないと気づけば、考えを改めて戻ってくるかもしれない。そのときは何も言わず温かく出迎え、許してやればいい。

 女は馬鹿だから簡単にそそのかされて誤った道を選ぶ。優秀な男がその認識を正してやるのだ。彼女は自分の行為がいかに愚かだったかに気づくだろう。

 真剣に、そう思っていた。


「嫌がらせを重ねても思い通りになることなんかなくて、行動はエスカレートしていきました。動物の死体を袋に入れてドアに掛けたり、生ゴミをベランダに投げこんだり、近所に悪評をばら撒いたり、尾けまわしたり」

「気づかれたんじゃないですか」

「はい。……彼氏に詰められたときは取りあいませんでした。逆に周囲を味方につけました。バレないようにしていて証拠はなかったし、言いがかりをつけられて困ってる、って触れ回りました。そうしておきながら、貴重な休みを削って彼女を遠くから尾けて、わざと自分の姿を見せて怖がらせもしました。……楽しくなってきたんです。自分の顔を見るなり怯えた顔をする彼女を見るのが。すぐに姿を隠すんですけど、イタズラが成功したときみたいな高揚感がありました」


 復讐というより、一種のゲームと化していた。いかにしてあの女に後悔させるか。友人たちへの根回しは、日頃の自分が築いてきた仮面のおかげで上手く行った。彼氏をいさめる者までいた。その話を聞いたときには腹を抱えて笑い転げたい気分だったが、「まあ、彼女の前で男らしいところを見せたかったんだろ」と、理解あるそぶりを見せた。


「彼女は引っ越しました。けれど、SNSに上がっている写真を見ればどこに住んでいるかは簡単に予測できました。身元が割れるような写真をアップする彼女が悪いと理由をつけて、尾けまわすのは止めませんでした。危害を加えるわけでもないから、警察も動いてはこなかった」


 1年は何事もなく過ぎた。26歳になった年、転機が訪れた。


「彼氏からプロポーズを受けたという投稿を見つけました。卒業したら結婚します、とあって、指輪をして嬉しそうに笑っている写真がアップされていて。……すごく、腹が立った」


 まるで、自分のしている行為など意にも介さないような。ちっとも見えていないかのような。過去をあらためるわけもなく、目の前に幸せに縋りついていて、そんな人間に自分は軽んじられていると感じた。

 満面の笑みを浮かべている写真から、哄笑こうしょうはじける幻聴さえした。


「頭に血がのぼって、なりふり構わなくなりました。自分が尾けていたときに見せたあの表情も、本当は見下す目だったんだと思いました。前よりも大胆に尾けるようになりました。夜道でわざと追い抜いたり、わき道からいきなり飛び出てみたりもしました」


 姿を現すたびに背をわななかせた彼女の姿を思い出す。右手の薬指には指輪があった。それがまた、理性を奪っていった。


「そのうち警察から警告を受けて、そこでやめればよかったのに、私は憤慨したんです。このままじゃ病院に知られてしまう。前途明るい医者の卵じぶんの未来が、一人の女のせいで潰れてしまっていいのか、と思いました。悪いのはすべて彼女だと思って、それで、……あの日」


 視線をあらぬ方向に向け、視界から河野を除外した。

 強い雨が降る日だった。夕暮れに差しかかり薄暗く、平時よりも人通りも車通りも少ない脇道に入っていく彼女を車で追った。

 車を寄せ、砂を靴下に詰めた凶器ブラックジャックで後頭部を殴打した。誰にも見られることはなく車に押しこみ、遠方の空き家に連れて行った。


「罰を加えるつもりで暴行しました。終わったら、気持ちはすっきりしました。快楽的な意味とは別に、自分のすべきことを完遂したような気分になりました」


 同時に、彼女が目を覚ましてはいけないとも思った。自分の体液は残っている。露見すれば、自分の将来はどうなるのか。


「目を閉じている彼女の首に手を掛けたときも、ためらいはなかったです。自分は悪くない、悪いのはこの女だと思っていました。遺体は空き家の押し入れに隠しました。しばらく見つかりませんでしたが、腐敗臭が騒ぎに発展して遺体が見つかりました。計画性があったことや残忍な手法だったこともあって無期懲役の判決が下り、服役中に病気になって獄中死しました」


 視線を戻す。河野はただ、街灯に照らされ、雨露の光る雑草を見ていた。

 軽蔑したに違いない。なんて言葉をかけられるだろう。自己弁明しようと口を開いたが、河野が先に言葉を発した。


「服役中に改心できました?」

「……ある程度は。差し入れられた本で自分の価値観が歪んでいたのを理解して、矯正していきました。認知行動療法を実践するうち、歪みは少しずつ直りました。悔いる気持ちもありましたが、やはりどこかで自分を正当化する気持ちが残ってもいました」

「前世の記憶を思い出したとき、同じような思いは抱かなかったんですね。また女性を言いくるめようとか、支配しようとか」

「なりませんでした。……なれなかった、と言ったほうが正しいかもしれません」

「なれなかった?」

「知ったからです。彼女の側を」

「……」

「両親とは今は不仲ですが、子どものころは溺愛されました。目に入れても痛くないってくらいに、大切に大切に育てられたんです、猪瀬志保わたしは」


 怪我をすれば過剰なほどの手当てを施された。少しでも姿が見えないと名前を呼んで探し回ってくれた。些細なプレゼントでも大喜びしてくれた。夜道を歩くときは不審者に気を付けるように何度も言い含められた。女性が被害者になった凄惨な事件に憤っていた。

 そうしたなかで、前世を思い出した。


 他人として生きて知った。両親にとっての自分のように、誰かにとって大切な存在である女性のひとりを欲求のままに犯して殺した過去の行為。どれほど惨く許されざることだったのかを、日々を過ごすたびに突きつけられた。


 尾けまわされてどれほど怖かっただろう。

 婚約者が殺され、どれほど無念だっただろう。

 変わり果てた姿の娘と対面したとき、どんな気持ちだっただろう。


 かつての自分が想像しようとも思わなかったあらゆる立場の視点が、自らの過ちを責め立てた。

 自分は悪くないと思いながら死に、女性として生まれ変わったのは一種の試練だとも思った。

 この人生で何ができるか。猪瀬志保としての人生を歩み行きついた結果が、今の毎日として結果づけられている。

 犯罪被害者支援や性被害者支援に踏み込む覚悟は、まだ持てていない。その資格が自分にあるかも自問し続けている。






 ******







 継ぐ言葉を考えあぐねている猪瀬を、河野は盗み見た。

 かつて犯したことを許すつもりは毛頭ないが、今の彼女がしていることが偽善だとも思わない。犯したことの重大さを悔いているのは真実に見えた。


 あの男たちはどうだろう。


 忘れたくても忘れられない顔が、次々と頭に浮かぶ。

 自分に暴行を加え、なぶり、目と腹を抉ったあの男たち。もう生まれ変わっているだろうか? 記憶を思い出しただろうか?

 何度も夢に出てくる風景が、意思と反して脳裏に浮かびあがってくる。


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