#68 臨場
先輩の
「腐敗が始まっているな」
三吉の言葉に首肯する。彼のあとに続いて部屋に足を踏みいれた。
高校を早めに卒業し、警察官になって1年と少し。前世の職歴を買われて機動捜査隊に配属されたが、何度経験しても事件現場を訪れるときは緊張が走る。
江東区、駅から離れた単身向けの3階建てアパート。異臭がするという苦情を受け、管理会社が臭いの元である最上階の角部屋を借りている男に連絡を取ったが、登録番号はいずれも不通。不審に思った管理会社が警察に通報し、至近の交番より巡査1名が駆けつけ、立ち合いの元で管理会社社員がマスターキーで解錠した。
ドアを開けると強烈な臭いがし、居室のど真ん中に人が倒れているのが見えたという。呼びかけに応答はなく、巡査が室内に入り死亡しているのを確認、すぐさま応援要請がなされ、三吉と沖野が初動捜査に臨場した。
到着するとまず、巡査が三吉に現状を報告した。彼も年若い巡査をねぎらうのを見たところ、顔見知りのようだった。
三吉は顔が広い。30代に足を踏み入れた年のころと記憶しているが、10代から奉職していて情報網が広い。
180cmをゆうに超える上背に切れ長の目、低めの通る声は時に一般市民を怖がらせる。そのため、背も高くなければ威圧感もなく、礼儀正しい好青年という印象を与え、かといって三吉の足手まといにならない程度は捜査能力を有する沖野が相棒に指名された。
彼からは学ぶことも多く、また沖野の経験の浅さゆえの着眼点が三吉に買われることもあり、それなりに良い関係を築いている。
入ってすぐは3畳ほどのキッチンで、整然と片付いていた。使った形跡が見られないと言ったほうが正しい。調味料や鍋はなく、シンクもぴかぴかだ。玄関脇には洗濯機用の防水パンがあるが、洗濯機はない。
右手には段差があり、左に洗面台、正面にドア(おそらくトイレだろう)、右に浴室の扉。浴室のドアを押し開くが何もない。水滴一つ落ちていない。トイレもこざっぱりとしていて、トイレットペーパーもなかった。洗面台も同様で、人が住んでいる形跡がまるでない。
三吉は遺体のそばに腰をおろし、状況を確認している。沖野も居室に入った。12畳のフローリング。エアコンは稼働しておらず、窓も締めきられ暑さがこもっている。背に汗が滴り不快な気分が加速する。
家具の
若い女性。髪は長いが結ばれておらず、水に浮かんでいるかのように放射状に広がりを見せている。服を着、靴も履いている。紺色のポロシャツ、黒と灰のチェック柄フレアスカートに黒のソックス、濃茶のローファー。高校生くらいに見受けられる。
遺体は大小細かい
毛足の長いライトベージュの丸型ラグの上に横たわっており、さらにその下にブルーシートが敷いてある。ラグには遺体から漏れでたと思われる体液や血液が浸潤しており、一部変色している。
目は両目ともに見開いていて天井を
「沖野、見ろ」
手招きされ、寄って腰をかがめる。腰付近に、衣服で隠されるようにして1本の出刃包丁が落ちていた。乾いた血が刃の中ほどまで付着している。
三吉は慎重にシャツをめくった。固まった血痕と、刺し傷が1か所。致命傷であることを物語っている。凶器はこの出刃包丁に違いない。
首を絞めた跡はない。死因は腹部の傷による失血死か。両手首には何かで拘束されていたような鬱血痕があった。
「ひでえやり方だ」
絞り出すように三吉が言った。今年娘が生まれたばかりの彼にとってはさぞ
中にはタブレットや端末が入っていた。財布から金やカード類を抜き取られた形跡はない。一緒に入っていた学生証には、持ち主であろう女性の名前と顔写真があった。
腐敗が始まり死臭を放つ遺体の、天井を見つめている光を失った顔と見比べる。本人の可能性が高い。
「
「頼む」
連絡を取ろうと端末を取ると、ぴりり、と電子音が響いた。三吉の端末が着信を告げている。
「はい。……はい? 遅れる? そうですか。……いえ、検視できる者が来るならありがたい。誰のところです? 了解です、はい、知っています」
自らも報告を済ませつつ、やり取りに耳を傾ける。何が遅れるのだろう。
手早く通話を切りあげる。三吉を伺うと、彼は察して口を開いた。
「鑑識と検視官が遅れる。途中の国道で玉突き事故が起きて怪我人が出ている」
足痕を採取し、写真を撮影する鑑識係と事件性の有無を判別する検視官。彼らが遅れれば、初動捜査に遅れが出る。表情の曇った沖野に、三吉は継ぐ。
「近隣で密行していたICTO隊員が3名、今から臨場する」
「え?」
ICTOが臨場する場は限られているではないか、と沖野は
前世の記憶を思い出し、それを契機に法を犯す者を「前世犯」と呼んでいる。前世犯の逮捕・捜査は警察ではなくICTOが主導権を握っている。
彼らは特別司法警察職員に分類され、警察官同様に逮捕権を有している。少し前には浅草寺で前世犯が女子高生を次々に襲う事件があった。ICTO隊員によって犯人が確保されたのは記憶に新しい。
途中まで警察が捜査していた件でも、前世犯の可能性が出ると合同捜査になったり、そのまま捜査権が移譲され、警察が手を引いたりもする。
とはいえ、彼らが初動捜査から加わることは珍しい。警察の捜査で前世犯の可能性が出てから本腰を入れてくるのが
首をかしげていると、三吉は付け足した。
「最近、都内東部を中心に若い女の変死が相次いでいる。死因は様々だが、向こうさんの領域らしい」
「前世犯による連続殺人ですか」
「そのうち合同捜査になるかもな。臨場する3人の中に医師免許持ちがいて、簡単な検視もできる。もう間もなく到着するそうだ。……そういやお前、ICTOの奴と顔を合わせるのは初めてか」
「ああ、そういえば……」
「刑事課の連中から悪口吹き込まれいてるんじゃないか?」
三吉は立ち上がり、室内の観察を始めた。その言葉にどきりとする。図星だった。
警察からICTOに捜査権が移譲することを「いいとこどり」だとして反感を抱いている者は多い。
だが、沖野はその考えには反対だった。前世の存在により犯罪捜査は一変した。一般人の犯罪に絞っただけでも容疑者が複数いる。前世の記憶が動機である可能性があれば捜査範囲は広がりを見せる。人員不足が叫ばれるなか、現行の人数で前世の記憶まで考慮して捜査を進めるには無理がある。だからICTOが介入する。
ICTOは前世で罪を犯している者を監視する役も担っているうえ、採用基準は警察のそれより格段に厳しく、人数は警官よりも少ないと聞く。初動捜査から加わることが難しいのは少し考えれば分かる。それらを考慮せず、自分たちの功績を掠め取る略奪者としか見ることのできない一部の先輩たちの了見の狭さには呆れていた。
とはいえ、今では認識を改めている沖野も、噂を聞いた当初は少なからずICTOに嫌悪感を抱いた。それが、ある人物とのやり取りで彼らに興味を覚え、調べ、知っていくうちに認識が変わった。
神崎真悟。高校時代、他校で同じ剣道部だった男。沖野は3年間一度も勝てなかった。
彼の剣筋の迷いのなさは高校生離れしていた。どんな攻撃を仕掛けられても正確に見切って対応する動体視力と身体能力もあった。彼が敗れる試合はほとんどが相打ちによるもので、コンマ何秒の差で相手方が先に打突をしたゆえの惜敗だった。彼が綺麗に一本を取られるところは見たことがない。
性根もまっすぐで尊敬できた。剣道誌に将来有望な高校生として記事が上がったことがあり、インタビューの受け答えから実直で真面目な人柄が連想された。いつだか、喫茶店でたまたま出くわしたときも礼儀正しい態度で接してくれた。こちらの顔は分からないようだったが。
それが、携わった事件の犠牲者のお別れ会で顔を合わせた。彼は事件現場に遭遇していて、顔に傷を負っていた。
その一件は周辺住民からの通報を受け、重点的な監視対象のはずだった。三吉も沖野も気にかけていた。ともに親族が住んでいる地域だったからだ。しかし通報一つで大げさに考えすぎだと気に留めない者もいた。結果として1名が死亡、1名負傷という最悪の事態を引き起こした。おまけに被疑者確保は駆け付けたICTO隊員によるものだというから警察の面目は丸潰れ、名誉も大きく毀損した。
負傷した神崎がICTOに加入したのは驚きだった。てっきり進学すると思っていた。むしろ、警察に来てくれたら良い警官になっただろうと何度か思っていた。地域の人に愛される交番のお巡りさん、被害者の心に寄り添う優しい刑事になりそうだと思った。けれども、彼は進学を取りやめた。
――警察ではできないからです。俺のできることが。
別れ際の彼の言葉を反芻する。彼の言葉が指すものが何か、なぜ警察にはできないのか、ICTOに何があり、何が彼の興味を引き立てたのか。
神崎への純粋な興味が、回り回って沖野がICTOを知る道となった。
「いろいろ聞きましたけど、会ってみないと分からない気がします」
様々な思いをこめた沖野の言葉を、三吉は微笑を浮かべて聞いていた。機動捜査隊でもICTOへの姿勢は割れているが、三吉は協力的なほうだ。
「前世関連は向こうのが詳しいし、頭の切れる奴もいる。こっちに欲しいくらいだ。人脈は作っておくに越したことはない。こっちの捜査が行き詰ったとき、あっちが手掛けている事件と関連があった、なんてこともありうる」
彼の言葉に頷くと、一陣の風が室内に吹いた。玄関ドアがわずかに開き、外の空気が流れていた。巡査が顔をのぞかせている。
「三吉さん、3名現着しました」
「入ってもらって構わない」
「了解です。では、どうぞ」
巡査が促すと、失礼しぁーす、と声がした。体育会系運動部を連想させるトーンに、懐かしさを覚える。
検視が始まる前に気になる点がないか確認しようと、遺体を再度見下ろす。
「どーもー。あ、三吉さんじゃん。おっひさー」
「久しぶりだな。悪いがウチの鑑識が事故渋滞で遅れる。簡単でいいから検視を頼みたい。先にあらかたの情報を掴んでおきたい」
「オッケー」
ノリの軽い男の声。彼が検視を行う医師免許持ちらしい。
その後ろから軽い咳払いが聞こえた。吐き気を抑える咳払いだ。死臭に慣れていない者だろう。
「へーき?」
「……なんとか」
軽い男の声に、咳払いの男はつらそうな声音で応じた。新人の臨場らしい。自分もそうだった。最初は吐き気を抑えるので精いっぱいだった。
後ろから、別の声がした。
「神崎、中村の補助に入れ」
「了解」
かんざき。
呼ばれた名に、ぱっと顔を上げる。
先ほどまで脳裏に浮かんでいた彼が眼前に立っていて、あ、と間抜けな声が出た。
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