#73 失策
そこまでして子どもの支援をするのは、今世で何かあったのか。それとも前世で何かあったのか。
河野の問いに、
「ええ。私自身、家庭が貧しくて食べるものに困る毎日を送ったので」
「じゃあ、今の経験からなんですね。前世は関係ない?」
「そうですね、特には関係ないかと」
表情を揺るがすことも、声音がぶれることもなかった。
じっと彼女の顔を見つめる。彼女はこちらを見つめ返し、まだ何かあるのだろうかといった顔を向けた。まばたきのたび、長いまつげが揺れる。
「……すいません、お忙しいときに引き留めてしまって」
「いえ。お作りしておりますので、もう少々お待ちください」
彼女は場が明るくなるような笑顔をひとつ残し、戻っていった。
店長、と厨房から呼ばれ、通る声で返事をする姿を見送る。
にぎやかな店内。静かに流れるクラシックピアノの音色。壁に取りつけてあるコルクボード。笑顔の子どもたちの写真。たくさんの手紙。
勘違いならばそれで良い。取り越し苦労であれば良い。そう思いたくなるほどには、猪瀬志保に対して抱いた印象は良かった。
「今の人、気になるんですか」
おずおずと、斜め前の神崎が問うた。何の気なしに質問した
「別に。人のためにそこまでできるのが凄いと思っただけ」
「確かに、すごい行動力ですね。店を出すんだから」国見は再び店内を見回して同意した。
席はほとんど埋まっている。工場や倉庫街が近いこともあり、客は働き盛りと見える男女がほとんどだ。これが学校の終わる時間になれば、そっくり子どもたちと入れ替わるのだろう。
会計を済ませているビジネスマン風の男二人組が目に入った。端末を手に持っている男のほうが、レジ前のかごから黄色の色紙を取って提示する。ウェイターは頭を下げ、「チップ1000円分、加算させていただきます。よろしければこちらにお名前とメッセージをどうぞ」と小さな長方形の紙とペンを差しだした。
男は何事か書き、会計を済ませて出ていった。彼らを見送ってから、ウェイターは男の書いたメッセージカードをコルクボードに貼りつけた。
希望者はメッセージを残し、子どもたちもどんな人が支援してくれているかが分かるシステムらしい。常連であれば子どもたちにも名前を覚えてもらいやすいだろう。どこの誰か分からないより、名前が分かるほうが良いのだろうか。単に、人とのつながりを意識させたい猪瀬の主義によるものか。
とりとめのないことを考えているうちに料理がサーブされた。
河野は人気のバゲットサンドを頼んだ。切れ目を入れたバゲットにレタスや玉ねぎ、ピーマンに薄くスライスされた人参、ピクルス、アボカド、オリーブが入っていてボリュームがある。一口でかぶりつくのが難しいくらいだった。酸味のきいたドレッシングとバゲットに塗られたクリームチーズのまろやかさがよく合っている。
国見と神崎は生姜焼き定食を頼んでいた。彼らも旺盛に食べ、見ているこちらが気持ちよく感じるほどだった。
食事中は他愛もない話を交わした。河野はそこで、神崎が買った豆苗は必ず再生栽培するタイプだということと、国見の睡眠時間がだんだんと伸びてきており、不眠によるクマが薄くなりつつあることを知った。
先に二人を車に戻らせ、一人で会計を待つ。前の客に対応しているのは猪瀬だった。レジ前のかごを見る。金額ごとに色分けされ、上は5000円、下は500円と幅があった。色は上から紫、青、赤、黄、白、黒。意味のある序列か思考を巡らせ、冠位十二階の色分けと同じだと気づいたときには自分の番になっていた。
迷わず紫の色紙を取り、彼女の前に出す。猪瀬は驚いた顔を浮かべた。
「いいんですか、こんなに」
「置いてあるってことは、その額を出してもいいんでしょう」
「そうですけど……5000円も出す人、なかなかいないし、初めてのご来店ですよね」
「……初めての客は500円から、ってルールでもあるんですか」
「いえ、そんなことは」
恐縮する彼女に、自分の物言いがいささか
とりなすように口調を和らげる。
「冗談です。お店の活動に賛同したので。食事も美味しかったです」
口角をぎこちなくも上げてみせると、猪瀬は安心したように顔をほころばせた。
「本当ですか、嬉しいです。これからも頑張ります。あ、良かったらこちらにお名前と、メッセージを」
白いカードとペンを受け取り、コルクボードに目をやった。
「環境に負けないで頑張ろう!」「つらいときは大人を頼ってね」「いっぱい食べて大きくなってね」「大人になったあなたが、誰かを助けられますように」。
連なる言葉を読む。添えられた名を見る。
ペン先を彷徨わせてから、「また来ます」と書いた。河野、と苗字だけを添える。
「かわの様、ですか」
「コウノです」
「失礼しました。では河野様、チップ5000円加算させていただきますね」
彼女が笑う。目じりに笑い皺が刻まれ、いっそう印象を優しげにする。口元のほくろの脇に、えくぼができる。
会計を済ませ、見送られて出入り口に向かう。ドアを開いて店に入ってくる少女とすれ違った。見目からして小学生と思しき彼女は、学校指定の鞄を背負っていた。
「猪瀬さん、こんにちは!」
「りっちゃん、こんにちは。学校、今日は早いの?」
「うん、午後から先生たちがキンキューで会議するって」
少女は猪瀬にずいぶん懐いている。午前中の授業で先生に褒められたのだと嬉々として語るのが背後で聞こえた。
静かに店を後にする。彼女の学校で行われる緊急会議とやらは、頻発している連続変死事件にいかに児童を巻き込ませないかの対策会議だろうと思いながら。
*****
翌日、神崎は屋内訓練場のフィールド上で犬に頬を舐められていた。
犬種はグレートピレニーズ、体高70cm、体重60kgほど。ふさふさの毛をまとった白い大型犬は、倒れこんだ神崎を心配するように見下ろし、しっかりしろと言わんばかりに神崎の左目の下、傷になった部分のあたりを懸命に舐めている。
『カン
「頭がぐわんぐわんする」
耳に、
いいなあ、犬と会話できるなんて。それに、いろんな犬種を出せるのもいい。この前出て来た仔犬のボーダーコリーは可愛らしかった。
ぼんやりと考え身体を起こす。相対していた
「もう一度お願いします」
「いいだろう。動きは良くなった。あとはとっさの判断力だな。アレース、頼む」
『フィールドを展開します』
壁が一気にせりあがる。視界が塞がり、耳を澄ます。人の気配を探ろうとする。
開始の電子音が鳴るとともにグラインで浮きあがる。中倉の姿を認めるやいなや、刀を振って風を飛ばした。彼は即座に見切り、浮上して躱す。落下すべくグラインの動力を切ったのを見、神崎は壁の上に着地し、落下地点に向けてもう一撃放つべく構える。しかし、中倉がピリオドを発動させるほうが早かった。
視界が反転する。神崎の目の前に、逆立ち状態の中倉が映る。
床は上にあり、天井は下に。一歩踏みだせば、自分の足が上から伸びている。
「くっそ、酔うッ」
思わず口から愚痴じみた言葉が零れた。
一定範囲内にいる人間の視覚を反転させる。シンプルながら強烈な能力に、先ほどから翻弄されていた。朝食に食べたトーストが何度も口から出そうになっている。
足元がおぼつかず、気づけば中倉に胸元に滑りこまれて一撃を喰らうのを続けること3回目。実地であれば3回死んでいる。
目を閉じ、全身に意識を集中させる。銃か、素手か。襲いくる危機は自分の第六感が肌をざわめかせて知らせてくれる。中倉から丸見えであっても、多少の攻撃に対処できる自負はあった。
深呼吸し、いつ攻撃が来てもいいように中段の構えを取る。どの方位から来ても、風を巻き上げて威力を殺す。
上級隊員ほど音も立てずに移動する。かすかな音も聞き逃すまいと耳を澄ませる。
ぞわ、と頭のてっぺんが震えた。上か、と弧を描くように刀を振るう。しゅっと小気味よく空気を切り裂いて風が巻き上がる。手ごたえはない。外した。
今度は足先に震えが走る。下だ。攻撃を受ける寸前で動力を切って重力に従い落下したと気づく。次撃に移るべく体勢を整えるも、間に合わない。
しびれを切らして目を開く。逆さまの世界のなかで中倉が眼前で拳を振り上げていた。平時の彼の動きを頭で
彼の左拳を右上腕に受ける。すかさずその手を這わせて絡め取り、彼の左腕が横一文字になるよう押し出す。こうすることで逆の手が動くのを封じられると三澤に教わった。
左手で素早くナイフホルダーをまさぐり、抜き取ると同時に身体に向かって
さかさまの世界で、ナイフが転がる。手ごと叩き落とされた。
「ナイフで逆転を試みるより、銃で連撃を加えるほうがいい。こういうふうに」
その言葉を聞くが早いか、腕と足、胸に鋭い衝撃が走る。制服がペイント弾にまみれる。四度目の死、と胸中で文字が踊る。
『神崎隊員、胸部・脚部・上腕部負傷。終了です』
アレースの声が響き渡ってブザー音が鳴る。壁が床に吸いこまれ、視界も正常に戻る。目まいが襲い、瞳を閉じてやり過ごす。
「新人にしては良い動きをする」
中倉の声がする方向へ礼をした。「……普通の隊員としてはどうでしょう」
「これくらいでやられては困る」
ですよねえ、と脱力する。もう少し粘らないと、班行動で足を引っ張るばかりになりそうだ。
『カン太さあー、新しい技編みだしたら?』
呑気な門脇のハスキーボイスが耳に届く。彼女のほうを見やる。
今日もばっちりとメイクをし、ダークチェリーの長い髪は低い位置でサイドテールにしている。彼女の横にグレートピレニーズが座り、その脇に永田と小平が立っていた。永田がひらひらと手を振っている。会釈で返す。
「試してはいるんだよ」
『例えば?』
「前後に並んだマネキンの、前にいるヤツを斬らずに後ろのだけ斬る、とか」
『すごっ』永田が笑った。『石川五右衛門みある』
「それがまだ習得できてなくて、毎回二体ともダメにしちゃってるんですけど」
『会得できたらすごく有用だと思いますよ。必殺技みたい』と、小平。
「中村さんに『習得したら技名つけて叫んで繰りだせ』って言われてます」
『なにそれ、ウケる。漫画じゃん』門脇の声に賛同するように、わん、とグレートピレニーズが鳴いた。
酔いがおさまった頃合いで中倉から指導を受ける。近接戦の反応は褒められたものの、いきなり姿を見せるのは悪手だとたしなめられる。
相手の能力が掴めないうちは
「神崎の能力はまだ射程が短い。刃の攻撃も10mかそこらだろう。下手に出ていって避けられるより、引きつけてデカい一撃を喰らわせるほうがいい」
「分かりました。ありがとうございます」
『やあ、精が出るな! いいことだ』
だしぬけに、耳をつんざく声がした。
声の主を判別したそのときにはもう、中倉の脇に須賀が立っていた。相変わらず心臓に悪い能力だが、心臓に悪いのは突然視界に現れると耳に響く大声のどちらかよく分かっていない。
「チャレンジは四度、いずれも戦略は変えてきますが決定打には至らず」
手短な中倉の評価に須賀は頷く。「あまり焦らないことだ。試行錯誤を繰り返して見えてくるものもあるだろう。次からは拘束から逃れる演習を重点的にやるように」
「拘束、ですか」
「ああ。縛り上げられる、手錠をかけられる、身体の自由を奪われる。そこからいかにして抜け出すか。……もちろん神崎だけでなく、君たちもだぞ」
一瞬のうちに見学組の元に身を移した彼は、小平と門脇の肩に手を置いたのち、こちらに戻ってくる。コマ送りの動画を見ている気分だった。
『何かありましたか』小平が尋ねると、須賀は頷いた。
「例の連続変死事件、拘束系のピリオド保有者が絡んでいるのが塩原の見立てだ。俺も賛同する」
『それらしい容疑者は挙がってないんすか?』永田がピアスを弄りながら聞く。
「ああ。ただ、今しがた藤村から連絡があった。江戸川区で発見された首つり自殺をした女子大生に、ピリオドを使った痕跡があったそうだ。それに昨晩、江東区で空き家を焼く火事があり、焼け跡から遺体が発見された。若い女性と見られている。死因は焼死で、ピリオドの
「ミス?」 オウム返しをする。須賀が人差し指を立てた。海外俳優ばりの所作も彼にはよく似合う。
「ずいぶん昔ながらの方法で着火したんだ。マッチを使っている。燃えさしが現場に残っていた」
『マッチ? 懐かしっ。カン太は知らないでしょ』
門脇の言葉に反論する。「知ってるよ、さすがに。使ったこともある」
学生のころ、友人と興じたキャンプで使ったのを思い出した。瀬名が「俺は前世で使い慣れてんだ」と持ち込んだもので、豪語するだけあり彼の手つきはスムーズだった。それに反して、神崎は着火にずいぶん手間取った。
『今、あんまり流通してないですよねえ』小平の独り言に中倉が答えた。
「アウトドア好きには愛用者も多いと聞く。ライターと違って誤って着火する危険性が低いのが利点らしい」
『へぇ、そうなんだ。マッチだと犯人が絞り込みやすいんすか』
永田の問いに、須賀は頷く。
「先端の赤い部分には
「了解です」
拘束やそれに類する能力を持つ隊員を思い浮べ、近いうちに手合わせしようと算段を取る。そして、須賀の博識にも驚かされた。神崎はマッチの先端に何が含まれているのかもよく知らずに、ただ擦れば火が出るものとしか認識していなかった。
キャリアを積むとこういった知識も身につくのかと尊敬のまなざしで見ていると、永田もまた感心した声を上げた。
『さすがは元消防士。俺、マッチの構造なんて気にしたこと
その言葉を受け、須賀は苦笑して言った。「俺のころは、マッチで放火する不届き者が多かったからな。自然と詳しくもなるさ」
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