#75 気配
「いつまで黙認されるおつもりですか」
ディスプレイから視線を外し、茶を淹れる背に声をかけた。
返答の代わりに、こぽぽ、と急須から液体が落ちてゆく音が執務室に響く。
「いつまでかしらねえ」
にこりと微笑まれる。疑問を疑問で返されると藤村春の顔が浮かび、ため息が出そうになった。脇取盆を持った犬束が歩みよってきて湯気の立つ湯呑みと小ぶりの豆大福がひとつ乗った小皿がデスクに置かれた。
「ありがとうございます」
「あら、茶柱立ってるわね。カナメくん、近いうちに良いことあるわよ」
「だといいんですが」
犬束はそのまま脇の席に腰を落ち着けた。両手で湯呑を持ち、ひとくち含んで「ああ、おいしい」と目を閉じる。それから視線を落とし、デスク周りをしげしげと見た。
「聡史くんの机は、いつ見ても綺麗よねえ」
「須賀と松川には見習って欲しいですね」
「そうねえ、
彼女は左隣の須賀のデスクを見やった。つられて崎森も視線を向ける。
須賀は何かと紙資料を重宝する
自らの領地が書類で侵略されていても、河野は顔色ひとつ変えずに黙々と集め、そっと隣に戻してやっている。河野の向かいに位置する松川もまた散らかしがちで、こちらは本人いわく「私的には超~キレイに整頓されてるベストな状態」らしいのだが、隣席の矢代にたびたび「うちの息子らの机のがよっぽど綺麗だよッ」と呆れられている。
班長陣6名のデスクは一つの島を形成しており、河野と松川、須賀と矢代がそれぞれ向かい合う。笹岡と崎森が4人のデスクを挟むように対面するかたちで、崎森が河野・松川と、笹岡が須賀・矢代と接している。犬束のデスクは須賀と河野のデスク後方に単独で設置されているが、彼女が自席にいることはそう多くなく、班長陣の席に空きがあれば座り、周囲との雑談に花を咲かせる。
「河野にはそろそろ言い含めたほうが良いのでは」
それとなく話を戻し、茶をすすった。冷房の効いた室内で熱い茶を飲むのは贅沢に感じられた。
「もう少し、様子を見たいのよねえ」
「なぜです」
「聡史くんの中でまだ、どうしたいのか気持ちが定まっていない気がするの。カナメくんもそう思わない?」
問われ、崎森はわずかなあいだ考えた。
河野が合間を縫って猪瀬志保の店に通っていることを、犬束も崎森も気づいてはいた。端末をGPSで追える以上、彼自身もそれを承知で動いているはずだ。一度は注意しようとした崎森だったが、犬束が止めた。
少し様子を見たい。彼女の言葉の意図を探りつつ、しばらくは静観を決めこんでいた。
猪瀬志保の監視は続いている。不審な動きがあったという報告は挙がっていない。変死事件の進展は遅々としたもので容疑者は絞れていないが、新たな犠牲者は出ておらず、事態は膠着していた。
何を思って猪瀬に近づいているのか。彼女が犯人だと信じているのか、そうでないと思いたいがゆえなのか、あるいは別の感情か。凶行に及ぶ場面を自ら押さえたいと思っているのか、前世について話を聞きたいのか。
河野の行動から、彼が何をしようとしているのかはいまだ測れない。が、この状態を続けるわけにもいかない。猪瀬が河野の正体に気づく可能性もあるうえ、新たな犠牲者が出ないとも言い切れない。何より、猪瀬のほかにも監視対象者はいる。班を指揮する立場の者が一人の対象に肩入れし続けるのは好ましくない。
「あいつが方針を固めるまで待つわけにもいきません」
「そうねえ。ただ、聡史くんにとっては大きな転換点になると思うの」
「この件が?」
「この件というより、猪瀬さんとの関係が、かしらね。かつての加害者が、いまは人を救う立場になっている。その心境の変化をどう捉えるかで、聡史くんのピリオドが変化を遂げるんじゃないかしら」
なかなか酷なことを言う。
崎森はそっと犬束の表情をうかがった。凪いだ表情をしていた。幼い息子が公園で遊ぶのを見守る母親のような雰囲気があった。
学生をストーカーし、性的暴行を加えた上に死なせた人間がどう心変わりしたか。それを、誘拐され性的暴行を加えられた末に殺された前世を持つ河野が知って何を感じるのか。
感情を昂ぶらせ、遡臓が活性化し前世の記憶を新たに思いだすことがあれば、彼の有する
崎森が入隊してから二十年近くが経つ。そのあいだ、ふとしたきっかけで前世を思い出し、ピリオドの練度が爆発的に向上して昇進の道を駆けのぼっていった隊員を幾人も見た。いっぽうで、知りたくなかった事実を知り精神を病んだ隊員たちも幾人も目にしてきた。
かつて率いた部下の一人は、母親と仲の良い女性の前世を持っていた。彼の能力は母から教わった手習いがベースとなっており、しばしば母との思い出を語っていた。
しかし、暴走した中年女性に減退弾を撃ち込んだ際、彼の遡臓は活性化し記憶を思い起こさせた。進行性の病気に冒された母を看病した日々と、治療が苦痛だと訴えた実母の首を絞め、楽にしてやったことを。
断片的な記憶がパズルのピースのように脳にはまったのだと、彼はのちに話した。
ほどなくして彼は除隊を申し出た。除隊は承認され、彼は遡臓の機能停止手術を受けた。すっぱりと前世を忘れ、記憶を書き換えられた彼が今どこで何をしているのかは知らない。
同じ
その考えが頭に浮かび、自分がその事態を危惧していることにも気づく。
「心配なのは分かるわ」
犬束が静かに言葉を落とした。心を読まれたのかと錯覚してしまう。
「大事な後輩で、優秀な人材だものね」
「……ですね」
「でも、私は信じたいの。聡史くんの
「……」
「
「そうですね」
去っていった彼を思いだす。
腕が立つ隊員だった。反面、自らより能力の劣る隊員には手厳しかった。精神を弱らせた彼に対して、これまで厳しく当たられた隊員たちは彼がしてきたのと同じ対応で返した。生じた軋轢を修復させるのは、15歳の崎森には難しかった。
犬束の言葉に、崎森の心中に根付きつつあった恐れに似た感情は剥がれていく。
自ら助け、自ら指導したせいか、どこかで河野を13歳の少年のままに捉えていた。
正直に話すと、犬束はうんうんと頷いた。
「付き合いが長ければ、そうなるものよ」
「今後は改めます」
「そうね。聡史くんと、真悟くんへの認識は特に」
「神崎も?」
「真悟くんもカナメくんが助けたでしょう。聡史くんと同じじゃないの」
「ああ、言われてみれば」
「あの年頃の子は成長が早いわよ。あっという間に頼もしくなるんだから。今回の件がどう転ぶかによっては、真悟くんも大きく変わるかも」
「そういうもんですかね」
「そういうものよ。……ところで、さっきから何の映像を見ているの?」
湯呑を持って回り込んできた彼女に見えるよう、身体をどかす。
「猪瀬志保の監視映像です。不審な人物がいないか確認を」
「あら、そう。……待って、ストップ!」
声が急に厳しさを帯びた。すぐさま動画を止める。
画面上には、公園の芝生で読書をする猪瀬が映っている。ほかにも一般人がちらほらおり、犬束は猪瀬の右後ろに座っている男女を指差した。
男性は三十代、女性は二十代と見受けられる。ラフな格好で、楽しげにサンドイッチを食べている。
「この二人……」犬束は声のトーンを落とした。
「この二人が、何か」
「男性のほう、左手薬指の根元だけ少し細いわ。いつもは指輪をしてるはず。なのに、この映像ではしてない」
「……」
「不倫ね。この女性、騙されてるわよ」
「……」
一瞬のうちに小さく映った男の手元に注目する視力と観察眼に敬意を表すべきか、真面目なトーンで言う内容ではないと苦言を呈すべきか言葉を探しているうち、昼を告げるチャイムが執務室にも鳴り響いた。
*****
――あ、新顔だ。
出勤の道すがら、猪瀬は背後を歩く者に気取られぬようできうる限り普通に歩く。
いつからか、自分の後ろを歩く者の顔が脳裏に浮かぶようになった。会ったことのあるなしに関わらず、意識さえ集中すれば、ぼんやりと顔が浮かんだ。
気味が悪く、誰にも言ったことはない。真面目に受け取られるはずもなく、言うことで自分の過去が露見するのではと怖くもあった。
前世を忘れるなという天からの戒めに思えた。思い返せば、記憶を思い返したころからこの妙な第六感は働くようになった。昔を思い出せば思い出すほど、背後に立つ者の顔は鮮やかになっていった。モザイクが取れていくように、だんだんと。今でははっきりと顔が浮かぶ。
今日も、一定の距離をあけて自分をうかがっている者がいる。初めて見る顔だった。
意識を集中する。足は止めず、まっすぐに店を目指す。
若い。未成年か、成人して間もないくらいだろう。垂れ目で柔和な笑みを浮かべそうな印象がある。童顔ともいえる。小銭を拾っても律儀に交番に届けるタイプの青年。
ひとつ不思議なのは、気配がしないことだ。これまで幾人かが入れ替わり立ち代わりに自分をつけているが、後ろを歩いている気配はそれとなく感じられた。今日の彼は、気配がいっさい感じられない。意識をそらせば、自分の後ろには誰もいないと錯覚しそうだった。
端末を取りだし、操作するふりをして後ろを映す。姿を隠したのか、誰もいない。けれども、確実にいる。人のよさそうな顔をした青年が、自分を尾行している。
前世の犯罪者を監視する組織。確か、ICTOといった。国立記憶科学研究所と提携していて、世界中の国に存在する。
彼らにそれとなく監視されている。おそらく、近隣で相次いでいる女性の変死事件の容疑者として。
自ら考察して導き出した結果に力が抜けそうになる。ことさら大きく息を吐き、吸った。
大丈夫、前世が前世だから念のために監視しているだけ。容疑が晴れれば彼らはいなくなってくれる。少しの間の辛抱だ。
大丈夫、私が築いてきた居場所が侵されることはない。誰も私の過去を知らない。私が覚えていないふりをすればいい。上手くやり過ごせる。やり過ごさないといけない。
店の前に立つ。もう一度深呼吸し、笑顔を作って足を踏みいれる。背後を歩く男は意識の外に置いた。
「お疲れさまでーす」
「お疲れさまです!」
「お疲れ様です~」
挨拶が飛び交う。広がるいつもの風景に、肩をなでおろす。
入り口付近の席から、土屋梨帆がこちらに手を振った。
「猪瀬さん、こんにちは。今日は遅かったねえ」
「こんにちは。今日は遅番なの。りっちゃん、何かいいことあった? ご機嫌だね」
「えへへー」
梨帆は自らの身体で隠しつつ、背後に向かって指を差した。示す方向に目をやる。
奥まった席。文庫本片手にぼんやりと窓の外を見つめる河野の姿があった。こちらの視線に気づいたのか、彼は顔を動かした。視線がかち合わないよう、梨帆に目を落とした。
「良かったねえ」
「うん!」
梨帆の細く柔らかな髪をひと撫でし、ロッカールームに入った。
売り上げは上々。昼のピークは過ぎた。注文の履歴を確認し、引継ぎ事項を確認する。手早く着替え、メールをざっとチェックする。仕入れ先に発注数の変更をかけ、備品のストックを確認し、事務用品と合わせて発注を済ませる。
バンダナをしてレジカウンターに立った。お香を出し、香立てにセットしてマッチで火をつける。選んだのは緑茶の香り。この香りを、梨帆は特別気に入っている。
「
「はあい。じゃあ店長、9番テーブルさんのオーダーお願いしますねっ」
学生アルバイトの五十嵐は、ポニーテールの髪を揺らしながら笑顔で応じた。やや含みのある笑みの真意を勘ぐり、9番テーブルが河野のいる席だと気づく。
大丈夫。何も起こらない。
彼と顔を合わせるたびに抱いている漠然とした不安を押しのけるように、口角を上げて五十嵐に頷いてみせる。伝票バインダーを手に、その席へと向かう。
「ご注文お伺いします……」
にっこりと微笑むつもりだった。
なのに、声と表情がわずかに固まった。
奥まったテーブル席。河野の向かいに、さっきまで自分を尾けていた青年が座っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます