#72 訪問
「あなたの心は、枯れかけの花のような状態です」
医師は優しげな表情を浮かべ、眼前の患者を見た。
枯れかけの花。
唱和する声は小さい。噛んで含めるように細くもあった。目はこちらを見ず、白い壁を見つめている。
その様子を気にせず、医師は続ける。
「ええ、そうです。枯れているわけではない。持ち直すこともできます。今の土壌ではそれが難しいだけです。
呼び水の言葉に患者は反応した。
どうしてそれを、と言わんばかりの顔でこちらを見る。
自らに向けられた言葉が、誰にでも当てはまる陳腐な文言であることには考えが及ばないらしい。患者のその安直さを、医師はたいそう気に入った。
「心当たりがおありのようですね。振り返ってみましょう。あなたが昔やりたかったことです。前世を思い返しましょう。何がしたかったですか。どうしてできなかったのですか。誰に、何によって妨げられましたか。遡臓に手を当てて、よく思い出して」
ことさらにゆっくりと舌に言葉を乗せて送りだす。
患者は目を閉じ、胸に手をやった。心臓の脇に付属物のようにくっついている、人間が新しく身に宿した小さな臓器に手をやり、過去の記憶に問いかける。
さらに言葉を継ぐ。
「解放しましょう、できなかったことできるようにしましょう。今のあなたはもう我慢をする必要はありません。できないことは何もないのです。さあ、やり残したことを口に出してみましょう」
患者は口を開き、自らの願望を告げた。その願望はたいがいの人間であれば顔を
「では、なぜ前世ではできなかったのでしょうね。よく、ようく思い出してみてください」
ごく自然な動作で患者の両肩に手をかける。患者は薄く目を開け、ぼうっとした目で空を見つめ、視線をゆっくりと下げ、何事かを口にした。
「そうです、それが元凶です。取りのぞくためにはどうすればいいでしょう」
患者の視線に合わせるように、医師は体勢を低くした。目をしっかりと合わせる。茫とした
「ええ、その通り。きっと今のあなたにはできることが増えているでしょう。それがあなたに大きな影響を与え、あなたの人生を一変させる
胸元のペンライトを抜き取り、光を患者の両の目に当てる。まぶしそうにして閉じかけるのを、「逃げてはいけません」という
「じっとこの光を見ましょう。あなたの未来を示す光です。……さあ、目を閉じて。瞼の裏を見てください。次に目を開いた瞬間、あなたは別人に生まれ変わるのです。あなたはそれの正体を知っています。その使い方も知っています」
さあ、開けてごらんなさい。
患者は時間をかけてその目を開いていった。
目を合わせた医師は、「成功ですね」と満足げな笑みを浮かべ、患者の肩を叩いた。
「
患者は恍惚の表情を浮かべて感謝を述べた。「何もかも違って見えます」
「今なら何でもできるでしょう?」
「はい、きっと」
「ただし、人に見つかってはなりませんよ。面倒なことになりますから。……診察は今日でおしまいです。あとは後ろの
患者は後ろを振り向いた。安田と呼ばれた男を見、一瞬、眉を上げた。初めて見る顔だ、と言わんばかりだった。けれども、よくよく見てみると診察に訪れるたびに後ろで控えている看護師であったということが思い出されたのか、すぐに表情は和らいだ。
「定着しましたか」安田が言った。
「もう問題ないだろう」満足そうな笑みを浮かべ、梶井は言った。
「それは何よりです」
「いい囮になると良いが」
「適当なところで
安田は笑みを浮かべて患者の腕を取った。診察室を出、薄暗い廊下に足を踏みだす。ところどころに埃の溜まった廊下を歩き、いくつか角を曲がってから現れた、これまた埃まみれの階段を、二人は下りてゆく。
「あなたのことはずっと見守っていますよ」前を見たまま、朗々と安田が言った。「くれぐれも、黒ずくめの服には気をつけてくださいね」
黒ずくめの服とは何だろう。ぼんやりした頭で患者は思考を試みるも、
階段を下りきる。ビルの入り口、玄関先の照明は電灯が切れていて真昼でも薄暗い。
私はここまでです、と安田は言った。
「では、これまで通り、ご自身を抑圧されることなく好きに生きてください」
にこりと笑みを浮かべて安田は手を振った。
患者の右手は自然と上がり、ひらひらと軽薄な調子で手を振り、足はひとりでに出口に向かった。
一歩外に出る。強烈な日差しが降り注いだ。腕時計を見る。11時を指している。身を任せるように、何かに誘われるように、啓示を受けたかのようにふと思い立ってこのビルに入ったのが10時ごろだった。ほんの少ししか滞在していなかったはずだが、1時間も経っていることに驚いた。
後ろを振り返る。診察室があったあの雑居ビルは姿かたちなく、青いシートで囲まれた工事現場が目の前に広がっていた。
慌てて周囲を見回した。自分は確かに、背後の建物から出てきた。階段を上って廊下を曲がり、診察室で医師の言葉を聞いたはずだ。
奇妙なことに、患者の脳内には、先ほどまで相対していた医師の顔も看護師の顔も思い出せなかった。不気味なまでに、医師の言葉だけが脳内に残っていた。
あなたは別人に生まれ変わるのです。
あなたはそれの正体を知っています。
その使い方も知っています。
そうだ、知っている。いま身体じゅうに満ちているこの
患者は日差しの照りつけるなか、アスファルトを踏みしめた。自分が次に何をすべきかがはっきりと分かった。頭に靄のかかった感覚はすっかり消えていた。
******
支所から車で30分ほど、江東区のはずれに近い場所にその店はあった。
近隣に大きな複合施設と物流倉庫が立ち並ぶいっぽうで、店が面する通りから先には低層の住宅街が広がっている。店を背にして正面を向けば背の高い建物がひしめき、後ろを振り返れば視界は一気に開け、遠くまで空が伸びている。二つの景色のちょうど狭間にある喫茶店は、独特の雰囲気があった。
店の外観を見、国見は「懐かしい」と感じた。昭和――自分がかつて生きていたころにはすでに「レトロ」と称されていた時代――の街中にありそうな店だった。白い壁に黒の木材が映えている。窓枠から下はレンガ材を用いており、温かみがある。
出入り口上部にはアーチ状の看板が取りつけられていた。黒の木材を彫って白いインクを流したそれには「café Sinclairs」とある。
「なんて読むんだ?」英語に疎い国見は、隣の後輩を見やった。昨年まで学生だったのだから自分よりは詳しいに違いない。神崎は首を傾げながらも読んだ。
「シンクレア?」
「違う、シンクレール」
先を行く河野が訂正する。続いて入ると、ドアの開閉に応じてからからと鐘の音が店内に響いた。アルバイトらしき男性が近寄ってくる。いまどき、AIではなく人間が接客するのは珍しい。河野は無言で指を三本立てた。
「三名様ですね、こちらへどうぞ」
案内されたのはカウンターにほど近い窓際のテーブル席。カウンターが
席には注文用タブレットではなく、メニュー表が備えつけられている。河野に一つ手渡すついでに問いを投げた。
「シンクレール、ってどういう意味なんです?」
「人名。ヘッセの小説に登場する」ウェイターの置いていったお絞りで手を拭きつつ河野は答えた。
ヘッセノショウセツ。
ややあってから、「ヘッセという人物が書いた小説」という意味だと理解した。その名は初めて聞いた。横の神崎に目線で問う。彼も首を振った。
「名前は知っていますが、読んだことはなくて」
恐縮して答える後輩。真面目な彼はきっと国語の授業も自分のように寝て過ごすことはなかったに違いない。
ヘッセとやらはかなりマイナーな作家なのではないかと見当をつけた。河野はこちらを一瞥し、付け加えた。
「ヘルマン・ヘッセは20世紀前半のドイツ文学の代表者。彼の『デミアン』っていう小説に出てくる主人公の少年が、エーミール・シンクレール。そこから来たんじゃないの」
彼の言葉に「こんなことも知らないのか」という嘲りの色はなかったが、平然と出てきたところを見るとかなりメジャーな作家らしい。年若い上司の前で無知を晒し、わずかに羞恥心がこみ上げる。
「20世紀前半っていうと、西暦だと、えっと」誤魔化すように言って宙を仰いだ。
「1920年ごろ。第一次世界大戦の時期」
「180年も前に書かれた小説の登場人物なんか、よくご存じですね」
河野はわずかに視線を外した。「店名を見て、昔読んだのを思い出した。小説の中身は忘れた」
河野は頬杖をつき、メニューをめくり始めた。会話はそこで途切れる。
もう一つのメニューを神崎と共有して選ぶ。河野は早々にメニュー表を閉じ、カウンターのほうをじっと眺めていた。そこにいる人物を観察しているようだった。
――聡史くんがお昼、ごはん食べに外出するみたいなの。珍しいわよねえ。
――せっかくだし、
犬束からの直接の連絡には驚いた。こちらの慌てぶりも気にすることなく、電話口の彼女は明るい口調で指示を出した。自分の息子がデートに出かけるのに気づいた母親かのような口ぶりだった。
「班長が飯食いに出かけるらしい」と神崎に告げた際、彼は何かを察した表情を浮かべた。神崎と河野、二人に共通する事案に頭を巡らせて連続変死事件に考えが至り、自然と国見の足は急いた。
河野が第1中隊に転属してきてからここまで、一つの事件に大きく肩入れしたことはなかった。前世のトラウマで感情が大きく揺さぶられた国見にとって、彼の毅然とした態度には劣等感を刺激されもしたし、尊敬もした。
その彼がいま、何かの理由で自発的に行動を起こしている。
おそらくは、理性よりも感情を優先して。
背景に何が横たわっているかは察しきれない。国見は河野が道を見誤らないことを祈った。目付け役として自分と神崎がついてきたことなど、聡い彼であればとうに気づいている。遠回しな犬束の牽制を理解し、感情の
感情の水は、理性の
厄介なのは、その期間が長ければ長くなるほど、溢れる水の量が多いということだ。ほんの些細な出来事――一滴の水が加わるだけですべては決壊し、感情はコントロールを失い身体を支配する。
国見にとっての一滴の水は、かつての父に似た男との対峙だった。
河野にとって、それは何になるのだろう。
神崎が軽く挙手して店員を呼んだ。剣道をやっていただけあり、彼の声はよく通る。呼びかけられた店員はグラスを人数分載せた盆を手にこちらまで来た。
黒いTシャツにデニムのエプロンをつけた女性。肩までの髪はきちんとくくられ、ペイズリー柄のバンダナを頭に巻いている。エプロンの左胸には、白い糸で「INOSE」と刺繍が施されていた。
「お待たせしました、お伺いいたします」
朗らかで
「当店をご利用されるのは初めてですか?」
「はい」神崎が代表して答えると、女性はメニュー表の最後のページを開いた。
「では、料金体系をご説明させてください」
示された部分には子どものイラストが描かれていた。「子どもたちの食を支援するため、大人の方のメニュー料金は割り増し価格となっておりますことをご了承ください」と記載がある。
「当店では、家庭環境や養育環境によって食事を家庭でとることが難しい子どもたちに無償で食事を提供しています。その資金として、料金はやや割高となっております」
そう言われ、写真のボリュームの割に金額設定が高いことに今さら気づく。1割程度の上乗せと思われるが、河野の奢りということで金額まで見ていなかった。
へえ、と神崎が関心の声を上げた。「割増しの分が子どもたちの食事代に?」
「そうです。会計時に募金もできます。カウンターのかごに色紙が入っています。色に応じてお会計に加算できるようになっていますので、もしご興味がおありでしたら、お会計時にご提示くださいね」
「貼ってあった写真や手紙は、支援を受けたお子さんたちからですか」
神崎が入り口付近を指した。大きなコルクボードが掲げられており、何枚もの写真と手紙がピン止めされていた。
「はい。おかげさまで、多くの子どもたちに食事を提供できています」
「……すごいですね」
河野が口を開いた。頬杖をついたまま女性を見上げている。「ネットで見ました。
猪瀬と呼ばれた女性ははにかんで頷いた。「ありがとうございます。少しでも子どもたちの役に立てればいいなと思って」
素敵な考えの女性だ。
国見は素直に思った。前世の自宅付近にこの店があったなら、どれほど助かったことだろう。父は箸の使い方や咀嚼音、表情さえもあげつらっては怒鳴りつけた。ひどい時には拳や平手が飛んできた。そのような環境に身を置かざるをえない子どもにとって、無料で食事を食べられるのは大きな支えになる。栄養面でも、情緒面でも。
「素敵な考えですね」河野は自分と同じことを口にした。
しかし、その目は純粋な称賛のみを孕んではいなかった。
「それほど子どもの支援に熱心なのは、これまでに何か印象的な出来事があったんですか? それとも、前世でそういったことがあったのかな」
彼の口調はいつもと変わらず、静かで平坦で、感情を理性でくるんだものだった。
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