#66 想起

 東京都世田谷区にある河野内科医院の院長夫妻に待望の第一子が生まれたのは、2079年の暮れのことだった。

 クリスマスソングが街に溢れ、ネット上ではきたる2080年代に起こりうるニュースや流行の予測記事が乱立している時期に、河野武史たけし院長は日々の診察をこなしながら、手がくとすぐに妻の聡子さとこの様子を見に医院裏の自宅へ顔を出していた。

 彼が顔を出すたびに聡子は端末から顔を上げ、「医者なんだから、もっとどっしり構えていればいいのに」とからかい口調で笑ったが、彼にとってはそうも言っていられなかった。


 臨床検査技師をしていた聡子と友人の紹介で知りあい結婚したのが10年前。なかなか子どもに恵まれず、4年目からは不妊治療をはじめた。6年かけて治療に取り組んだが成果は出なかった。気がつけば武史は40歳、聡子も36歳になっていた。

 期待をいだいては落胆する日々を繰り返すうち、自然と子どもを持たない人生を考えはじめた。武史は同じく内科医の甥にゆくゆくは医院を譲る意思を固め、聡子は養子縁組に関する資料を集めだした。よくよく話しあい、6年にわたる不妊治療にピリオドを打った半年後、聡子の自然妊娠が発覚した。治療そのものがストレスになっていたに違いない。そう話しながら二人は大変に喜んだ。


 2079年12月9日の朝は例年よりも冷え込んでおり、朝方に陣痛が始まった聡子を病院に連れて行くべく外に出た武史は、フロントガラスにびっしりと下りていた霜を溶かすあいだ、居ても立ってもいられない気持ちだったことを記憶している。慎重に車を運転してかかりつけの産婦人科に連れて行くと、主治医でもあり医大時代の同期でもある友人がすでに待機してくれていた。

 聡子が毎日散歩をしていたおかげか、腹の子が気を利かせてくれたのかは分かりかねたが、そう時間はかからなかった。9時過ぎには元気な産声が分娩室に響き渡り、武史と聡子は長らく待ち望んでいた我が子との対面を果たした。


 両親から一字ずつ取り聡史さとしと名付けられた男児は大きな病気にかかることもなければ夜泣きもあまりせず、よく笑いよく食べる子だった。成長期になればどれほどご飯を食べるようになるのかと二人は楽しげに話した。

 聡史は賢く発達が早く、読み聞かせた絵本の内容を驚くほどのスピードで覚えていった。たまにしか寝かしつけができない武史が読み聞かせようとすると、ページをめくるよりも先に内容をすらすら喋って彼を驚かせた。

 その様子を収めた映像には撮影している聡子の笑い声が入り、「これじゃどっちが寝かしつけしているかわかんないな」と苦笑する武史と、早く早くと言わんばかりに次のページをめくる聡史の姿が映っている。


 入学前の時点でかけ算や割り算を解く我が子を見、二人は息子には前世があるのではと感じはじめた。

 彼ら自身も前世を持っていた。遡臓が顕現して社会や世界が大きな変革を迎えた2030年代に幼少期を過ごした二人にとって、前世がいかに人生や価値観に影響を及ぼすものかは重々承知していた。ともに明確な前世の記憶を持たず、薄ぼんやりとした内容を夢で見る程度であったぶん、子どもが明確な前世の記憶を持っていたらと考えたこともある。聡史を授かるまでの10年で遡臓や前世について調べられることは調べ、知識として蓄えていた。


 前世の記憶を思い出した子どもが前世の親と今世の親を比べる、被虐待の前世を持つ親が子を虐待してしまう、前時代的な価値観を持つ親世代と教育をめぐって対立する、前世と異なる性別に生まれたゆえに服やおもちゃを無意識のうちに受けつけず、すべて買い直す。

 教育面では前世に関する問題が山積していた。そのすべてが「子どもが記憶を思い出すかどうか」というスイッチによって決まる。成人後に思い出す子ども、成長の過程で思い出す子ども、物心ついたころには自分の前世の名を口にする子どもとパターンは様々で、どれだけ詳しく覚えているかも異なる。

 武史と聡子は、我が子はどこで思い出すのか、すでに思い出しているのかと常に気にかけていた。


 定期健診で聡史を診た遡臓専門医は「間違いなく前世はあり、無意識のうちに思い出している」と診断を下した。学力の向上は「よく分からないが解き方を知っている」状態で、肝心な前世の記憶は思い出せていないだろう、とも。

 聡史は順調に飛び級を重ね、11歳で高校に入学した。同じ年頃の同級生とも仲良くなり、家に行き来するようになった。

 参観日を臨時休診日にして息子を見に行った武史は、年上の多いクラスでも物おじせず、明るく活発に発言してよく笑う我が子を見、出会ったころの妻にそっくりだと思った。

 聡子は聡子で、自分が少しでも身体の調子が優れなければ自然と察して薬を持ってきたり家事を率先してこなしたりする息子の優しさが夫のそれを色濃く受け継いでいると感じていた。


 転機を迎えたのは彼が12歳のときである。

 目覚ましく伸びを見せていた成績が横ばいになった。

 これまで優秀だっただけに武史は心配したが、聡史自身も「わかんない」「今までは解き方が分かったけど、わかんなくなった感じ」と首をかしげていた。学校の授業を聞けば理解は進むものの、これまで当たり前だった「何となく分かる感覚」が失われたのは聡史にとっても不思議な経験だった。

 武史がくだんの遡臓専門医にこのことを話すと、彼はしばらく考えたのち、言いづらそうなそぶりを見せてから、「前世の彼が学んだのが、そこまでだった可能性もあります」と見解を示した。


 武史と聡子は想像のうちに、腰が曲がるまで人生を謳歌し、孫やひ孫に囲まれ充足した人生を送った人間を息子の前世像として思い描いていた。夭折ようせつした学生かもしれないという事実は彼らに大きなショックを与えた。

 事実を本人に告げるか悩んだが、知力と学力に優れるとはいえ12歳の子どもに言うことではないと判断した。二人は胸のうちにそっと息子の秘密を保管し、厳重にしまいこんだ。


 聡史少年が前世の記憶を取り戻すには二つの大きな出来事があった。ひとつは夏に起き、もう一つは冬に起きた。後者の出来事は、そのまま彼の人生を一変させる分岐点にもなった。

 一つ目の出来事は、武史と聡子が息子の前世について黙することを決めた数か月後に起きた。暑さの盛りを過ぎ、そろそろ薄手の羽織ものが必要かと思いはじめた矢先だった。

 その夜は3人揃って映画を見ていた。聡子が看護師たちの間で話題になっているサスペンスものを見たいと言い、山盛りのポップコーンを作った。聡史も、学校で話題なのだと話しながらポップコーンをつまんでいた。


 映画は頭脳明晰な詐欺師と警察の攻防を軸にした物語だった。

 手下二人に指示を送りながら、主人公の天才詐欺師は特殊詐欺で巨額の金をむしり取ろうと企んでいる。警察は彼らを一網打尽にすべく緻密に罠を張る。犯人たちは大企業の社長子息の誘拐を画策する。

 中盤に差しかかり、ポップコーンが残り少なくなってきたあたりでそのシーンに差しかかった。

 学習塾の帰り、友人と別れて一人歩く社長子息。普段通る道に「工事中」とバリケードがされていて、遠回りをせざるを得なくなる。もちろんバリケードは犯人の罠で、人気のない道に知らぬに誘導された息子は、後ろから近づいてきた黒いワゴン車の中に引きずりこまれてしまう。


 さすがに聡史には刺激が強かっただろうかと聡子が隣の彼をうかがおうとしたところで、グラスが倒れる音がした。カラカラと氷が音を立てて転がる。

 聡史が肩で大きく息をしていた。テーブルには彼が皿から零したポップコーンがいくつも散り、倒れたグラスから流れ出る炭酸水がポップコーンを濡らし、テーブルの上を流れていく。

 頭を抱え、両耳を手でおさえ、フーッ、フーッ、と警戒する猫のような激しい息遣いを見せた彼に、二人はただごとではないと察して駆け寄った。過呼吸を起こした聡史は椅子からずり落ちて頭を打ち、意識を失った。

 聡子が救急車を呼び武史が容体を確認しているあいだも、画面には誘拐された息子が必死の抵抗を見せているシーンが流れていた。


 検査の結果、身体的な問題は見られなかった。打った部分にタンコブができたが、そのほかに外傷はない。

 ただし、遡臓がこれまでになく活発になっていると指摘を受け、武史と聡子は顔を見合わせた。思い当たるのはただ一つ、直前に見ていた映画のシーンである。

 鎮静剤を打たれて眠る息子を見守りつつ、二人は遅くまで話し合い、翌日には遡臓検査を受けさせた。担当した医師は倒れた状況を確認すると神妙に頷き、検査結果を早く出すと約束してくれた。


 検査を受けて家に帰った日から、聡史の様子はだんだんと変化していった。徐々に口数が少なくなり、考えこむ時間が増えた。冗談を言って笑わせてくれることも、武史の冗談に口を開けて笑うことも減った。

 何か思い出したに違いないと二人は確信を持ち、一方で明朗で愛嬌のある息子がまるで別人のように塞いでいくさまに混乱もした。いくら前世について勉強を重ねたといっても、いざ当事者になるとどう接していいか分からなかった。


 聡史が自宅に戻ってからちょうど一週間後、病院から連絡があった。担当医より、込み入った話になるから国立記憶科学研究所を訪れるよう指示された。

 指定された日時に揃って都心の国立記憶科学研究所の本所を尋ねると、個室に案内された。聡史は初めて訪れる施設をきょろきょろ見回していたが、それが緊張の現れだと武史はは分かっていた。昔から、聡史は知らない場所に行くと入念に周囲を観察する子どもだった。


 部屋に通されて数分後にタブレットを携えて入ってきたのは、黒ぶちの眼鏡をかけた年若い白衣の男で、後ろ髪が寝癖のように跳ねていた。

 端末で情報を交換すると、彼の肩書は「国立記憶科学研究所 探査専門科長」とあった。大村と名乗った寝癖の男はどう見ても20代前半に見受けられ、身なりのだらしなさに一抹の不安を抱いた二人だったが、幸いにもそれは杞憂に終わった。

 ひとたび口を開けば感じ良く分かりやすい説明をする男で、彼はいくつかの世間話をしてこちらの警戒心と緊張を解いたあと、聡史が理解できるように遡臓の働きを噛みくだいて説明した。

 こちらが疑問に思った点を先回りするかのように説明を付し解説を加えていくさまは、医師として長年患者とコミュニケーションを取ってきた武史ですら感心するほどだった。淀みない説明が続き、こちらが十分に話を理解したことを確認してから彼は本題に入った。


「聡史くんの記憶を拾うことには成功しました。ですが、かなり印象的な出来事の断片的な記憶のみで、どの年代にどこで生きていたのかを判断するのは難しいでしょう。照合した結果、体調を崩した原因とも合致しています」


 それから武史と聡子はいったん退出を指示され、聡史のみが大村と話をした。たとえ親子であっても、みだりに前世を聞くことはタブーであることを二人はよく理解していたが、気になって仕方なく、焦燥に似た思いが胸を駆け巡っていた。

 しばらくして聡史が二人を呼びにきた。入れ違いに退室した聡史は、廊下の椅子にへたりこむように座った。


「息子は、……聡史は、前世で何かしらの形で、誘拐に関わっていたのでしょうか」


 聡子の声が若干上ずっていたのは、もし加害者側だったら、という恐れによるものだった。

 大村は、これから話すことはすべて聡史の了承を取っていると前置きをして、静かに告げた。


「誘拐が聡史くんの前世で大きなきっかけであったことは間違いありません。彼は被害者側です。彼自身、映画のシーンを見て断片的に思い出しただけで、詳しくは思い出せていません。思い出せていないことをストレスに感じてもいます。検査で映像化できた部分は調査を続けますが、彼の前世を特定する素材としては不足しているのが現状です」


 前世の記憶は絡まった糸のようなものだと彼は続けた。何かのきっかけで一つの結び目がほどけた途端に、するするとすべてを思い出す人もいる。聡史の記憶は頑丈に絡まりあった状態で、今回たまたまそのうちの一本がほどけたに過ぎない、とも。


「何をして彼が思い出すのかは分かりません。明日すべてを思い出すかもしれないし、50年後になるかもしれません。何より本人が一番不安がっています。内面は大人びていますがまだ12歳、不安定な時期には変わりない」


 大村は記憶を取り戻しかけている人々向けのグループセラピーの案内や、記憶研と提携している遡臓関連専門のメンタルクリニックのパンフレットを手渡した。

 思い出すように働きかけないこと、思い出した内容についてみだりに聞かないことを厳重に言い含め、異変があればすぐに自分まで連絡をくれと結び、面談は終わった。

 廊下に出ると、自分たちが入っていくときとまったく同じ姿勢で聡史が何か考えこんでいた。


 この子の頭の中に何が渦巻いているのだろう。口を大きく開けて笑い転げていた子が、今では口角をわずかに上げて微笑むばかりになった。記憶がそうしているのか、前世の記憶に戸惑っているのか。

 誘拐の被害者だったというが、生きて親元に帰れたのだろうか。もし最悪の事態を経験していて、その記憶を鮮明に思い出していたら自分はどう接すればいいのだろう。

 脳内にとめどなく流れる考えを振り払うように、武史は不安げに自分を見上げる息子の頭をそっと撫でた。


 二つ目の出来事が起きたのは、この日から1年と少し経ったころ。

 聡史の14歳の誕生日を目前に控えた、12月1日のことだった。


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