#70 解剖
支所に戻り、死臭の染みついた制服を着替えてから会議室に入った。任せられた調査を終えた班の面々が揃っており、日勤の松川、夜勤前の河野も顔を出していた。全員が揃うと中村が口火を切った。
「警察も気づいているとは思いますけど、拘束されていたにしても抵抗した痕が少なすぎます。動けない状態にされていたのかも」
中村の言葉に松川が眉を上げる。「痛覚はあるけど動けない、的な?」
「たぶん」
「動きを止めるピリオドかあ。それっぽい人、出てないよね」
彼女の問いに絹川が頷く。
「ここしばらくはいません。監視対象にも不審な動きなし」
「怪しいねえ。検知を潜り抜ける方法を知っているのか、共犯がいるのか」
「
「その予定でいる」
崎森は短く応じ、続けろ、と目線で中村に指示した。
「放射状に散っていた髪の毛ですが、真後ろに倒れたにしてもずいぶん綺麗に広がっているうえ、後頭部に陥没は無し」
「確かに、綺麗すぎ。水面に浮かんでいるみたい」
40代目前とは思えないほど見目が若く、10の年の差がある崎森と並んでいても同い年かと見まがう。遊び心を忘れない好奇心旺盛な性格だからこそかもしれない。
中村は「でしょ?」と木島に頷いてみせ、続けた。
「司法解剖は
「トーソンは? 連絡つかなかったの」松川が頬杖をついて問う。
「塩原くんに聞いたら『
見慣れない名が出てきた。誰かと思っていると、玉池が医療部の隊員だと耳打ちしてくれた。
医療チームは各支部に存在するが、司法解剖ができる者や治療面に特化したピリオド保有者は本部と大都市に重点配置されているのは聞いていた。今後も彼らを頼る場面が出るかもしれないと、藤村と塩原という名を記憶にとどめる。
中村は管区内で同様の手口による事件が起こっていないと言及し、同一犯による犯行が起こる可能性に触れて報告を終え、
「検査結果文を読むかぎりは詳細に記憶を取り戻しているようですが、映像照会に踏み切るには根拠が弱いと
村越
あまり仕事熱心なほうではなく、神崎は彼女が「高額当選の宝くじが空から降ってこないかな~」「石油王の遺産相続人に指名された~い」「何かの拍子で国家予算相当額が自分の口座に振り込まれないかな~」と、現実逃避的な言葉を口にするのをたびたび耳にしている。
簡易照会では捜査に必要な情報――現在の性別や前科の有無に加え、前世の性別や犯罪歴、罪状等が開示される。映像照会は遡臓検査映像の開示請求だが、プライバシー保護の壁が厚く、有力な根拠がなければ許可が
「その人、今はどっちですか」
河野が問いかけた。岡崎は目をしばたたかせる。
「どっち、とは」
「性別」
「ああ、今は女性です。前世は男性」
「ふうん」
タブレットに視線を落とす河野の表情を、神崎は無意識のうちに盗み見ていた。
岡崎の報告はそこで終わり、玉池が現場付近の防犯カメラに不審人物は見当たらなかったこと、アパート付近を映したカメラはなかったことを簡潔に述べた。取りまとめた報告は
被疑者が浮かび上がりマークが必要となれば伝令が行くから概要を把握しておくようにと崎森の言葉で締められ、報告は終了となった。
日勤が終わりに差しかかっている松川は大きく伸びをし、その横を河野がするりと通って真っ先に部屋を出て行った。なんとはなしにその背を見送る。
「ジョーったら、夜勤まで時間あるんだからお喋りに興じてもいいじゃんねえ。カンカンもそう思わない?」
「え、あー……」言葉に詰まり、たじろぐ。「忙しいのかもしれないですね」
「松川と違ってきっちりしてるからねえ」木島がからかい口調で言う。「事務作業を隊員に丸投げしたりしないもんねー、河野くんは」
「失礼な、自分のぶんは自分でやってますぅ」
「遠山くんと
「人聞きの悪い、暇そうにしてたから分担しただけ。……あ、ジーマってさあ、弟いるんだよね?」
会話の流れを変えるように松川が言った。おっつけたというのは図星なのだなと苦笑いしてしまう。彼女の話題反らしは慣れっこなのか、木島はさして気にもせず頷いた。
「いるよ」
「成人してる弟への誕生日祝いって何がいいと思う?」
「松川さん、弟さんいるんですか」
初耳の情報に思わず声を上げた。松川はわざとらしくウインクし、ピースサインをしてみせる。
「こんなにしっかり者なんだから長女に決まってるでしょ」
「弟くんカワイソー」
横から中村がからかいの声を上げた。松川はすかさず噛みつく。
「どういう意味かな、それは」
「絶対こき使ってたでしょ。それか力で服従させてたか」
「するわけないじゃん! 優しいお姉さまですから、私」
「本当に優しい人は自称しませんよ」玉池の指摘に中村が笑って続ける。
「小さいころとかさ、水だっつって日本酒飲ませてそう」
「そんなことしないし。……甘酒だって言って米のとぎ汁飲ませたことはあるけど」
「やっば」
「余計タチが悪いじゃないですか」
中村と玉池が呆れた目で見るも、松川は自らがいかに弟思いか熱弁を振るった。けれども、弟がマネジメント会社でタレントのマネージャーをしているという話になると、木島が「あんたがこき使ったからじゃないの、それ」と半ば真剣な顔で言い、傍で聞き役に回っていた絹川までもが苦笑していた。
*****
夜勤を終え、休みを挟んで待機番の日。河野はパソコンに向かい、本部から上がった司法解剖の結果を確認した。
医療部で治療のみならず解剖までマルチにこなす
塩原と河野は同時期に入隊した。彼は2つ年下だから、小平と同い年のはずだ。見目こそ素朴な男子大学生風だが、いったん仕事となるとてきぱきとした動きを見せ、こちらの要望を最大限汲んで最大限の結果を出してくれる。
データを眺める。ところどころに藤村が手書きで加えたとみられるメモが残っていた。彼は意外と読みやすく綺麗な字を書く。元来そうなのか、この仕事をして山のように解剖をし山のようにカルテにメモを加えていった結果そうなったのかは判然としない。
塩原は藤村を評して「顔と字と腕だけは良い」と、とても上司に対してとは思えない発言をしたことがある。それも、本人の目の前で。言われた藤村も藤村で「君はたまに驚くほど不躾で不謹慎だよなあ」と半ば関心の意を込めて言っていた。
互いへの態度がどうあれ、彼らが組んで7・8年が経つのだから、なんだかんだ相性は良いのだろうと思うことにしている。
藤村は入隊から10年近く経つと聞いた。年齢は松川や中村と同じだから、本来ならば中高生くらいから数々の遺体を解剖し、数々の負傷隊員の手当てをしてきたことになる。
それが今の彼を形作ったのだろう、どこか飄々とし浮世離れ感があり、中村と似た部分があるとたびたび感じる。
彼に質問をすると「どっちだと思う?」や「どう思う?」と質問で返ってくることが多く、その性格をよく表している。塩原に何を言われようとも動じず、悪く言えば
簡素でありながらも分かりやすくまとめられた報告書を読んでいく。合間に写真と数値を示す表が付随している。
死因は腹部の刺し傷による失血死。ナイフの刺さった角度および断面の傷から、自殺の可能性は極めて低く、他殺。凶器は断面の形状から包丁であり、現場に落ちていたものとみてほぼ間違いない。致命傷は被害者が横たわった状態で上から刺されたものであり、肺を貫き身体が貫通するすれすれで止まっている。
解剖開始時点で死後40時間程度経過。中村が検視を行った段階で死後24時間から30時間を経過していたと推定。薬物・毒物の反応はなし。クレイウイルス・コロナウイルス等各種ウイルス感染もなし、アナフィラキシーショックの可能性もなし。死後腐敗は進行しているものの、外気温・室温の状況を
細かい切り傷はいずれも生前つけられたものであり、致命傷となる胸部の刺し傷以降、つまり被害者死亡後につけられた傷はない。
胃の内容物から、おにぎりとパンを死亡の数時間前に摂取している。
抵抗が少なすぎるという中村の意見について、図を用いて塩原の解析が付されている。
被害者はかなり発汗しており、特に顔面に皮脂がかなり浮き出ている。涙も大量に流している。
手首には結束バンドを外そうとした擦過傷が見られず、放射状の髪の広がりから推測するに、一定の姿勢で固定された状態で傷をつけられている。
身体は動かせず声も出せなかったように見受けられる。そのうえ肺の損傷で呼吸ができず苦しんだはずだが、身体を動かした形跡が見られない。よって、刺されてから絶命するまで身体は不自由なままであったと考えられる。
流した涙や口から垂れた唾液が首の後ろまで
殺害現場は発見現場で相違ないものの、細かい切り傷は別の場所でつけられた可能性もある。一番古い切り傷がついてから致命傷がつけられるまで、数時間経過している。
報告書の終盤に差しかかる。ある文章が河野の目に留まった。
生前情交の痕跡はなし。ただし、外陰部に裂傷を確認。棒状のもので激しく膣内をかき回したと見られる。わずかながら出血も確認。参考まで、被害者の血液型はA型。被害者以外のDNAを検知できる皮膚片・毛髪・体液等は採取されず。
その部分に矢印が引かれ、藤村の自筆で追記があった。
拘束の能力を有するなら結束バンドは不要。
嗜虐趣味を有する者の可能性?
性的暴行目的?
そこまで読み、呼吸が浅くなったのを感じた。意識して息を深く吸う。ひたひたと歩み寄ってくる感情を、目を閉じて遮断する。
今日の日付、曜日、朝食べたもの、このあと顔を合わせる班員の顔、そして両親の顔を思い出してゆくと、広がりかけた汚泥は音もなく引いていった。
報告書のファイルを閉じる。代わりに、現場付近の飲食店を調べた。岡崎の報告で挙げられた者が経営する喫茶店はほどなくして見つかった。繁盛しているらしく、地元を特集するネット記事で取り上げられている。
『家庭に問題のある子どもたちに無料で食事を提供 オーナーが込める思い』
経済的に困窮している家庭、家庭不和で食事を家で摂ることができない子どものために、その店では子どもに無料で食事を提供しているとあった。子どもたちの食事代を大人が肩代わりするシステムで、大人のフードメニューが若干高めに設定されている。新鮮な野菜をふんだんに使ったサンドウィッチは注文を受けてから作り、野菜が手軽にたくさん取れると人気、とも書かれていた。
オーナーの写真が載っていた。
記事では、家庭環境に恵まれず幼少期に食事に困ることが何度かあった彼女が、調理師の資格を取り都内のレストランで修業を積んだのちに喫茶店を立ち上げるまでの話がインタビュー形式で綴られていた。
記事を読み進める。年に数度ボランティアで出店するイベントでは児童支援募金に協力を呼びかけている。子どもたちからの感謝の手紙を大切に取っておいている。地域イベントにも積極的に出ており、周囲の信頼も厚い。
どこからどう見ても、善人。
だが、明確に前世の記憶を有している。
女生徒につきまとい、性的暴行を加えて殺害した過去。
店の住所を記憶し、ブラウザごと閉じる。
耳が足音を拾った。この歩幅とリズムに該当するのは誰かを考え、予想した人物が部屋に入ったときには河野は表情をすっかり整えていた。
「おはようございます」
「おはよ。ジョーは相変わらず朝から無表情だなぁ」
「生まれつきです」するりと嘘が出た。「松川さんはいつもより遅いですね」
「布団が離してくれなくってさ。熱烈で困っちゃうね」
「ものは言いようですね」
「そういう返しをするところ、うちの弟そっくり」
「米のとぎ汁を飲ませたっていう?」
「ちょっと、誰に聞いたの」
「中村さん」
「ほんっとライトニングは口軽いんだから。これだからB型の男はさあ」
「血液型と性格は相関ありません。それに、松川さんもB型では」
「私は口が堅くて気遣いができるタイプのB型ですから」
「本当に口が堅くて気遣いができる人は自称しないと思いますけど」
「ボールボーイと同じこと言うね」
羽織っていたジャケットを脱ぐ松川が非難がましい目を向ける。その視線から逃れるように、窓の外を眺めた。
これほど天気が良い日なのだから、外に食べに行くのも悪くない。
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