#76 不穏


「面倒な奴がいる」


 助手席に座る三吉が舌打ち混じりに声を落とした。沖野はワイパーを作動しようと左手をレバーに伸ばしており、レバーが落ちるカコンという音と雨音に紛れ、その声はずいぶん小さく聞こえた。

 雫が拭いとられて明瞭になった視界を確認する。先ほどから降りだした雨は次第に勢いを強め、窓を閉め切った車内でも降りつける音が際立つほどになった。

 前方に、ビニール傘を差して立つ人がいた。背格好からして女性なのは分かった。


「お知り合いですか」

「ネットニュースの記者だ」


 地下駐車場に降りるべく、いったん女性の横を通り過ぎる。徐行して追い越したとき、彼女がこちらを見た。

 年のころは三十代といったところか、肩までの黒い髪を後ろでひとつにくくり、眼鏡をかけている。彼女は三吉の顔を認め、にっこりと微笑んで軽く会釈をした。含みのある笑みに見えなくもなかったが、腹に一物ある人物とも思えなかった。


「……普通の人に見えましたが」

「上手く説明するのが難しい。とにかく『持ってるヤツ』なんだ」

「『持ってる』?」

「武蔵野市の官製談合事件、あったろ」

「はい。助役が逮捕されたんでしたっけ」


 二か月ほど前に起きた事件で、沖野もよく覚えていた。市の助役が競争入札の参加企業のひとつに予定価格を漏らし、落札できるよう便宜を図っていた。助役が30代、情報を受けた企業の取締役も20代と年齢が若く、強く印象に残っていた。


「尻尾を掴んだのは彼女らしい。彼女が武蔵野市の公共工事に関する連載を書きはじめてから大きく動いた。捜査二課に情報を流す代わりに、逮捕の瞬間は特等席に近い場所にいた」

「偶然情報をゲットした、って感じじゃなさそうですね」

「その前にも、厚労省で若手職員の自殺が続いた件……職場内のイジメが原因だったらしいが、あれも嗅ぎつけてる。あと、与党議員の公職選挙法違反問題に総務大臣の息子が起こしたDV問題も。彼女が一枚噛むと、途端に事件が明るみになる」

「行く先々で人が死ぬ名探偵みたいですね」

「言われてみりゃそうかもな」


 ふは、と息を漏らして三吉が笑った。

 指定スペースに駐車し、エンジンを切る。ドアを開けようとノブに手を掛けたが、三吉は動かない。まだ続きがあるのだと気づいて手を離し、それとなく居住まいを正した。


「今度は連続変死事件を追ってる。気をつけろよ」

「あの人を、ですか」

「ああ。連続で特ダネを掴んでいるが、ネタ元になりうる人脈が豊富なわけでもない。記者になったのは数年前だが、ここ1年でスクープを連発しだした。男を篭絡ろうらくしてるだなんて言う奴もいる。けど、そういう人間じゃない。……刑事の勘みてえな、動物的な直感が異様に優れてる。目ェつけられないほうがいい」

「動物的な直感……」

 隣をうかがう。三吉は前方をじっと見つめたままだ。わずかに眉間に皺が寄っている。

「この前、帰り道で待ち伏せされたんだ。捜査の進捗を聞かれた。話の流れで、なんであなたが絡むと大きく事件が動くんですかね、って冗談交じりに聞いた。何て言ったと思う?」

「……」

「『私、後ろめたいことしている人が分かるんです。目を閉じると、その人がやった悪事が見えるんですよ。嘘も分かるんです』ってよ。……冗談に違いねえが、目はマジだったな」

「ちょっと怖いですね」

「だろ? 気ィつけるに越したことはない。……あんまり長居しても不審に思われる。行くぞ」


 がばりと大きな体躯たいくを動かし、三吉は荷物を引っ掴むとすぐに車外に出て行った。慌てて自らの荷物を持ち後を追う。署に繋がる出入り口付近にはすでに女性が傘を畳んで待機していた。何事かを三吉に尋ねているが、雨音にかき消されて内容までは聞き取れなかった。

 三吉は彼女の問いに数度頷き、数度首を振り、後ろ手に沖野を差した。女性はそこで初めて沖野に顔を向けた。

 視線がかち合った瞬間、沖野は胸が妙にざわつくのを感じた。だが、三吉から話を聞いたせいだと片付け、彼女に向かって小さく礼をする。彼女も礼を返した。口角を上げた笑みはごく自然で、シルバーフレームの眼鏡で理知的な印象を与えるぶん、愛想よく映った。


「初めまして。高柳たかやなぎと申します」


 彼女は微笑みを保ったまま、自らの情報を沖野の端末に送ってよこした。スクープを得意とするネットニュースサイトが所属先となっている。沖野は自らの苗字を名乗るにとどめた。

 聞きたいことがあるのかと身構えるも、彼女はじっと目を見つめるばかりだった。探るように、目の奥に浮かぶ感情をうかがうように見つめられ、警戒心と違和感が頭をもたげる。


「あの、何か」

「いいえ。……沖野さんは、清廉潔白そうですね」


 小首を傾げて彼女は言い切る。自信満々な素振りがかえって奇妙に映った。野生の勘が警鐘を鳴らしはじめる。

 では、と小声で告げて横をすり抜けようとした刹那、彼女は沖野の前腕を掴んだ。


「あの、ちょっといいですか?」

 事件のことを聞かれるかもしれない。漏らしてはいけない。心臓が跳ね上がる。目の前にいるのは小柄で華奢な女性のはずが、飢えた獣が舌なめずりをして自分を見ている錯覚に陥る。それほどの、言い表しがたいたぐいの圧があった。

「なんでしょう」

「おすすめのご飯屋さん知りませんか? このあたりに初めて来たもので、せっかくなら美味しいものを食べたくて。車で来てるので、遠いところでも大丈夫です」


 肩からふっと力が抜ける。近隣の店を思い浮かべるのを装い、視線を外した。いくつかの店を挙げる。いずれも密行の道すがら目にする店で、立ち寄ったことはあれども常連というわけではない。

 行きつけの店を漏らせば、眼前の女性が自分の領域を侵食してくるのではという漠然とした恐れがあった。猪瀬志保の店が強く脳裏に浮かぶ。あの店の存在は知られたくないと思った。自然と、正反対の場所にある店の名前がすらすらと出てゆく。

 沖野が返答するあいだも、高柳はずっとこちらの表情をうかがっていた。


「こんなところですかね。気に入るお店があるといいんですが」

「ありがとうございます。……ちなみになんですけど」

「はい」

「江東区の倉庫街近くにある『シンクレール』って洋食屋さんはどうですか?」


 考えを見透かされたのだろうかと思った。そんなことはないと思考を振り払うも、口の中が急速に渇いていく気がした。平静を装うべく、笑みをはりつける。


「ご存知なんですか?」

「ええ、このまえ、同僚が取り上げていたんです。子どもたちのために無償で食事を提供するっていう記事で。そう遠くないですし、行ったことあるのかなあと」

「ありますよ。いい店です」

「へえ、そうなんですね。じゃあ行ってみようかな。すみません、お忙しいのに長いこと引き留めてしまって」


 腕が離される。高柳は深く頭を下げた。笑みをはりつけたまま、沖野も返す。彼女は最後にもう一度にこりと笑い、身を翻して公道のほうへ歩いていった。

 情報を集めに来たはずなのに、三吉と沖野に声をかけただけで帰るなんて。店を知りたいと言いながらも、最後には自ら店名を出し、こちらの出方をうかがっていた。

 初めから何かを掴んでいて、確かめるために来たのか。だとしたら自分はみすみす利用されたことになる。なぜ猪瀬の店を告げたのか。本当に同僚の記事で店名を知っているだけか、狙いがあるのか。


 ビニール傘がゆらゆらと遠ざかっていく。背を見送りながら、沖野の胸はざわつく。

 自分は取り返しのつかないミスを犯したのではないか、高柳は何かを知っているのではないか。駆け巡る悪い予感に突き動かされるまま、人気ひとけのない場所に足早に移動し、私用端末を取りだした。

 神崎真悟の名を認め、わずかなあいだ逡巡し、画面をタップする。




 *****





「気づいているみたいですね。僕が尾行していたこと」

 厨房へと戻っていく猪瀬を見送り、小平が小声で零した。

「念のため聞くけど」河野は問う。「見られた可能性は?」

「ありません。距離は十分に空けています。視認されていたとしても顔までは分かりません。尾行そのものは気づいていないふうにも取れました」

「そう。……悪い、待機番なのに。仕事溜まってた?」

「いえ。事務処理は終わっていたので、永田さんと一緒に神崎さんの訓練に付き合っていました」

「最近、彼の訓練に付き合ってる人多くない? 伊東さんとか手塚とか……うちの国見もだけど」

「神崎さんが新技を編みだそうと努力している最中なんです。こう、斬ったけど斬らない、的な技を」小平は身振り手振りで示して見せるが、河野にはいまいちわからなかった。

「後輩の面倒見がいいようで何より」

「新技が完成された瞬間に立ち会えた人が、その技の命名権ネーミングライツを獲得できることにしようという話になりまして。みなさんなかば面白がって付き合ってる感じです」

「誰、そんなこと言い出したの」

「またまた。目星ついてるんじゃないですか?」

「二択までは。男のほう?」

「残念。女性のほうです」


 松川か。小さくため息が漏れる。

 自分が本部に入隊したのと同じ年に、彼女は地元の長野から第1中隊に転属してきたと聞いている。長野でも3年ほど班長職にいたというのだから、とうにベテランと言われる域に達しているはずだが、率先して変なムーブメントを起こしているのは気のせいではないはずだ。

 もっと他にやりようがあるだろうという呆れのいっぽうで、先輩隊員がついているなら神崎も目覚ましく成長を遂げるかもしれないと評価しそうな自分もいる。再びため息が出そうになり、かたわらのコーヒーを飲んで誤魔化した。


「なんで技名をつけるの」

「『刀使うんだったら技名あったほうが絶対面白いでしょ』って言いだした人がいて」

「男のほう?」

「そうです」


 脳裏には楽し気に放言する中村が浮かぶ。「良い」ではなく「面白い」と表現するところに彼の人となりが詰まっていると感じた。

 窓の外に目をやる。ぽつぽつと雨が降りはじめていた。予報では夜まで降り続くらしい。


「河野さん的に、さっきの女性はどうなんですか?」

 小平は先ほどまでのトーンから一転し、真面目な口調で問いかけてきた。

「主犯としては、ほぼ白。ただ、共犯の可能性は捨てきれない」


 他人の動きを一定期間止める能力を持つ者が犯人ともくされている。つまり、猪瀬志保がすでに何らかのピリオドを表出させているのが分かれば主犯からは外れる。そう考えて小平に協力を要請したが、こうも早く確証が掴めるとは思わなかった。

 犯罪被害や事故がきっかけで亡くなり転生した人間の多くは、その出来事に関するピリオドを表出しやすい。玉池の有する「明瞭な視界」というピリオドが、彼がかつて吹雪の中を運転中に事故死したことに起因するように。河野が具現するサバイバルナイフとアイスピックが、前世の河野を死に至らしめた凶器そのものであるように。

 猪瀬の前世からかんがみ、引っかかるとすればストーカーか殺人のいずれかと推察され、検知できる値でないことから能力そのものは軽微なものにとどまると考えた結果、ストーカーに関する何かが引っかかるのではと思い至った。


 小平の尾行にはおそらく気づいておらず、それでいて初対面であるはずの彼を見て分かりやすく動揺した。視界の外にいる人間を何らかのかたちで知ることができる、もしくはそれにるいした能力であると河野は結論づけた。

 考察が外れていなければ、猪瀬が主犯の可能性は格段に落ちる。しかし彼女を追尾して以降ぱったりと連続変死事件が起きていないことから確実にシロとは言い切れない。共犯者の可能性も残っている。


「主犯が死んだ可能性もありますよね。仲違いして口封じされた、とか」

「ある。塩原は、類似の遺体は上がってないって言うけど」


 塩原代助が確認できる範囲――彼が解剖した遺体、あるいは資料を確認できる遺体――で、類似の能力が使われた痕跡は見つかっていない。尻尾を掴まれそうで身を隠しているのか、ターゲットを吟味しているかは分からない。ただ、今もなお犯人が生きていると考えるべきというのが大半の意見だった。

 猪瀬が自らの前世と小平の尾行、周囲で起こっている連続変死事件を組み合わせれば「前世が犯罪者であるゆえにマークされている」と思う可能性は高く、尾行していた小平と河野が同席にいることから河野の正体にも薄々気づいているはずだ。むしろ、彼女がどう出るかを見極める意図もあってわざわざ小平を店内に呼んだ。


「お待たせしました、Aセットです」


 男性アルバイトが小平に料理をサーブする。鶏のグリルとサラダ、ライスのセットが置かれる。いただきます、と手を合わせて小平は食べはじめた。


「おいしいです!!」

「そう、良かった」

 大きく切った肉の塊を咀嚼し飲みこんでから、真剣な表情で小平は言う。

「人のお金で食べるご飯ほど美味しいものはないと思うんですよね、僕」

「塩原と同じこと言うね」

「ほんとですか」

「二人で藤村さんに食事を奢ってもらったとき、同じことを言ってた」

 記憶を手繰たぐる。配属されて間もなくのころだったはずだ。

「藤村さんは何と?」

「『金出す奴の前でその話する?』って呆れてた。笑ってたけど」

「あはは、ですよね。すみません、不躾な部下で」

「別に。気にならないよ」


 きっちり完食してから小平は先に帰っていった。彼が猪瀬の能力について報告を入れたのちには、追尾の手法やメンバーが大きく変わるだろう。

 いつも通り、紫のカードを取って会計に提示する。猪瀬も慣れた手つきで5000円を会計に加えた。


「良かったらこちらにお名前と、子どもたちにメッセージがあれば」


 白いカードとペンが差し出される。引き寄せようとし、違和感を覚えた。

 いつもより猪瀬が近い。しかも、カードを差し出した手を引っ込めようとしない。様子をうかがっていると、カウンターに出されたままの彼女の手が、ゆっくりと形を変えた。彼女の右後ろをゆっくりと指し示す。ちらりと表情を盗み見る。彼女もまたまっすぐに河野を見ていて、そのまま眼球だけを下に動かした。

 指が差す方向に何があるかを悟る。猪瀬の右後ろには、カウンターを映す監視カメラがある。


 ――バレないように、下を見て。


 意図を汲み、カードに視線を落とした。厚めのメッセージカードの下に、薄い紙が一枚挟んである。河野はごく自然な動作で左手をカウンターに出し、それとなく手元を隠して紙をスライドさせた。やや角ばった右肩上がりの字が並んでいる。


『お話したいことがあります。どこかでお時間をいただけませんか』


 ペンを取る。メッセージカードに「また来ます」と書き、下の紙には閉店後に彼女が向かっても怪しまれない経路上にある公園の名前と待ち合わせ時刻を書きつけた。

 何食わぬ顔でカードを差しだす。彼女は自らの身体でカメラの視界を遮って内容を確認し、「はい、大丈夫です。ありがとうございます」といつものように微笑んだ。


「ありがとうございました、またお越しくださいませ」


 背後に声を受け、店を出る。屋根の下で雨の降るさまを確認していると、店の窓からこちらを見ている者に気づいた。たびたび来店している小学生の女児だった。視線がかち合うなり少女は顔をそむけ、窓から離れていった。河野も視線を前方に戻し、雨の中へ足を踏みだした。



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