#69 検視

 こちらに気づいて目をしばたたかせている神崎に、沖野は軽く会釈をした。向こうも慌てて返す。三吉がふたりを交互に見やった。


「顔見知りか」

「ええ、高校は別ですが同じ剣道部で。何度も大会で顔を合わせていて」


 一回も勝てませんでしたけど、という言葉は飲みこんだ。

 へえ、と興味深そうな声を上げたのは三吉の横に立っていた軽いノリの男だった。中村と呼ばれていた彼は神崎と同じくらいの背格好だが、年は上に見える。黒い不織布のマスクをしていて、ICTO隊員だと言われなければその辺にたむろしている若者と大差ない。


「状況は?」


 神崎の後ろにいた三人目の男が三吉を向いて声をかけた。三吉とそう変わらない上背の短髪の男が、最年長で指揮権を持っているのは何となく分かった。三吉とも既知の間柄らしく、ああ、と彼は頷いて軽く説明する。

 そのあいだにも中村は遺体の状況をつぶさに確認し、ところどころで神崎に指示して写真を撮らせている。

 三吉は遺体の周囲を指ししめし、指揮権を持つ男に告げた。


「ブルーシートとラグを置いたあたり、用意周到だ。この切り傷もうちの管内で上がった仏さんにはなかった。近隣の防犯カメラを当たる」

「あまり期待できないだろうな」男はにべもなく言った。「見たところダミーが多かった。この時代に偽名で部屋を借りられるんだ、防犯に手を入れている管理会社とは思えない」

「ま、念のためってとこだ」

「崎森さん、始めますけど何か気になることあります?」

「特にない」

 了解、と応じて中村がこちらを向いた。ぴたりと目が合う。

「ねえ、名前は?」

「学生証には滝澤彩友、と。城東学院高等学校の生徒のようです」

「いや、君の。あ、こっちが名乗るのが先か。ICTO東京第1中隊の中村です。後ろにいるのが鬼上司の崎森」

「東京湾岸警察署刑事部第一機動捜査隊の沖野です」

「よろしく。悪いけど、神崎は臨場経験少なくてさ。教えながら進めさせてくんないかな」

「構いません。こちらこそよろしくお願いします」


 自分が脇に座っていると邪魔になると思って彼に場所を譲る。

「沖野、立ち会っていてくれ」

 三吉は言い残し、崎森とともに部屋を出ていった。

 始めますかあ、と中村は誰ともなしにつぶやき、小気味よい音を立てて両手を合わせ、目を閉じ、死者の冥福を祈った。神崎もならい、沖野も事件現場に入って初めて、横たわる彼女のために目を閉じた。

 黙祷を終えた中村は、まずシャツをめくり腹部を確認した。


「腹部が青藍に変色、腐敗が始まってる。腹が割れてないから始まったばかりだな」

「割れる?」オウム返しをする神崎に、中村は変色した部分を指した。

「腹は人間の身体ん中で2番目に腐敗が始まるのが早い。ガスがたまって腹が膨らんで、皮膚を突き破る。特殊清掃の業者なんかは『腹が割れる』って言う」

「割れたら、そのガスと血液が出てくるんですか」

「そう。出てくる、ってよりは噴き出す、って感じ。こういうフローリングなら、一気に体液と血液が飛び散る。それを防ぐ目的でラグとブルーシートを敷いたんだろうな。下の階に漏れて住人に気づかれないように細工した。遺体がどうなるか頭に入っている奴の犯行。行き当たりばったりじゃない」

 次いで中村は、見開かれた眼球を指した。

「最初に腐敗が始まるのは目。死んで眼球の水分が抜け落ちると、死臭を嗅ぎつけたハエが卵を産みつける。卵は24時間で孵化ふかして蛆虫うじむしになって、蛆虫が遺体を食って成長してハエになってまた卵を産みつける、の繰り返し。蛆虫の体長を測れば、何度目の産卵で孵化したのか見当をつけられる。逆算すればおおよその死亡時刻も分かる。この子はハエがたかっていないし死後硬直も完全に取れてない。死後24時間から30時間かそこらかな。気温と室温にもよるから、詳しくは司法解剖待ちだね」

「致命傷は、腹部の刺し傷でしょうか」

 沖野が出刃包丁を示し、その指を遺体の腹部にスライドさせる。中村は首肯した。

「たぶんね。血の付着場所と傷からして肺まで到達してる。刺すときに躊躇ためらった形跡も、この子が抵抗した形跡もない。強い殺意を持ったうえで、この子を動けない状態にしてグサリ。ただ、場所的に即死には至らない。肺から空気が抜け出てかなり苦しんだはず」


 苦しみに目を見開いた姿を想像し顔をしかめる。中村は気にせず続けた。こういう遺体を何度も目にしているのか、動じる気配が一切ない。

「深く刺した傷は他にないな。傷をつけていたぶってから殺したかも」

「切り傷は、生前につけられたものですか」神崎が問うと、中村は足の傷の一つを指差した。

「ここ、カサブタになってるだろ。こっちは化膿してる。こういうのは治癒反応っつって、できる」

「生きていないと、起こらない?」

「そういうこと。細かい傷を生きた状態でつけて、包丁でトドメを刺した」さらに、手首の鬱血痕を一瞥して付けくわえる。「手首もかなり強く締められてる。麻紐とか荷造りロープ特有の編み目もないし、鬱血の幅も狭い。……結束バンドだろうね。包丁も結束バンドもラグもブルシも、全部ホームセンターで手に入る」


 ラグの種別が分かれば、販売場所を特定できる。購入履歴から不審人物をピックアップできるかもしれない。周辺の防犯カメラに犯人が映っていれば、似た人物を特定できる。


「別の場所で切り傷をつけて、ここに連れこんで最後の刺し傷を負わせたんじゃないかな。治りかけの傷もあるし、本人も歩けはしたはず。どれも皮膚の表面部分しか切られてない。痛覚を刺激したくて切った、って感じだ」

「ですが、靴底には土が付着しているのに下足ゲソコンは残っていません」

 キッチンから部屋にかけて、土足で踏み入ったなら足跡が残る。だがフローリングは綺麗だった。沖野が呈した疑問に、中村は玄関を見やる。

「土足で上がらせて犯人が床を拭いたか、殺した後に靴を履かせたか、この子を抱えて入ったか……最後のひとつだとしたら犯人は男と断定できるけど。ここ、エレベーターないし」


 その後も中村は検視を続けた。

 死斑が暗い紫赤色。よって毒物による中毒死ではない。色が比較的薄いため、死因は失血死が濃厚。死後に別の場所から移動してきたのなら死斑の出方が異なるが、この遺体には見られない。十中八九、この部屋で殺されている。

 沖野が一見しただけでは辿り着くことのできなかった事実がだんだんと明らかになっていく。中村の目には遺体を通して様々な可能性が提示されては明滅していて、絶えず取捨選択を繰り返しているのだろう。手際の良さもさることながら、すらすらと所見を述べるところに彼の経験の深さが垣間見えた。

 人は見かけによらない。この仕事をしているとよく思い知らされる。神崎も感心したように彼の説明に耳を傾けている。

 あらかたの検視を終えたころには三吉と崎森も部屋に戻ってきた。どうだった、と尋ねる三吉に、沖野はかいつまんで説明をした。


「ねえ沖野くん、このアパートって防音?」

 中村が問いに、頷く。

「はい、楽器の持ち込みを許可しているだけあって、その辺はしっかりしているようです」

「声も漏れづらいか。隣も気づかねえかもなあ」

 中村が思案するなか、崎森が手元のタブレットに目を落としたまま声を発した。

「異臭がするっていうクレームが出てたんだろ?」

 そうだっけ、と言わんばかりに中村が首をかしげて見てくるので代わりに答える。「ええ、管理会社にそういう電話があった、と」

「気密性が高く、見たところ壁も厚い。死んでそう長く経ってない。本当に苦情を入れるほど臭っていたのか確かめたほうがいい」

「通報直前に人が出入りしていたセンも考えられるな。もしくは通報自体が自演か」


 三吉が手帳に何事かを書きつけた。経験豊富な三吉より先に気がつくあたり、崎森もかなり切れ者らしい。

 神崎が抑えめの声で中村に問う。


「腐敗が進行しているのに臭いが漏れないこともあるんですか」

「高級マンションは気密性が高い。部屋の間取りが広ければ気づかれねえよ。2年間見つからずに白骨化してた例もあるくらいだ。……まあ、この間取りなら遅かれ早かれ見つかるだろうけど」

 そこまで言い、中村はだしぬけに崎森を振り向いて言った。

「ねえ崎森さん、俺、昼は焼肉が食べたいな」

「好きに食えば」


 眼前で交わされるやり取りに、沖野はぎょっと目を見開いた。

 死臭の満ちた室内で、遺体の検視を終えるなり肉を食べたいだなんて、この男の頭はどうなっているのだろう。人間としての感性に欠陥があるのではないか。

 感情が視線に乗って、引いた目で彼を見ていたことに気づき慌てて視線をそらす。

 三吉は「お前は相変わらずデリカシーがないな」と呆れていた。平時からそういう性質たちらしい。

 そっと神崎をうかがうと視線がかち合った。すいませんうちのが、と言わんばかりに彼が軽く会釈をするので、こちらもあいまいに返す。

 彼らは一通りの作業を終え、三吉に懸念事項を告げたのちに遅れてきた鑑識と入れ違いに現場を出て行った。

 ようやく到着した検視官により改めて検視が行われたが、いずれも中村の出した結論と相違なく、彼の所見の正しさを証明したに過ぎなかった。






 *****







「沖野くん、俺にドン引きしてるの全ッ然隠さなくて面白かったな」

「あの場でああ言ったら誤解されますよ、そりゃ……」

「別に誤解じゃないだろ」

「後ろからすげえ失礼な言葉が聞こえた気がするけど幻聴かな」


 神崎はエアコンの風量を最大にしてからハンドルを切った。免許を取って日は浅いが、慣れるために積極的に運転役を担っている。道を覚えるには自分で運転するのが一番、という運転巧者の中村のアドバイスを受け、自動運転はあまり使っていない。

 その中村は、崎森に検視内容のメモを後ろ手に渡してから耳に手をやった。


「ザキさん、どう?」

『類似の事件は過去にいくつかありますな。強殺ごうさつ、計画殺人、性的暴行と目的も様々ですぞ』

 カースピーカーから岡崎おかざき辰哉たつや3級隊員の声が届いた。崎森班最年長、狙撃手を担う彼の朗らかで優しい声が物騒な言葉を次々と紡いでいく。

『特に怪しいのが1件。女学生へ付きまとい、性的暴行を加えて殺害した男の生まれ変わりが近隣に住んでいますな。現場から車で30分圏内ですわ。データ送っておきます』

「ありがと。他はどうしてる?」

『玉池少年は絹川さんと近辺の監視カメラの確認を、木島きじまさんはいま言った人物の身辺調査、新山にいやまさんは記憶研の資料を確認中です。戻られるころにはあらかた揃うかと』


 ICTO内には前世犯による犯罪捜査を請け負う専門部署があるが、警察ほど人が多くない。今日のように彼らが出払っている日は待機番の班が臨場と初動捜査を行い、報告を回す。類似の事件が過去に起きていないか、当事者が付近に住んでいる可能性はないか、他に異能を引き起こしそうな前世を持つ者はいないかを調査し、時に遡臓検査の結果を引っ張り出し、必要があればマークする。だがプライバシー保護の観点から、当該案件に関係が深いと証明されない限り検査内容は開示されない。

 前世の影響で罪を犯してしまう者にも、記憶を思い出したばかりの者や、記憶を混同しがちな子どもも含まれる。ピリオドこそ表出せずとも暴行や器物破損に走ってしまうケースもある。


 崎森班は警察と合同捜査をする際、待機している班員との意思疎通に符丁ふちょうを用いている。発するのは検視もできる中村が主であり、先ほど沖野が冷めた目線を送るに至った発言がまさにそれだ。

 異能犯罪者による犯行の可能性あり、異能犯罪者と行かずとも前世犯の累犯るいはんかも、どちらとも言えない、前世犯の可能性は薄そう。4つの基準は順に「焼肉」「寿司」「カレー」「食べない」といった言葉が割り振られ、で中村が発し、内容に応じて待機班員が動く。

 警察とかち合うことが多く、なおかつ大半の警官はピリオドという異能の存在すら知らない以上は符丁を用いるのは合理的と言えるが、他にもっとふさわしい言い回しがあるのではないかと神崎はたびたび思っている。発案者が崎森なのか中村なのか、昔からこういう習わしなのかは分からない。

 岡崎との対話を終えた中村に、苦笑ぎみに話す。


「沖野くんの中で、中村さんがヤバい人認定されるのはなんとなく座りが悪いです」

「俺は別に気にしないけど。次から代わる?」

「……それはちょっと」

「だよな。神崎とか崎森さんだとガチな響きするじゃん。言うなら俺か玉池カズでしょ」

『僕をそっちのくくりに入れるの、やめてもらえますかね』

「あ、聞こえてた?」

『さっきからずっと』

「無邪気な子どものフリすりゃ大丈夫でしょ」

『事件現場に臨場する子どもが無邪気なわけないでしょう。あれは中村さんだからこそできる芸当ですよ。デリカシーねえ奴だなこいつ、で済んでいるのは中村さんが常日頃からデリカシーない雰囲気を振りまいているおかげです』

「俺はいま軽く遠回しに馬鹿にされてるのかな」

『どちらかというと称賛ですけど』

「嘘つけ」


 他愛ないやり取りを交わす二人をよそに、神崎はアパートで見た内容を思い出していた。

 異能犯罪者による犯罪の可能性。

 何かが中村の目に引っかかった。ピリオドを有する者が関連する何かがあの場にはあった。一体それは何だろう。

 考え込んでいたせいで、「止まれ」の標識を見逃してしまった。目ざとく崎森が気づき、気をつけろ、と咎める声が飛んでくる。


「指定場所一時不停止、警察に見つかったら減点2点、罰金7000円」

「すみません、考え事してました」

「勤務中に違反切られたら松川の運転する車で都内一周な」

「気をつけます……」 

 運転の腕において悪名高い松川の名を出され背が凍る。中村が横で伸びをしながら言う。

「かもしれない運転だよ。無しが後ろに乗ってるって想像してみな。違反する気も失せるだろ」

 無し男、つまりは句読点無し男――句読点を挟む間もなく喋り続ける井沢隊員――を後部座席に乗せている想像をする。

「違反したら小一時間はなじられそうですね」

「あ、無し男で通じた」

「河野さんに教えてもらいました。中村さんは乗せたことあるんですか」

「あるよ、一回だけ。喋りっぱなしでウザかったなあ。運転しながらずーっと考えてたよ」

「何を?」

「後部座席だけ大破するように事故る方法」


 思わず笑いそうになり、不謹慎だと考えなおして口を引き締める。だが彼にはお見通しだったようで、すげえ変な顔してんぞ、と茶化された。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る