#67 開花
吹きつける風は冷たく鋭かった。玄関ポーチを出てすぐに、暖かいリビングに舞い戻りたくなった。
コンビニに行くけど一緒に来るか、という父の言葉に頷いたことを後悔しかけたが、澄んだ空気が肺を満たして気分が少し上を向いた。夜空にはまだらに星が散っている。明日も晴れるだろう。
年明けには大学入試が控えている。何もなければ、来年3月に高校を卒業できる。大学では建築学を専攻したい。医院は従弟が継ぐことになっているし、父母も背を押してくれた。
「やっぱり冷えるなあ。近道をしようか」
ネイビーのチェスターコートを着、同色のマフラーを巻いた父は寒そうに肩をすくめた。先を行く彼についていくと、角をいくつか曲がり、細い道に出た。
道幅が狭く車通りも少ないその道は、昼間でも一人で歩いてはいけないと昔から言われてきた。通り沿いには滑り台と砂場だけの小さな公園があって、街灯に遊具が照らされて
「この道、夜は怖いね」
「だろう? そこの公園は声かけ事案がよくあるらしくてね。昔は子どもたちだけで遊んでいたのに、今では必ず大人が付き添っている」
「警察は動いてくれないの?」
「パトロールは強化してくれている。ただ、不審者というものは不思議で、警察が巡回していると姿を見せないんだ。……聡史も、もうしばらくは一人でここを通らないほうがいい」
「分かった」
物分かり良く頷いた。父は次いで、受験勉強の進み具合を尋ねた。返事をしながら、別のことを考える。
1年と少し前に思い出したのは、自分が夜道で誘拐されたことと、制服を着た女子学生だったこと。大村という記憶研職員から見せてもらった映像には、路地に停まっていた黒い車の横を通り過ぎようとしたところで車のドアが開き、腕を掴まれ車内に引きずり込まれる場面が映っていた。
思い出したときは過呼吸を起こすほど動揺したのに、映像で見せられるとどこか冷静な自分がいた。何かの答え合わせをしている気分だった。
映像の前後はどうしても思い出せなかった。思い出すことを拒否するかのように頭に
大村は両親に「個人を特定する段階ではない」と告げたが、二人きりになるとその
『目星はついている。いつの時代のどこの誰だか知りたい?』
投げかけられた問いに黙って首を振ると、彼は優しげな表情で「そうか」とだけ口にした。
『知るのも勇気が要るが、知らずにいるのも同等の勇気が要る』
『……』
『自分の前世を知りたくなったり、もう一度検査を受けたくなったり、何かを思い出したり、身体に異変が起こったりしたら連絡してくれ。ちなみに君は、遡臓検査の実費負担の特例を知っているかな?』
大村は自らの情報をこちらの端末に送信しながら尋ねてきた。
正当な理由がある者、成人を迎える者、記憶研職員が必要だと判断した者は実費負担が無いのは知っていた。正直に答えれば、なんだ、と彼は心底残念そうな表情を見せた。
自分の知識を人に話すのが好きな人なのだと思った。しかし、性悪さやこちらを見下す態度はなかった。純粋に人に話を聞いてもらうのが好きなだけかもしれない。
彼は12歳の自分を父や母同様に大人として扱い、それでいてこちらの知識が足りていないことを知ると、脳内に浮遊している疑問を掬い上げるように的確な説明を加えていった。話し上手でもあり聞き上手でもあり、なんとも不思議な人だった。
「世界史は? この前より点数は上がった?」
「少しだけ」
「そうか……勝負は理系科目だな」
「そうなると思う」
ぼんやりした口調で返す。
いつから自分はこんな答え方をするようになっただろう。以前まではもう少し口数が多かったはずだ。
反抗期? 違う。記憶を断片的に思い出してから、これまで通りに接することが難しくなった。特に、父に対して。
記憶を思い出したせいで親子関係が壊れた話をいくつも知っている。両親は、急に態度の変わった自分を受け入れ、見守ってくれている。その気遣いはありがたかったし、彼らに対して誠実であろうと心がけた。なのに、どうしても「これまで通り」にはいかなかった。
この感覚は前世の記憶がそうしているのか。そう大村に問いたい気持ちもあり、聞いたら最後、自分がどう死んだのかを知ることになるのではという葛藤もあった。
誘拐がきっかけで命を落としたに違いない。そう、確信じみた思いがある。バッドエンドが確定しているのにわざわざ知りに行こうとするほど、自分の心はタフではない。それは、自信を持って言える。
平常心を保つよう努めた。父が散歩に誘ったのも、夜道を歩くのも、人通りの少ない道を歩くのも胸をざわつかせる。すべてに他意がないと分かっているくせに、父がもし独自に前世の自分の正体を暴いていたら、などとあり得ない考えが脳裏にちらつく。
どうしてそこまで父を疑うかも分からなかった。散歩に誘ったのが母であれば、何も考えずについてきたに違いなかった。
分からないことに腹が立つ。思い出せないことが苛立たしい。家族に対して他人行儀な態度を取る自分が気持ち悪い。原因不明の不快な気持ちがずっと
細い路地を抜けて角を一つ曲がる。コンビニの煌々とした明かりが目を刺した。温かいものが飲みたい。一歩足を踏み入れると独特のチャイムが迎える。
店内は温かく、初老の店員がタブレットをいじっているだけで、客は誰もいなかった。
「勉強漬けで疲れているだろう。好きなものを選んでおいで」
父はオレンジ色のかごをこちらに渡してきた。ありがとう、と小さく答えて飲料の棚の前に進む。紙パック入りの白桃ジュースを迷わずかごに入れた。
小さいころから桃が好きで、食卓に上がれば自分のぶんを完食してなお、もっと欲しいとせがんで両親を困らせていた。父がその話を
それも、果たして自分の嗜好なのかと勘繰りたくなる。前世の記憶を小さいころから思い出していて、彼女が桃を好きだったから自分も無意識に好んでいるのでは?
考えだすと、とめどなく思考がめぐる。
趣味、好み、思考、価値観。
どこからどこまでが河野聡史なんだろう。
菓子の棚に移り、チョコレート菓子を手に取った。足元に冷たい風が当たり、呑気なチャイム音が背後で鳴って来客を知らせた。
父が外に出たのかと思い、わずかに視線を上げた。ファミリータイプのアイスを吟味している後ろ姿が目に入った。1年前より、白髪が増えた気がする。
「金を出せ!!」
低いだみ声が店内の空気を震わせた。声のした方を見る。黒いキャップに眼鏡とマスクをした男が、初老の店員に出刃包丁を突きだしていた。店員は突然の出来事に口を震わせ、両手を上げて無抵抗の意を示した。
強盗。
どうしよう、どうすればいいんだろう。
端末は家に置いてきてしまった。
鼓動が早鐘を打ちはじめる。男は包丁を店員に突きつけ、金目のものを袋に入れろと指示した。袋を投げ渡された店員は良心の
父がレジに近づいたのが見えた。けれど、先に男がこちらに近づいてきた。首根っこを掴まれ、引き倒すようにしてレジ前の通路に引きずり出される。
首元に冷たい感触がした。
「早くしねえとこのガキぶっ殺すぞ!」
やめろ、と鋭い声を上げた父にも男は叫んだ。「動くな! 近づいたら殺すからな!」
店員は、ひい、と、か細い声をあげ弾かれたように動きだした。レジを開け、入っている現金を乱雑な手つきで袋に入れはじめる。
電子決済が主流なんだから、それほど現金はないはずなのにバカだなあ。もしかして、まだコンビニ強盗が上手くいっていた時代から生まれ変わった人なのかな。でも、現金だと足がつきづらいかもしれない――現実逃避をするように、頭はぼんやりと
男は店員を見、「もう片方のレジの金もだ」と指示を飛ばした。そしてこちらに目を向けて凄んだ。
「騒いだら殺すぞ、本物だからな」
ふーっ、ふーっ、と荒い息が首にかかる。
ひどく興奮していた。
見たことのない顔だった。
男が、頬に押し当てていたものを見えるように
『言ったじゃんか、本物だって』
『逃げられないんだってば、無駄なことすんなよ、手間のかかる』
『片方潰れたって死なないって、大丈夫』
目の前の男とは違う声が耳の奥で鳴った。
連鎖するように、声を発した男の顔、身なり、しぐさが思い出された。
同じだ、と思った。
あの時、私を刺した男が言ったのと、同じだ。
ばちん、と頭の中で何かが弾けた。閃光が目の奥で
家までの道、黒い車、連れ込まれた部屋、破れた制服と
脳内の自分が声を上げる。女の声で、はっきりと。
早く殺さなきゃ。
殺せなかったから殺されたんだよ。
殺さないと。
その思念が、大きなとぐろを巻いて頭を支配する。
こいつを殺さなきゃダメだ、殺されてしまう。父さんもこの店員も、みんな刺されて目を抉られてしまう。ダメだ、殺さないとダメだ。
男は敵だ、殺さないとダメだ。私が死んでしまう。痛い思いをするのはもう嫌だ。
右手を静かに上げた。何かを持っている感触があった。自分でもそれが何か、自然と分かっていた。黒い柄で、長い刀身はぎざぎざと波打っていて、一突きで人を殺せそうな、あの男が持っていて、私の身体に何度も傷をつけた、あのナイフ。
刃先を下にして振り下ろす。男の背に当たる直前、首筋に冷たい風が当たった。チャイム音が鳴る。誰かが店の入り口に立っている。
空気が破裂するような鋭い音がし、肩に痛みが走った。
熱い。痺れる。頭が揺れる。
身体が自由を失い、視界は闇に包まれた。
薄く目を開いた。外はほのかに明るく、たなびく雲の向こうから太陽が顔を出そうとしている。
身体を起こす前に頭が思考を始める。父と散歩に出かけ、コンビニに入り、強盗が入ってきて、ナイフを突きつけられた。
事実を理解するが早いか、殺さなきゃ、という思念がまた沸き上がった。
誰を、どうやって、といった気持ちより先に身体が動いて、指先に触れるものを感じた。それをしっかりと握って身体を起こしてから、ベッド脇の椅子に誰かが腰掛けているのに気づいた。肩がびくつき、声を上げそうになって、必死にこらえる。
闇に同化するような黒い服を着、下を向いて足を組んでいる男。軽く指を組んだ手が腿の上に置かれている。
肩はかすかに上下しているが、こちらに気づいた様子はない。寝ているようだ。
男だ。殺さなきゃ。
意思を持った声が響く。
力が強い人には反撃しないと。でないと殺される。
眠っている。逃げるなら今しかない。こいつを刺し殺して、ここから逃げないと。
全身の毛が逆立ち、鳥肌が立った。左手でしっかりと掴んだそれを、男に向けて突き出す。
だが、腹を刺す寸前で切っ先はぴたりと止まった。手首に温度を感じ、視線が下がる。
アイスピックを握る手ごと掴まれ、制止されていた。渾身の力を入れているのに微動だにしない。
「学校の健康診断では低血圧ぎみと診断されているが誤診のようだな、認識を改めることにする。起き抜けにそれほど殺気立った目で人を襲えるんだ、寝起きは良いほうだろう」
恐る恐る振り仰ぐ。窓から陽光が差し込み、男の姿が照らし出される。
黒髪を後ろになでつけている、若い男。風貌こそ優しげだが、射すくめるようにこちらを見る目には呆れに似た感情が浮かんでいた。男はこちらの目を見て続ける。
「飛び抜けた才知と抜群の運動神経を有する私でなければ確実に臓器を損傷していたぞ。ここにいたのが君の父親だったらどうするつもりだったんだ?」
座っていたのが、父だったら。
それを聞いた途端に、手からがくりと力が抜ける。男は手からアイスピックを掠め取り、見せびらかすようにペン回しの要領でくるくる回してみせた。
彼の手にあるそれには見覚えがあった。惚けたように見ていると、忽然とアイスピックが手から消えた。
手品? この男は誰? 病院関係者? 殺しに来た? 強盗の仲間?
問いが一気に頭に押し寄せ、目を見開く。先回りして男が言った。
「
個室の扉が静かに開く。女性が一人、静かに入ってきた。
眼前の男よりも若い。長い髪を一つにくくっている。男と同じ黒い服を身にまとっている。口元に浮かべたかすかな笑みや、悠然とこちらに歩いてくる姿には余裕と威厳が漂っていて、高貴な猫を連想した。
男は掴んでいた手首を放すと席を立って深々と女性に頭を下げ、自らが座っていた椅子を女性にすすめた。礼を言って彼女は腰かけ、男は後ろに控える。彼女のほうが偉いらしい。
「ご足労いただき恐れ入ります」
「とんでもない。私もお話してみたかったので。……崎森隊員も、追尾していたとはいえ見事な対応です。彼はどこに?」
「大村探査専門官を呼びに行っています。まもなく到着するかと」
「分かりました」
そこまで話して、女性はこちらを見て微笑んだ。
誰かに似ている。ぼんやりと思い、礼を返す。
「初めまして、河野くん。
「初めまして……」
「混乱しているでしょう。あなたはお父さまと買い物をしていて強盗に遭遇しました。強盗は取り押さえられましたが、あなたはショックで意識を失い病院に搬送されました。お父さまも無傷ですよ、誰も怪我はしていません。今はお母さまと別室で休まれています。もう少ししてお二人が起きたら会えますからね」
凪いだ海を想像させる落ち着いた声。興奮していた気持ちが自然と和らいでいくのが分かった。
「……あの」
「なんでしょう。なんでも聞いてください」にっこりと笑む彼女に、逡巡してから問いを投じた。
「僕、どこかおかしいんでしょうか。ナイフが、突然……」
「聡史くんはどこもおかしくありませんよ。きちんと説明します。安心してください」
祓川は無造作に投げ出していた左手をそっと両手で握った。白く細い指が触れたところから温かさが流れこみ全身に
控えめなノックの音が響く。井沢という男が「入れ」と返した。
失礼しまーす、と呑気な声で入ってきた男には覚えがあった。
「久しぶりだね、河野くん。元気だった? 気分はどう? ……って、良い気分なわけないか」
大村は以前と同じ白衣姿で、手にタブレットを持っているのも1年前と変わらない。異なるのは、寝癖の位置が後ろ髪から頭頂部に移っていることくらいだ。ついさっきまで眠っていたのかもしれない。
そして彼の後ろからもう一人、音もなく部屋に入ってくる者があった。大村より背が高く、顔は光が届かず見えなかったものの、背格好からして男だと分かった。
状況を理解するなり、ぶわ、と背に寒気が走った。
恐怖が奥底から這い上がり身体を支配し始める。
男が三人。いっせいに襲われたら逃げられない。わなわなと唇が震える。
殴られて、蹴られて、殺される。
呼吸が浅くなり、苦しさがこみ上げる。
こちらの変化を察した井沢が祓川に告げた。
「我々は外します」
「お願いします」
祓川が静かに応じると井沢は身を翻し、大村の背後に立つ男に言った。
「崎森、来い。厳重注意の時間だ」
「……了解」
「いま一瞬『はて、何のことやら』みたいな顔を浮かべたな、全員無事だったとはいえ今回の行動は
「栄転ですね」
「左遷に決まっているだろうが頓珍漢なことを言うな。ペナルティの回数増やされたいのか」
「なさりたいならお好きにどうぞ」
「その言い方だとまるで私が好んで部下にペナルティを課して痛めつけては悦に入っている人でなしみたいじゃないか、冗談じゃない口を慎めはっ倒すぞ。脳の言語を司る領域に重大な損傷が見られるようだ、開頭手術が必要ならば執刀医を買って出るからいつでも言え。メスよりも切れ味の良い刃なら持っている」
騒々しい声が遠ざかっていく。ぼんやりと、よく口が回るものだと感心した。
見知った人間と女性と自分。変化した状況に、すうっと恐怖が潮のように引いていく。
大村は近くの椅子を引き寄せて座り、小さく微笑んで言った。
「よくもまあ、あんなにスラスラと口が回ると思わない? 僕と彼は同期みたいなものだけど、出会った当初からああなんだよ」
「……」
「ま、与太話は置いておいて。……眠っているあいだに遡臓検査をさせてもらった。明確に思い出したみたいだね。君が疑問に思っている、あのナイフとアイスピック。それがどうして突然出たり消えたりしたか、知ってる?」
にこにこと大村が首を傾けて問う。どう言えばいいのか分からず、横の祓川を伺った。
見ているこちらに安心感を与えるような穏やかな笑みを浮かべる彼女の顔を見、はたと思い出した。
母と似ている。いま別室で自分を心配している実母ではなく、前世の母と面影が似ていた。
「母は」
「うん?」
「私が死んだあと、母はどうなりましたか」
か細い声が口から漏れた。自分ではない誰かが話していると錯覚した。しかし口を開き意思を持って喉を震わせたのは間違いなく自分自身だった。
「……じゃあ、まず君の前世について話をしよう」
大村はタブレットを取り出し、そっと手渡してきた。
書かれている文章を読むべく目を向けたとき、祓川がまた手を握ってくれた。
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