#77 吐露

「私、逮捕されるんでしょうか」


 猪瀬の声は細かった。だが、震えてはいなかった。

 顔を見れば、ありったけの勇気を総動員しているのが分かった。じっとうかがう河野に対して、猪瀬も目をそらすことはなかった。開口一番に河野が自らの身分を明かしても、彼女は動じなかった。


 公園の街灯の下、ベンチに腰掛けた二人は傍目はためからすればカップルに見えなくもない。しかし、平時は夜でも人通りの多い公園には管理班の仁科にしな隊員によって人払いがなされ、ひっそりと静まり返っている。

 須賀班の面々、それに助っ人の玉池と神崎は周辺に控えている。夜目が利く玉池と補佐役の神崎が背後を取り、気配は感じられないが確実に銃弾が届く絶妙な位置に陣取っている。門脇は公園の外周でドーベルマンとレトリーバーを数匹放ち、不審な者が周囲を通らないか警戒の目を光らせているはずだ。公園一帯を見下ろせる高台には狙撃手の駒場こまば和沙かずさ2級隊員がスコープ越しにこちらを見ているだろう。交わされる会話は通信機を通じて全員に共有されており、なおかつ真正面には気配を殺している小平がいる。彼の目線カメラで撮影されている映像は管制室にいる永田と大村が見ている。

 予報は外れ、雨は太陽が姿を隠すとともに止んだ。時おり周辺道路を車が通る音と、虫の声がする空間。風はあるが熱気をはらみ、座っているだけでも汗がじわりと滲んでくる。


「なぜ?」 短く問う。猪瀬は視線を揺らがせた。

「最近続いている殺人事件の、重要参考人で」

「逮捕されるようなことをしたんですか」

「それは、断じてありません」そらされた目が再び河野を見据える。「疑われる余地はあります。……私の前世は犯罪者なので。河野さんが店に来ていたのも、それが理由ですよね」

 今度は河野が視線を外した。「そうです」

「どこまでご存知ですか」

「大まかな部分だけ」

「ご存知の上で、ご来店されたんですね」

「はい」


 淀みなく答える。猪瀬は感情を揺らがせることなく、小さく頷いた。自分の中で答え合わせをしているようにも見えた。


「昼間に一緒にいた男性は、私を尾行していましたか」

「はい。あなたは彼の顔を知っていたようにお見受けします」

「……こんなことを言うと、余計に不審がられるかもしれませんが」


 猪瀬は、記憶を思い出すにつれて自らの背後に立つ人間の顔が分かるようになったのだと話した。たとえ会ったことのない人間であっても、脳内に顔が浮かぶ、と。

 予想は外れていなかったと思いつつ、河野は静かに言った。


「今、僕らの後ろに何人いるか分かりますか」

「二人です」

「どんな顔かも?」

「一人は、初めて訪れたときに来ていた方。左目の下に傷がある、二十歳くらいの男性。もう一人はもっと若くて、中学生くらいの男の子。私は会ったことがないです」


 眼前に二人が立っているかのように猪瀬はすらすらと答えた。

 玉池と神崎まで、だいぶ距離がある。玉池にとっては射程範囲内だが、神崎の腕では目標に当てるのがやっとだろう。木や遊具といった遮蔽物もある。常人であれば背後に誰かがいると思いもしない。ましてや、顔の区別など不可能に違いない。

 彼女の言葉を受け、大村が指示を出した。


『小平くん、ピリオド切ってもらえるかな。中倉さん、距離を詰めて少し左右に移動してみてください。バレない程度に』

 小平と中倉が「了解」と返し、ややあってから彼は再び声を発した。

『ありがとう、もう大丈夫です。……彼女、嘘は言ってない。能力も本物。背後にしか反応しないっていうのも本当だ。小平くんと中倉さんに気づいた様子がない』


 大村の声は落ち着いていた。彼は猪瀬に掛けられた容疑については最初から懐疑的な立場だった。尾行中に彼女を捉えた映像を見ただけで、「シロじゃないかな」と言っていた。それが彼女の上に文字として浮遊する思考を読んでのことか、彼女の詳細な前世を知る探査室長としての見立てなのかは分からない。


「あなたを犯人だと思っているわけじゃありません。前世犯が犯罪を繰り返す前例があるのと、いくつかの事件であなたのアリバイがないのを考慮した結果です」

「……尾行して、疑いは晴れましたか」

「主犯の可能性はきわめて低いという結果になりました」

「共犯の可能性は捨てきれない?」

「客の誰かが主犯で、何かしらの符丁を使っている場合もある」

「そうですね」


 表情を観察する。発言に嘘はないように思えた。懸念すべきは、「嘘がない」という彼女の発言や思考自体が、何者かに操られている可能性だ。

 そうなれば、思考を読める大村すらも欺くことができる。それを念頭に入れた上で反応を見たいと提言した。だからこそ、変に隠し立てすることもなく正直に、あけすけという言葉が似合うくらいを努めて意識した。

 猪瀬は何度かゆっくりとまばたきをしてから口を開いた。


「お呼び立てしたのは、私の過去を河野さんに話しておこうと思ったからです」

「どうして」

「悪い予感がしたから」

「どんな?」

「……」猪瀬は手元に目を落とした。藍色のロングスカートの上で、手をゆるく握る。「お店、もう続けられないかもしれません」

「なぜです」

「河野さんが帰ったあと、一人の女性が来店しました。記者で、ネットニュースの記事を書いていると言っていました。同僚の記事でうちが取り上げられていたから来たとかで、ずいぶんお店のことを褒めてくれました。……その人、帰り際に言ったんです。『こんなにおいしい料理を出して、恵まれない子どもたちの支援までしてすごいですね。何か印象的な出来事があったんですか? それとも、前世が関係してるんですか?』って」


 気づかないうちに、河野は彼女から視線を外した。それはまさに、自分が初めて店を訪れたときに彼女に掛けた言葉と同じだったからだ。

 河野が気づいたのを察してもなお、猪瀬は続けた。


「彼女の目が、何か不穏なものを孕んでいる気がして。私の秘密を暴きたいと思っているふうに見えました。お聞きした名前で検索したら、いくつもスクープを連発して有名な方でした。……彼女、いま連載記事を書いてるみたいなんです。前世で罪を犯した人間が今はどう過ごしているのかについて。取り上げられているのは前世犯であることを公表している人ばかりでしたけど、直感で、あの人は私の過去をどうにかして知ろうとしているんだと思いました。……実際に、ここに来るまで、彼女に尾けられました。公園の近くまで来たら、諦めたのか帰って行きましたけど」

「……」

「自意識過剰と言われればそれまでです。ただ、どうしようもなく嫌な予感がしていて。これまで誰にも言わなかった過去を暴かれて晒されるんじゃないか、これまで通ってくれたお客さんが遠のいて、店に悪評が立つんじゃないか、って。……店を立ち上げてからずっと恐れていました。誰にも言わなかった秘密を、いつか誰かが暴きに来るかもしれない、って。やっと実現した夢が、前世のせいで潰れるかもしれない」


 彼女の手に力が入る。

 注文を聞き、水を配り、調理をし、子どもたちの頭を撫でる手が、かたく握りしめられる。


「その時が今なんだな、って、ここに来るまで考えていました。……ひどい言い方になりますけど、あの女性ひと、どこかおかしい気がして。表面上はニコニコしているのに、奥には別の顔を持っているような怖さを感じたんです。彼女の手にかかれば、ちょっとの事実も拡張されて書かれるような気さえしました。あんな人に暴かれるくらいなら、いっそ先に誰かに話してしまいたいと思ったんです。そのときに、真っ先に河野さんの顔が浮かびました」

「……」

「本当は、最初にあなたが店に来たときから、怖かったんです。河野さんが私の築いてきたものを壊す張本人なんじゃないかと思ってました。ICTOの人だと知って、なおさら。ただ、……だからかな、知ってほしいとも思いました」

「あなたの過去を?」

 河野の問いに、猪瀬は首を振った。

「やってしまったことを後悔し続けている人間もいるってことを、です」


 視線が交わった。猪瀬は覚悟を決めた顔をしていた。

 何の隠し立てをするつもりもない。表情がそう告げている。河野の目を見、柔和な表情を浮かべたまま、猪瀬は口を開いた。


「私は、前世で――」

「待って」

 手で制した。瞬間、彼女の目に戸惑いが走る。構わずに振り仰いだ。

「須賀さん」

『構わない。万一何かあったら合図をくれないか』

「ありがとうございます。了解しました」

 こちらの言わんとしていることを須賀はすぐに察してくれた。イヤホンを耳から取り、通信機のスイッチを切り、猪瀬に見せた。

「すみません、同僚にも会話を聞いてもらっていました」

「……私でも、同じことをすると思います」


 通信機をベンチの上に置く。立ち上がり、少し離れた場所のブランコを指差した。


「あそこで話しませんか」

「はい」


 先だって歩く。

 これも単なるパフォーマンスに過ぎず、本当はもう一つ通信機を身に着けている。猪瀬はそう考えるかもしれない。暑い夜だというのに上着を羽織っている河野を不審に思っているかもしれない。私服の上にガンホルダーを身に着けているのを、薄々理解しているのかもしれない。

 信頼するに足りない要素など、今の河野にいはいくらでもあった。

 信じるには想像以上の力がいる。もしああだったらどうしよう、と考えあげればきりがないのは河野もよく分かっていた。信じてもらう側は、信じてもらうことを信じるしかない。猪瀬が口を閉ざしてしまっても構わないとも思っていた。


『信じろとは言わん。君が信じるかどうかは君の問題で私たちの問題じゃない。私たちは信頼されるに値する行動を続け、君に信じられることを信じるしかない。決めるのは君だ。信じると決めるなら腹を括れ』

『君の信頼を裏切る行為は絶対にしない。それは確約する。僕が君から寄せられた信頼を裏切ることがあれば、そのときは躊躇いなく僕を殺してくれていいからね』


 かつての上司たちの言葉を反芻した。偏屈で饒舌な上司は、温和で篤実とくじつな上司を自分に引き合わせた。こちらに転属してからしばらく顔を見ていない。過去の記憶に怯えるばかりだった自分を引っ張り上げてくれた恩人とも言える彼に、ふと会いたくなった。

 ブランコに並んで腰かける。自然と足が揺れ、小さく漕ぎはじめる。最近もこうしてブランコに乗っていたはずだと思いを巡らせ、神崎の級付けのときだったと思い至ったとき、猪瀬が口を開いた。


「私の前世は男性です。26歳のときに、……人を殺しました。女子学生をストーカーして、誘拐してレイプして殺しました。突発的にではなくて、明確な殺意を持っていました」


 猪瀬はぽつぽつと話しはじめた。紡がれた声は、ゆっくりと夜の闇に溶けてゆく。




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