#61 救済
午後8時を過ぎた街は、街灯があっても安心できない。
駅の反対側は新興住宅地で栄えているが、こちら側は昔からこの土地に馴染みがある人が固まっている。子どもを立派に育てあげ老後を悠々自適に過ごす年代が多く、家々の明かりが消えるのも早い。
彼らのほとんどがバスを交通の命綱にしている。高齢者による自動車事故が多発していることを受け、多くの人が免許を返納したと聞く。車通りもめっきり減った。
街灯から街灯へ、光に呼び寄せられる虫のように早足で家路を急く。学生や子どもが少ないからか、いっこうに街灯が増設されない。住宅地方面には大きな小中一貫校と小規模な複合施設ができたおかげで増設が進んでいるというのに。
同じ市内なのにこの扱いはどうなのか。自分たちが軽んじられているように思え、思わずため息をついた。
処理しきれない感情を足に乗せて歩を進めると、チェック柄のプリーツスカートが足にまとわりつく感触も不快に感じられた。
通りを曲がる。道幅が狭くなり、片側一車線から車一台が通れるほどの道へ。街灯はさらに数を少なくする。シャッターが閉まった個人商店の軒先に設置された自動販売機が煌々と道を照らしている。
早く帰ってご飯を作らないと。
金曜日だしお母さんも疲れて帰ってくるだろうし、お風呂はお湯を張ろう。
誕生日プレゼントにもらった入浴剤を入れてみようか。
夜道を歩く怖さを打ち消そうと、帰宅後のことを考えた。週の終わりとあって、アルバイト先の居酒屋も盛況だった。おかげで残業せざるを得なくなり、こんな時間に帰宅している。
仕事の愚痴を大声で話す客にビールジョッキを届けるのも、呂律の怪しい声で投げられる注文を聞き取るのも、誰が会計するかで大人独特の気の遣いあうのを前に愛想笑いを浮かべて待っているのも慣れた。
初めてのアルバイトだが、うまくやれている。コツコツ貯金を重ねれば大学の学費は自分で賄えるかもしれない。そうすれば母の負担は減るだろう。
そこまで考えるたび、ときどき馬鹿らしくなる。
母と別れる道を自ら選び切り出した父が、取り決め通りに養育費を支払っていればどんなに楽か。考えても詮無いことだと理解していても、つくづく嫌になる。
団地まであと少し。ぽつぽつ点在する街灯が舞台を照らすスポットライトのようだ。大きな通りから離れるにつれて家々も減り、目を凝らさないと足元も見えなくなってくる。
もし、誰かが後ろから尾けていたら。
恐ろしい考えが浮かび、街灯の下で後ろを向いた。ただただ、
考えすぎだ。不審者も、こんな老人だらけの地域を狙って出没はしないだろう。
頭を小さく振り、恐怖を払う。ふたたび歩きはじめる。次の街灯まで、たっぷり20mはある。
ローファーがアスファルトを踏みしめるたび、小石がじゃりじゃり音を立てた。
その車に気づいたのは、数メートル手前だった。闇に紛れるように黒い車が路肩に停まっていた。ハザードランプもテールランプもついておらず、エンジンも止まっている。夜道を構成するパーツかと錯覚するほど溶け込んでいて、不気味だった。心臓が跳ね上がる。
来た道を戻ろうか。
周辺の家に用事があって停まっているだけかも。
でも、近くにあるのは小さな児童公園だけ。
家に用事があるなら、停める場所は他にもあるはず。
タクシー? 車種が違う。
運転席に人がいるかどうか、暗すぎて見えなかった。
全力で逃げれば土地鑑もあるし
通話しているフリをすれば、手を出してこないかもしれない。
激しい鼓動を必死に押しとどめ、スマートフォンを取りだして耳に当てた。
「もしもし? うん、大丈夫だよー。……えー、どうしたの?」
取り繕った高い声で演技をし、足早に車の脇を通り過ぎる。念のため、ナンバーを覚えた。
大丈夫、何も起きない。
気のせいだ。
車の中には誰もいない。
どこかに用事があって、ここに路駐しているだけ―……
そう信じたくて後部座席を横目に見たのがいけなかった。
そこにいた人物と、目が合ってしまった。
身体が止まる。声も止まる。
素早くドアが開く。叫ぼうと息を吸った瞬間に、みぞおちに拳を叩きつけられる。せき込んで身体が前傾し、両肩を掴まれて車内に引きずりこまれた。
即座に車のエンジンがかかる。ハイブリッド車は駆動音が静かだった。
ドアに手をかける。開かない。
チャイルドロック、という単語が浮かんで、がたがた手が震えはじめる。振り向くと、頬に何かが触れた。刺すような痛みと、金属が当たる冷たさ。
「動くと刺す」
荒く息をする男。温い息が首筋にかかる。
ひどく興奮していた。フードを被っている。
見たことのない顔だった。
「騒いだら刺すぞ、本物だからな」
男が、頬に押し当てていたものを眼前にかざした。
車が街灯の下を通過する。差し込んだ光に反射したそれは、黒い柄で、長い刀身はぎざぎざと波打っていて、一突きで人を殺せそうな―……
ヴー、ヴー。
スマートウォッチが振動し、現実に引き戻される。
盤面をタップしてアラームを止め、突っ伏していた上半身を起こす。背もたれに背をあずけ、伸びをした。
今日は待機番だ。当番班と近隣区域に何事もなければ出動しない。事務仕事を片付ける心づもりだったものの、中村のペナルティ訓練の相手に駆りだされて空調の効かない屋内訓練場で汗を流した。シャワーを浴びてからデスクに向かったが、いつの間にやら寝てしまっていた。
大村から研究の手伝いを頼まれていた。時計は約束の時間の10分前を示している。15分ほど寝ていたらしい。
居眠りなど松川や矢代に見つかればからかわれそうだが、幸い他の面々は席を外していた。事務処理の進捗に不安が残るものの、隣の須賀のデスクには手つかずと思える資料がいくつか散乱している。彼がこの調子ならばまだ大丈夫だろう。そう判断してもう一度伸びをした。
班長クラスになると個別の執務室が与えられる。だが第1中隊は犬束の意向で会議室一室を潰し、班長勢の執務室にしている。個別の執務室もあるが、そちらは主に隊員との面談で用いられる。
デスクを一つの島にしたさまは企業のオフィスというよりも学校の職員室に近い。隊員たちは個室のほうを「面接室」と呼び、こちらを「執務室」と呼ぶ。年若い隊員には「職員室」と呼ぶ者もいる。
ほかの中隊では実地と訓練以外で個別執務室から出てこない班長もザラだ。そのほうが仕事は捗るのは確かだ。河野がパソコンに向かっていると、向かいの松川が世間話を振ってきたり、いまだに電子機器に不慣れな須賀が隣から操作の仕方を聞いてきたりする。
反面、雑談を通して情報が入ってきやすい。管区外の情報や隊員のコンディション、訓練状況が自然と耳に入る。
旧時代的といえば旧時代的だが、河野としてはオンラインよりも直接顔を見てやり取りをするほうが性に合っていた。
『おはようございます。コーヒーはいかがですか?』
「出るからいい」
『かしこまりました。行ってらっしゃいませ』
ムニンに声をかけられ、執務室をあとにする。総合研究棟Aに入り、出入りの業者が厳重な警備をひとつずつ丁寧に通っていく脇をすたすた通り過ぎていく。
「室長室」と掲示されているプレートを見、軽くノックをした。
「河野です。入ります」
「どうぞー」
ノブに手をかける。声紋・虹彩・指紋のトリプルチェックが瞬時になされ、施錠が解かれた。
大村は執務机でデスクトップ型のパソコンに向かっていた。手前の応対スペースでは犬束が果物ナイフで桃を剥いている。ジーンズにボーダーのシャツ、サーモンピンクのカーディガンを肩にかけており、脇にはいつも持ち歩いているトートバッグが置かれている。
「今日は千葉のご予定では?」
「もう少ししたら出るわよ。桃、食べる? 好きでしょう」
「……いただきます」
「どうぞ、お座りなさいな」
促されるまま、向かいに腰かけた。
「悪い夢でも見たかい?」大村がパソコンから目を離さず言った。「疲れた声だったけど」
「なんだか顔色も良くないわねえ」
果物ナイフがするすると滑り、綺麗に皮が剥かれていくのを見つつ答える。
「まあ、そんなとこです」
「そっかあ。……あーダメだ、目がしょぼしょぼする」
大村は伸びをし、ごく自然な動作で眼鏡を外して白衣の胸ポケットにしまった。タブレットを手に、河野の脇に座る。
犬束がカットした桃にピックを刺して渡してくる。礼を言って頬張ると、みずみずしい果汁が口いっぱいに広がった。河野好みの硬い桃だ。
「母方親族に父親の勤務先関係者、いずれも関連なしでした」
犬束隊長は大村からタブレットを受け取って画面を見た。タブレットを近づけたり遠ざけたりするさまは老眼に悩む中年女性そのもので、とても東京の東側を守る隊のトップに座する者には見えない。
話の内容が神崎真悟に関することだと理解し、大村に問う。
「素行調査でもしたんですか」
「うーん、惜しい。彼のお母さんの出身地、どこか知ってる?」
「兵庫県明石市」
「ちぇっ」
――カンカンのお母さん、明石出身なんだってー。明石って何が有名かな?
――パッと思い浮かぶのは漁業だね。鯛やタコが獲れる。……こら松川、手ェ止まってるッ。結城が待ってんでしょッ
――いやまァ、俺も急いでるわけじゃないんで。……明石っつったら、明石焼って郷土料理あったんじゃないかねェ
――ああ、明石焼! あったなあ。ハリスンは? 兵庫、行ったことある?
――ないな。あのあたりだと、小平が小豆島の出身だと聞いたが
――平家ってそっち方面なんだ? あれ、小豆島って兵庫だっけ?
――小豆島は香川県、兵庫県なのは淡路島です
――ふうん。ジョーは物知りだねえ~
――なに言ってんのバカな子だねッ、それくらい一般常識ッ。
先日、執務室で飛び交っていた会話がよみがえる。
河野はそもそも兵庫県に前世を通し一度も足を踏み入れたことはなく、明石市に関しては東経135度日本標準時子午線が通っていることくらいしか知らなかった。
「遡臓検査の結果を引っ張りだしてきたんですか」
「正解。親族について調べられる範囲で」
「あとは、私から兵庫中隊に頼んで色々とねえ」
「浄前教との関わりはなかった?」
「ないね。前世でも今世でも、誰も関わりない。父親の元同僚も調べたがシロ。神崎くんは本当に、学校で習う知識でしか浄前教を知らなかった」
親族の誰かの入れ知恵、もしくは教団関係者が身内に潜んでいる線は消えた。
「黎明くんの話を聞いて何か思い出すといいんだけどねえ」犬束は桃を頬張りながら続ける。「黎明くん、優しく言ってくれてるかしら」
「どうでしょうね。……河野くんは? 本部にいたころ、井沢さんと関わりあった?」
「特には」
かつての上司も同じ副隊長職に就いているが、井沢とは正反対におっとりとした人だった。
井沢とは言葉を交わしたこともあれば、訓練をつけてもらったこともある。ただ、口数の少ない河野はあまり目をつけられることがなかった。
口撃が得意な彼は、真っ向から意見を言ってくる人間を好む傾向がある。人と言い争いをするのが好きなのではないかと穿った見方をしたくなるほどには。
「真悟くんは人の話をちゃんと聞く子だから、不安だわあ」
「いやあ、お母さんが弁護士さんですよ? 意外と言うときは言うんじゃないですか」
「どうかしらねえ」
この世間話はいつまで続くのか、大村は自分を呼び出した理由を覚えているのかに思いを巡らせ、河野はもう一切れ桃をつまむ。
*****
「へっくしッ」
「上官が話をしているときにデカい音を立ててくしゃみをする者がどこにいる、こらえろ飲みこめ飛沫を飛ばすんじゃない。私が風邪にでもなってみろ、完治するまでの傷病手当を君の給与口座から引き落とすぞ」
「すいません……」
「井沢さんは風邪ひかないでしょ」
「なんだ松川、私がバカだとでも言いたいのか」
「いいえ、自己管理を徹底されている素晴らしい方だと
「称賛しているなら相応の顔をしろ、チベットスナギツネのような目でこっちを見るな」
背後でなされるやり取りに、絹川は本日何度目かの視線を隣の吉岡に送る。彼女は目を細め、「やってますなあ」と言わんばかりに苦笑とも微笑とも言えない表情を見せた。
『吉岡さーん、さっきからなんかブツブツ聞こえてきますけど、誰かいます?』
分割されたモニター越しに、カメラ目線で伊東翔太2級隊員が苦情を申したてた。吉岡は「ごめんごめん」ととりなす。
「今ね、井沢副隊長と松川班長と神崎くんがお話し中」
『ああ、なるほど。坊さんでも呼んで読経してもらってんのかと思いましたよ』
「ふふふ」
マイク越しだと彼の長台詞はお経に聞こえるのか。絹川は口を押さえて小さく笑ったつもりだったが、わざとらしく井沢が咳ばらいをした。肩をすくめて居ずまいを正す。
「……本題に戻すぞ。ことが起こったのは2045年」
「割と最近ですね。うちの
「私の没年は2048年。15年ちょっとで生まれ変わったのは前世の行いが良かったからに違いない。半世紀かかった君と比べて」
「やだ、私の前世にお詳しいですね。もしかしてファンの方? 握手してあげましょうか」
「断る」
言葉のドッジボールを交わす二人を横目に、吉岡が口を挟んだ。
「河野くんと崎森くんもそれくらいの時代じゃなかった?」
「ああ、そうかも。あの二人、生きていた期間もほぼ同じだもんね」
「似ているのは愛想の悪さだけで十分なもんだがな。崎森の奴も昇進したのなら元上司である私に一言報告と感謝を述べに来るのが普通だろうに未だに何もないんだがどうなってる。河野に至っては第1に異動してからろくに顔も見てないぞ」
「関わりたくないんでしょうね。部下からの信頼がオブラートよりも薄いようで何より」
「うるさいバーカバーカ! 私の信頼が足りないのでなくあいつらの上司を
「敬うに値する人になってから言ってください」
騒々しいバックミュージックを聞き流し、級付けののちに河野と中村が交わしていた会話を思いだして絹川も口を開く。
「河野さん、かなり大騒ぎになった出来事なのにあんまり覚えてないって言っていました」
「生まれ変わっても当時のこと全部思い出せるわけじゃないし、前世の記憶を思い出したくなくて無意識に封じこめる子もいるしねえ」
オフィスチェアに座り、くるくる回りながら松川が言えば井沢が続けた。
「崎森はともかく、河野は当時未成年だ。この手の社会問題に疎いのも無理はない。……まあいい、続ける。教団が設立した当初こそ胡散臭さはあったが世間に受け入れられるのは早かった。言っていることはスピリチュアル寄りだが、慈善活動を積極的に行っていたのもあり世間的なイメージは良好。当時の著名人が信仰を公言しても叩かれない程度には」
モニターに映されている1枚の写真を指差す。
被災地と思しき場所で物資支給をしている風景。赤ん坊を抱いた若い女性に水の入ったペットボトルと衛生用品を手渡しているのは中年の男女。いずれも左手の中指に白い指輪をはめている。
「信者の目印は左手中指の白い指輪。これはそれなりに教団から信頼を得た者でないと貰えない。入信して間もない者は代わりに左手首に白い布を巻いていた。教祖とされるのは志賀新助とされている」
「『されている』?」
神崎のつぶやきに、井沢は「戸籍が
「志賀新助の出生は2020年。事件当時は25歳の若者だ。奴が就学するころにクレイウイルスのパンデミックが起こり世間は大混乱していた。そのせいか知らんが学校に通った形跡はなく、家族や教団関係者としか関わりがなかった。信者いわく理知的で慈悲深い聡明な青年だったらしいが、世間知らずの青年など大人が束になれば騙すことは容易い」
「いいように教祖に祭り上げられていた……?」
「警察内部ではそう考える者が多数だった。私も賛同した。その意見は今も変わらん。……もっぱら宣伝活動に
「それだけで熱心に信者が集まりますかねえ」
吉岡の疑問に、「そこにカラクリがある」と井沢は呟いた。
「浄前教は信者が一般市民を教団本部に連れてくることで広がりを見せた。逆に言えば、信者の推薦がないと入れなかった。日常生活で悩んでいる知人や友人を、気分転換にと本部に誘う。そこで不思議な体験をする。落ちこんでいた気持ちが自然と上を向くわけだ。ポジティブになり、積極的に行動を起こせるようになる。教団に足を運ぶたびにその体験をし、自然と浄前教そのものに特別な力があると信じる。けれども、不思議な体験だと感じた気分の高揚も行動も奇跡などではない。知らないうちに違法薬物を嗅がされてハイになっていただけだ」
「だから刑事課じゃなくて薬物銃器対策課が動いたんですね」
松川の言葉に井沢は頷き、憎々しげに言った。
「教団を隠れ
「足抜けしようとすれば身の回りに危害が及ぶと匂わされていた?」
神崎の言葉に井沢は
「信者同士で互いを監視させていた痕跡もあった。裏切り者を出さないように教団の中で生活をさせ、万全のセキュリティの中で逃げることもかなわず忠誠を誓わせる。戒律を破った者は突き出され、教祖と話し合いの場が持たれた」
モニターに映し出されている写真。右端のそれを、井沢は顎でしゃくった。
白い部屋。白い壁、白い床。窓はない。白に同化して分かりづらいが、椅子が一脚おいてあるのがかろうじて分かった。
「あれが処刑部屋だ。先に志賀が手ぶらでここに入る。裏切り者が手錠をかけられて一人で入れられる。数分後、志賀が出てくる。後片付けを命じられた者が中に入ると、裏切り者は椅子に座っている。ただ、首から上は床に落ちていたそうだ」
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