#63 反論

 診察室に入ってきた男は、黒のポロシャツにカーキのチノパンといったいでたちだった。毎月一度か二度訪れるが、異なるのは服の色くらいだ。たいがい同じ系統の服を――量販店の店先に並んでいそうなものを着てくる。シャツは季節によって長袖や半袖、あるいはTシャツに変わり、カーディガンやダッフルコートが加わるときもある。

 不思議な印象の男。何度となくこのクリニックに通っているのに、たびたび初診の患者と勘違いしてしまう。そして名前を見て気づく。ああ、いつもの人だ。また間違えた、と。

 自分だけかと思ったが、スタッフのほとんどは彼のことすら覚えていなかった。覚えているスタッフでさえ、「ああ、そんな人いたかも」とあいまいに頷くばかりで、彼はそういう星の元に生まれたのだろうと自分を納得させた。


 クリニックは大きな規模ではないものの、初診予約は1か月先になる程度には繁盛している。メンタルクリニックはいつの時代も需要があるものかと感心する。

 かつての自分が生きていたころはそんなもの、存在すらしなかった。精神を病んだ者は気が狂ったとみなされ、座敷牢に入れられていた。

 

「どうですか、安田さん。その後は」


 男性医師は、彼をちらりと見て問いを投げた。

 温和な声は話しやすい雰囲気を作るのに一役買っている。医師がすぐさまパソコンの画面に視線を戻しても、男は気にしていなかった。


「うーん、ぼちぼちです」明るい声色で彼は答えた。「少し前に、湯治とうじに行って来ました。鹿児島と福島へ」

「遠出でしたね。どうでしたか」


 東北と九州。ちぐはぐな組み合わせに思えたし、鹿児島と福島の温泉地に思い当たる場所がなかった。そんな思いをよそに、男は続けた。


「ずいぶん遠くを回ったので、今度は都内でゆっくりしようと思います」

「それはいいですね」医師はパソコンの画面を見、何事か打ちこむ。「東京はお詳しいですか」

「それが全然。おすすめはありますか?」

「浅草はどうでしょう。浅草寺に参拝して、新スカイツリーのてっぺんから街を見たら楽しいかもしれませんよ」

「分かりました、浅草ですね。今度行ってみようかな。先生はよく行かれますか?」

「しばらく行ってないですねえ。今日、仕事が終わったら行ってみようかなあ」

「じゃあ、次にお会いしたときは感想を聞かせてください。……今日も、いつもの薬で」

「出しておきましょう。なくなるころ、また来てください」


 世間話だけで診察が終わる。男はこちらにも律儀に一礼をして部屋を出ていった。医師は処方の指示を終えると次の患者を呼び出した。

 

 あれだけ話したのに、一度も目を合わせていなかったな。


 そんなことを考えながら、診察室に入ってきた次の患者に笑顔で挨拶し、椅子に座るよう声をかける。






 *****





「今のうちに聞いておきたいことはある?」松川が促した。「この人も忙しいから、そう何度も会えるか分からない。聞きたいことがあれば今のうちに聞いておいたほうがいいよ」

「当時の資料で、今も閲覧できるものはありますか」

「無いに等しい。警察の捜査資料は形ばかりで重要なことは記されていなかった。当時の記憶を持つ人間を辿るのが一番早い」

「校長だったら調べてくれるんじゃない? 近くに住んでいた人とか」

「できるだろうが、しょせんは記憶だ。個人の思想やバイアスが入る」

「それを言ったら井沢さんもじゃん」

「いちいち水を差すな、語尾に『個人の感想です。事実とは異なる場合があります』と付けて話せとでも言うのか。私を呼んだ時点でそこは了承していると思って話をしたんだ」


 井沢は髪をがしがしと掻いた。オールバックが乱れ、幾束かが額に落ちる。彼はそれを直して言った。「両親と姉……奴の家族の転生は現在も確認できていない」

「姉がいたんですか」

「ああ。彼女もれっきとした信者で、子どもにも英才教育を施していた。……その子どもが、君が夢で誰かに託した子どもだろう」


 建物に警察が入ってきたあと。屋根を斬撃で落とし、子どもを抱いて逃げていた。森の奥深くの一軒家に彼を預け、森を抜けて車に乗り込み逃げていた。

 姉の子ども。志賀新助の甥。その後の生死は不明。含むように心に留め置く。


「両親と姉は……」

「護送中に死んだ。奴らを乗せたパトカーが次々にガードレールを突き破って崖下に転落した。私の部下も何人か道連れになった。野次馬やネットの自称論客どもは天誅だの警察の陰謀だの騒ぎ立てていたが、今思えばピリオドによるものとしか思えない」

「志賀か、深見アンノウンのどちらかが口封じに殺した……」

「両親と姉、3人のうち誰かがピリオドを有していた可能性もある」

「そのころって、もうピリオドは表出していました? ICTOの始動って2040年代でしたっけ」


 松川が問うと、井沢は片眉を上げた。

「君は自分の所属する組織の歴史も知らないのか。礼儀知らずの崎森に不愛想の河野といい、第一の班長陣は不敬な奴ばかりだな。……ICTOの本格始動はほぼ同時期、遡臓検査が確立されたのも同じくらいだ。異能犯罪者自体はポツポツ出ていたが、大話題に上るほどでもなかった」

「よく混乱が起きませんでしたね」

「そのへんは大村が詳しいから聞くといい。目を輝かせて夜通し熱弁をふるってくれる。……異能の存在自体は2030年代後半から話題になっていたが、今ほど顕著なものではなかったと聞いている」

「顕著じゃなかった」言葉の意味をはかるように松川は復唱した。「人間の想像の範囲内、的な?」

「そうだ。記憶を消去せざるを得ないほど超常的な異能ではなく、ちょっと珍しい、で済むレベルだった。テレビや動画サイトで持てはやされる程度だろう。おかげで志賀の能力を予測しきれず、みすみす取り逃がした」

「不謹慎な言い方ですけど、面白いですね」吉岡がキーボードを叩きつつ零した。「時代を経るごとにピリオドが……人間が進化を遂げている、って感じ」

「最大限好意的に捉えるとそういう見方もできる。今となっては使いようによっては簡単に人を殺せる能力も数多い」


 そこまで言って、井沢は再び神崎に向き直る。

「君が対峙した国見の能力は、目さえ合えば相手に指一本触れずとも投身自殺させることができる。小平のは夜道で人を襲うのにこれ以上なく適している。河野の攻撃は、たとえかすり傷であろうと受け続ければ前後不覚になる。水中で松川の能力を喰らえばあっという間に溺死、崎森の針は毒を仕込めば突然死を偽装できる。須賀の瞬間移動は暗殺向き、東條の具現能力で凶器を作りだせば証拠隠滅もたやすい。一歩道を間違えれば完全犯罪が可能な奴がごまんといるんだ、この組織は。……君の場合は銃刀法違反で捕まるだけだろうがな」

「井沢さんもでしょ」松川の呆れた物言いを、井沢は鼻を鳴らして一蹴する。

「私なら通報される前に姿を見た奴全員を仕留められる」

「なにその自慢……」

「いいか神崎、常に相手は自分の命をおびやかす存在だと念頭に置け。誰が相手でも絶対に気を抜くな。君に今死なれると困るんだよ。無限に湧いてくる異能犯罪者の根源たる存在が君に興味を持っている以上、少しでも長く引き付けてもらわねば」


 井沢はそう言い、こちらに向けて人差し指を立てた。

「君に課せられていることはそう多くない。一つ、死ぬな。二つ、自身の能力を底上げしろ。三つ、志賀に人格を明け渡すな。四つ、志賀の前世について思い出せ。五つ、父親の失踪の真実を探れ」順に五本の指が開かれる。「アンノウンを倒せとは言わん。小学校に入学したばかりの子どもに連結精算表の作成を命じるに等しい」 

 連結精算表とは何ですか、と口から出かかるも、手ひどい返事しか期待できないと瞬時に察知して神妙に頷いた。松川が肩をすくめて口を開く。

「周りがフォローするから安心しろって言いたいんでしょ。まどろっこしい言い方しますね」

「違う、気を抜くなと言っている。こんな甘っちょろい青二才のポンコツ、処遇が確定する前に殉職しかねないだろう。ほかに質問は」

「……質問、ではないんですが」


 質問はあるかと聞いたんだ話を聞いていなかったのか。耳が聞こえづらいようなら聴力検査を受けることを推奨する。……そんな言葉が飛んでくるのではと危惧したが、井沢はじろりと神崎をねめ上げただけだった。


「なんだ」

「……差し出がましいことを承知で言います。副隊長の能力を見せてもらえないでしょうか。同じ武器と聞いているので、自分に何が足りないのかを知りたいんです。時間があれば、模擬練をしていただけませんか」

「……」


 濃茶の瞳が試すようにこちらを射すくめる。

 なんで私が君みたいな甘ったれ世間知らずのためにひと肌脱がねばならないんだ寝言は寝て言え。……幻聴が耳の奥で鳴り響く。言うんじゃなかった、と舌の根が乾かぬうちに後悔の波が心にさざめきを立てる。

 無言のが数秒続いた。神崎にとっては途轍もなく長い時間だった。

 ふいに井沢が目を反らし、松川に顔を向ける。


「松川、私との模擬練成績は?」

「は? なんです、いきなり」

「私の記憶が正しければ通算627戦しているが」

「なんでそんな細かく覚えてんですか、気持ち悪い」

「やかましい。627戦して君の戦績は」


 はあ、と大きなため息をつき、松川はしぶしぶ答えた。

「0勝627敗ですけど。それが何か」

 答えを聞き、今度は身体ごとこちらを向いた井沢が、ことさらゆっくりと告げる。

「もう一度聞く。何だって?」

「えっと……」気圧され、たじろぐ。井沢は舌鋒をゆるめない。

「私は君がまったく歯の立たなかった河野にも一度も負けたことがない。須賀や松川、矢代に笹岡もそうだ。崎森相手でも片膝をついた記憶さえない。君はどうだ? 私相手にどれだけ持ちこたえられる?」

「……頑張って食らいつきます」

「頑張ってどうにかなる問題だったらとっくに河野に二撃三撃与えているだろう。自分の能力を客観視しろ。君の物言いは防具をまとった全日本剣道選手権の上位入賞者にそこらで拾った木の棒を持って『勝負しろ』と言っているようなものだ。まずは同じ土俵に上がってこい。そのクソ真面目な性格のことだ、努力を重ねる術くらいは心身に染みついているだろう。なまくらの刀を振るう前に素振りをして刀を研いでこい」

「はい……」

「素直に『この状況で自分と対戦すれば実力差に打ちひしがれたり真面目な性格が裏目に出て変にプレッシャーを感じたりしそうだからやめておけ、もうちょっと力をつけてからなら戦ってやってもいい』って言えばいいのに」

「うるっさいバーカ!」


 絹川と吉岡の背がかすかに震えているのがなんとなくわかったが、視線をやろうものなら眼前の彼から何を言われるか分かったものではない。神妙な顔を保つことに神経を集中する。


「とはいえ、無下に却下するのも部下想いの私の良心が痛む。条件を出してやる」

「条件?」

「班長6名、誰でもいい」井沢は試すような表情を浮かべた。「模擬でも実地でも構わん。彼らの手助け、ないしフォローができれば手合わせしてやろう」

「フォローとは、あの、具体的に」

「なんでもいい。救助中に上から落ちてきた瓦礫を斬る、背後を取った敵を倒す、射撃対象が動き回るから押さえこむ。要は、役に立ちさえすればいい」

「役に立つ……」


 6人の顔が浮かぶ。崎森、須賀、松川、矢代、笹岡、河野。隙すら見当たらない彼らの役に立つ。途方もなく高いハードルに思えた。

 顔に浮かんだ迷いと不安を逃さず察知した井沢が意地の悪い笑みを浮かべる。


「君が私と対峙するまでに私の腰骨が曲がっていないことを祈るばかりだ、ポンコツ青二才くん」


 にやりと口角を上げるその表情、声。ともにたっぷりと挑発が乗っており、思わず売り言葉に買い言葉が出た。


「……神崎です」

「……なんだって?」

 じろりとこちらを向く目にひるみかける。が、いまさら撤回できはしない。半ば自棄になり、精いっぱいの虚勢を声に乗せる。

「ポンコツ青二才ではなくて、神崎です。、ぜひお含みおきください」

 松川が愉快そうに笑みを浮かべた。井沢は出会い頭同様、こちらを頭からつま先まで値踏みするかのように見て応じる。

「ずいぶんこの短時間で自己評価が上がったじゃないか、見違えるようだ。肥大した評価に釣りあう実力を身に着けることを心から期待するよ」

「ご期待に応えるべく努力します。驚いて開いた口が塞がらなくなった際の治療費はご自身で負担してくださいね」

「言ったな。私は大口を叩くばかりで努力しない奴は嫌いだ。せいぜい君が成長するスピードが私の研鑽けんさんを積むスピードを下回らないことを毎日起き抜けにひざまずいて神に祈るんだな」

「あいにく、特定の宗教には肩入れしない主義でして」

「君が言うとタチの悪いブラックジョークに聞こえるぞ」井沢は立ち上がり、身をひるがえした。「用は済んだ。帰る」

「ありがとうございました」

「もう来ないでいいですからねー」

「頼まれても来るか、このスットコドッコイ」

「シルバによろしく伝えてくださーい」

「なぜ私が部下の伝言ゲームに付き合わないといけないんだ、自分で言え」


 階段を上がりきるまで、井沢は座ったままの松川とひとしきり口喧嘩に似たやり取りをし、扉が開く寸前になって「組織のトップ2が帰るのに見送りもないのか、いったいどうなってる」と不満の声を漏らし、肩で風を切るようにしてさっさと扉の向こうへ行ってしまった。


「カンカン、言うねえ」

 松川が肘でつついてくる。自分がいかに無礼な態度を取ったのかがまざまざと思い出され顔を覆う。

「口から勝手に出てきてしまって……上官相手に……」

「その気持ちは分かるよ。ま、大見得切った以上は頑張ろうね。せっかくされたことだし」

「お気に入り登録?」

「あの人、自分に言い返してくる相手には特にだから」


 それは果たして良いことなのでしょうか。目をつけられたということですよね。俺、すでに崎森さんにも目をつけられているらしいんですが。


 目をしばたたかせていると、意を汲んだ彼女は「この世の終わりみたいな顔してるねえ」とけらけら笑った。

 次に彼と会ったとき、どんな言葉をかけられるだろう。複雑な心境でモニターに目を移す。笹岡班が手際よく異能犯罪者を確保していた。笹岡は遠方から隊員たちが動く姿を見ている。

 伊東隊員が「あ、静かになったけど副隊長帰りました?」と呑気な声を上げた。






 *****






「お先に」

「お疲れさまでした」


 医師が退勤するのを見届ける。週に2回、午後のみの出勤。他のクリニックと掛けもちしている。どこに勤めているのかは誰も知らない。

 初老に差しかかった年回りの彼は、控えめに笑むと目じりに皺が寄り、優しげに映る。あまり個人的な話をする人ではない。相手が患者であろうとスタッフであろうともっぱら聞き役で、自らの話をすることはほとんどない。

 実直で穏やかに笑うが、ぎこちなさが漂う。しっかりと患者の目を見ることもあれば、ろくに目を合わせず診察を終える患者もいる。それが、時にひどく冷淡に見える。にも関わらず、患者からの信頼は厚い。今日の男性だって、次の診察予約を彼の勤務する曜日に入れていった。

 壁掛け時計を見、自分もそろそろ上がる時間だと気づく。恋人と買い物に行く約束をしていた。遅れるわけにはいかない。手早く帰り支度を済ませ、同僚に声をかけて退勤する。


 地下駐車場に出ると、医師が乗った車が目の前を通りすぎていった。セダンタイプの、高級車の部類に入るメーカーの白い車。綺麗に磨かれたボディに駐車場の照明が反射する。ヘッドライトが一瞬全身を照らし、目をつむる。小さく会釈をすると、彼は微笑んで会釈を返し、車は地上へと出ていった。

 自分が勤務しはじめたとき、すでに彼はこのクリニックに勤めていた。いつから勤務しているのかは知らない。彼がカウンセリングで持ちだす遡臓に関する知識の豊富さには驚かされる。ひけらかすことなく淡々と述べ、分かりやすく説明する姿は医者というより学者に見える。


 前世の記憶が原因である患者専門のメンタルクリニック。その需要は年々高まっている。事故、殺人、天災、家族とのトラブル。些末さまつに見える記憶のかけらが、今の生き方に強く影響する人も少なくはない。

 家族にも言えない秘密を抱える人がいる。誰にも打ち明けられない過去の自分を、そっと医師に告げていく。その気配を感じると、看護師たちは診察室を出て行く。

 湯治の話をしていたポロシャツにチノパンの彼は、どんなトラブルを抱えているんだろう。簡易な症状はカルテに記されるが、その原因となる記憶の詳細は、医師しか見ることができないデータベースで管理されている。


 前世に偏見を持っているつもりはない。自分がぼんやりとしか記憶を持っていないから、詳細に思い出した人の苦労は察することしかできない。

 遡臓検査は就職に影響する。前世が犯罪者だと、公務員試験で落とされるという。もっとも、前世を理由にした差別は許されない。別の理由で落とされたことになるらしいけれど。

 難しい世界だと思う。自分ではどうにもならないことで、自分の生き方が制限されかねない。クリニックに来ている患者たちは、どうにもならないことによる抑圧で心が弱ってしまっている。

 自車のロックを解除し、車に乗りこんだ。昼間にため込まれた熱気がむわりと身体につきまとい、顔をしかめる。すぐにエンジンをかけて、ごうごうと音を立てて流れてくる冷風が顔に当たるように調節する。





 *****





 あ、欲しいやつだ。


 男はゆっくりとブレーキを踏んで減速しながら、隣の車線の白い車に目をやった。停止線間際で互いの車は静止する。

 この交差点の赤信号はさほど長くないけれど、一つの信号が赤になると呼応するように先の信号も赤に転じていく。待ち合わせに間に合うと良いが。

 ちらりと右を見た。エンジン音の静かなその車を前々から欲しいと思っていた。ディーラーで試乗して以来すっかりとりこになり、購入資金を貯めている。

 よく手入れされている。薄い闇が色を濃くしていく時間帯でも、車体がピカピカなのは見て取れた。新車同様の輝きに思わず見とれる。

 どんな人が乗っているのだろう。ぱりっとしたスーツを着込んだサラリーマンか、ブラウスに大ぶりなネックレスを合わせたキャリアウーマンか、上品な風合いのシャツを着こなす老爺か。

 運転手に気取けどられぬよう風景を眺めるふりをしながら、男はごく自然に運転席に座る者の顔を見た。


 横顔しか見えなかったが、造形の美しい男だった。仕立ての良さそうなスーツを着ていて、それが様になっている。彫りが深い顔立ちは映画俳優と言われても信じてしまいそうな、なんとも形容しがたい美しさがあった。

 30代と言われても、40代と言われてもしっくりくる。溌剌はつらつとした若さとどっしりとした落ち着きが同居している印象を受けた。


 もしかしたら、芸能人かもしれないな。


 顔を正面に戻す。自分は芸能関係に疎い。恋人と落ち合ったら聞いてみよう。

 頭上の信号が青を灯す。ゆっくりと車を前進させる。白い車は颯爽と速度を上げて進み、次の交差点で右折した。どこに行くのだろうと気になった。テレビ局に向かうのだろうか。いや、方面が違う。

 右折した先はどこに繋がるか、わずかなあいだ男は思案した。

 浅草に続いていたはずだ、と思い至ったところで、また赤信号に捕まった。



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