#56 激動


 全身が熱い。頭が正常に働かない。身体じゅうを倦怠感が襲い、呼吸は激しく大きくなる。苦痛に表情が歪むのが自分でも分かった。

 河野がいったん距離を取る。踏み込めば間合いの範囲内だが、足は鉛をくくりつけられたがごとく言うことを聞かない。


「はーっ……はーっ……」


 叩きつける雨音すら遠くに聞こえる中、荒れた呼吸音が廊下に響いた。相対する河野の表情は変わらない。こうなるのは当たり前といった顔でこちらを見据えている。


「どういう能力か図ろうとしてる?」


 平坦なはずの声音に脳が揺さぶられる。ぐわんぐわんと音が響き、構えが崩れそうになるのを気力で耐える。

 何が起こっている。何をされた。回らない頭を振り絞り考える。受けた傷はいずれも浅く、出血も多くはない。


「毒……?」


 浮かんだ答えは口からかすれ声となって出た。四肢が重く、動かせはするが大きな労力を要する。神経毒がナイフに塗られているか、傷つけることで相手の身体の自由を奪う能力か。

 ところが、河野は小さく首を振った。


「そんな大層なものじゃない」


 そして、その左手からサバイバルナイフが消える。右手に持ったアイスピックを胸元に掲げ、先端を神崎に向けた。


「両方味わえば分かるかもね」


 熱がこもる身体を、悪寒が駆け抜けた。


 ――殺される。


 余力を振り絞って刀を振り、風を起こす。河野はするりと空き教室に身を隠した。廊下の一角にあった消火器が真っ二つになり、白い粉が舞った。

 逃げ場を探す。上階か、別棟か、体育館か。冷静さを失いかけている頭は上階を選択した。浮上し、階段を上ることなく3階まで到達する。着地でよろけながら廊下を駆ける。隠れられる場所、刀が使える場所。はじめに自分が通った道を引き返し音楽室の前まで来てから、最善策は体育館だったと思い至り歯噛みした。

 鈍い頭痛が後頭部を襲いはじめる。ガンガンと叩きつけられるような痛みは判断力にいっそうもやをかける。

 外に出ることも思索したが、雨は勢いを増すばかりだ。この状態で飛び出たところで状況が悪化するだけとかろうじて踏みとどまる。


 カツ、カツ。

 足音が階下から聞こえる。逃げねばならないと理解しているのに身体がついていかない。熱が身体を支配している。立っていられなくなり、鞘を支えにしゃがみこむ。呼吸は浅く、犬のように小刻みになる。脈が速い。何が起きている。そっと額に触れると、熱さに手がびくついた。


 毒ではない。そんな大層なものではない。

 では、何をされたんだ。

 急激な発熱、呼吸は早まり全身に倦怠感。


 ぐらぐらと視界が揺れる。シュウ、と射出音が響き、目の前に黒いブーツが見えた。視線を上げれば、温度の無い瞳とかち合う。


「くそ……ッ」


 悪あがきにホルダーからナイフを引き抜いて投げる。てんで見当違いの方向に飛んだそれを一瞥いちべつしてから、河野はアイスピックを振りかぶった。






 *****






「3、くらいっすかねえ」

『15回は喰らったからねェ。初見なら何があったか分からないだろうさ』


 中村の声に結城が応じた。各々は神崎と河野の位置取りを見て移動をしており、中村は音楽室のベランダ付近に身を潜めていた。気配で河野に居場所は知れているだろうが、神崎には気付かれはしまい。

 片手の端末では河野がアイスピックを振り下ろし、神崎が鞘で受けた場面が映っている。力で押し負け、アイスピックの切っ先は首元を掠った。制御の効かない身体を奮起して立ち上がって斬りかかる神崎の根性には感服するが、気力と体力だけで動いているせいで動きがいっそう丸わかりになっている。

 河野は横一線に振られた太刀筋を見切ると手首を掴んで捻りあげ、アイスピックを振るう。切れ味鋭いそれは制服を切り裂き、肌をも微かに裂いた。


『さん、しー、ごォ、ろく』


 河野の攻撃が届くたび、結城がカウントを口にする。一方的なリンチに見えなくもないが、これでも赤子同然の相手にだいぶ手加減を加えている。

 もうそろそろかというところで神崎は煙幕を使った。膨らんだ風船から空気が漏れていくような音がして視界は白に染まる。

 素早く画面を切り替え、サーモグラフィで双方の位置を確認する。


 ――こういうことがあるんだから、玉池カズの方が適任だろうに。


 今ごろモニター室でこの様子を眺めている年若い後輩と、自らに命を下した上司の顔を交互に思い浮かべた。不満を口に出せば上司に雑事を言いつけられるのは明白なので、心のうちにしまっておく。

 十中八九後ろに下がるだろう――中村の目論見通り、神崎は後退を選んだ。窓から逃げる選択肢は浮かばなかったらしい。中村なら窓から逃げるか、階段付近にあった屋上行きの梯子を駆けあがる。あの様子では、梯子ですら視界に入っていないのではないか。

 彼の中に潜む「もう一人の誰か」はどんな選択を選ぶだろう? そっと神崎の元へ移動し考えを巡らせた。


 神崎真悟について、上層部は原発性多重人格を疑っていると中村は踏んでいた。前世医者の身から言わせれば、あれは多重人格ではない。何者かにピリオドを掛けられている状態だ。自分がルーキーだと思い込まされていて、本当は前世があるのに記憶ごと封じこまれている。失踪した彼の父親が息子を守るためにかけたと考えれば矛盾はなく、アンノウンが絡んでいることはほぼ間違いない。

 ピリオドをかけられて以降の神崎真悟は「父親の作り出した性格」であり、国見を追い詰めた殺しを厭わない戦闘本能むき出しのあれが彼本来の性格といえる。


 父親のピリオドは長年彼を強固に守っていた。しかし1年前、熊岡と対面して感じた死の恐怖から一時的に弱まり、本来の性格が垣間見えピリオドを表出、白い刀を具現化した。

 だが、すんでのところで父親のピリオドが歯止めをかけ本来の性格を押しとどめたおかげで、あたかも「父親の作り出した性格」のほうが白い刀を具現化したかのように映った……というのが中村の見解だ。

 身の危険を感じないと刀が出てこないのは、危険を感じることで本来の性格が父親のピリオドを凌駕しうるから。第六感のピリオドは、作り出された性格のほうがなんらかのきっかけでピリオドを出しているのではないか。


「いずれにしても、大変な境遇ですこと」


 誰ともなくひとりごちる。異能犯罪者を生みだす謎の男に敵意を向けられ、消えた父親が関係している可能性がある。おまけに性格でさえも、作り上げられた偽物かもしれない。なんとも複雑な身の上だ。

 死の危険にさらされて出てくる「本来の神崎真悟」が取る行動とその前世によっては、彼自身が危険因子とみなされることも考えうる。人を殺すことに躊躇いがなく、かつ今の神崎が本来の性格をぎょするすべを持ちあわせていなければ、異能犯罪者になる可能性ありとされ、遡臓の破壊も視野に入るだろう。

 汗だくになって校舎を逃げ惑う彼は、自分の置かれている状況をどれだけ理解できているのか。煙幕をすり抜けて一気に距離を詰めくる河野の蹴りを腕で受けた新人を、そっと物陰からうかがった。その目はいまだ、正気を保っている。


『しち、はち、きゅう……とお』


 結城が負傷数をカウントし続ける。サバイバルナイフとアイスピックで負傷した場所が同数になったあたりで神崎が動きを見せた。





 *****







 「身体」、「急激」、「動作」、「平常」。

 神崎の背後に飛び交う単語をレンズ越しに見つめる。相変わらず河野のアイスピックによる連撃は止まないが、ついさっきまでとは見違えるほど神崎の動きは良くなっていた。何より本人が思い通りに動く身体に驚いているようで、飛び交う単語はいずれも疑問の色……藍色をまとっている。


『これでゼロだな』


 スピーカーがモニター室の中倉のつぶやきを拾う。画面越しであっても攻撃数を正確に見切っているのは、さすが近接格闘の指導官だ。


『そうねえ。うまく対応できるかしらねえ』


 間延びした声で犬束が続ける。ドラマでも見ているのではと思うほど緊張感のない声で、こちらが拍子抜けしてしまいそうになる。

 踊り場で二人が対峙する。先ほどまで見られた足のふらつきは嘘のように、神崎は強く一歩を踏み込んで河野に斬りかかった。河野は手元に具現したサバイバルナイフで刃を受け、アイスピックを腿めがけて投擲した。狙い通りに右腿に当たり、神崎は苦悶に顔をゆがめる。

 刺さったアイスピックを抜こうと手が動く。だが神崎の手が触れるよりも先にアイスピックは消え、瞬時に河野の手中に現れた。

 

「まるで手品ですねェ」

 

 宗像が感心した声をこぼす。大村も、河野の鮮やかな手つきに見とれていた。

 大村がピリオドを表出して20年ほどになるが、自在に眼鏡を出し入れできるまで相当な時間を要した。いっぽう、河野は訓練期間中に自在に二つの武器を具現させに至った。センスと適性によるものといえ、彼の習熟スピードには目をみはる。


 サバイバルナイフで刀の威力を消し、グラインで距離を詰めてはアイスピックで襲う。神崎は階段を飛び降り、2階に着地した。1階か、別棟か、体育館か。考えるいとまを与えないとばかりに河野が後ろから斬りかかる。


 つばぜり合いになり、神崎は自らの足を河野にひっかけた。数十分前に国見にやられた投げ技とまったく同じで、あいにく河野には見切られており、身体を倒すには至らなかった。

 けれども神崎は諦めず、なんとか河野のバランスを崩そうと力を込める。

 河野の背後に「攻撃」「策謀」「意図」「距離」の字が躍る。足払いが目的ではない、何か別の意図がある……そう思っているらしかった。

 距離を取ろうと河野は後退する。神崎は隙を見逃さず、それよりも速いスピードで前進し、わずかに河野の背後を取った。


「装置」「破壊」「目的」。明るいオレンジが河野の背後で躍り、神崎の背後には「破壊」「一部」「動作」「制限」の文字が浮かぶ。間隙かんげきをついた刀の刺突が河野のグラインの背部射出口をとらえる。金属のぶつかる鈍い音。河野はお返しとばかりに、がら空きの背中にアイスピックで数撃加えた。

 文字の色と明度から察するに、河野は意表を突かれたわけではない。グラインを破壊して機動力を潰す戦法を評価しているように取れた。彼の腕なら刺突を躱すのも容易にもかかわらず、わざと食らっている。

 神崎はきびすを返し、全速力で体育館につながる通路を渡っていった。河野はその場にとどまって破損の具合を確認した。片側の射出口は研ぎ澄まされた一撃で破損し、浮上は難しそうだ。


『今の、ぜったい避けられましたよね』

 玉池の声。そうだねえ、と答えたのは松川だ。

『でも、ここで食らっておいたほうがダメージになるじゃん』

『ダメージ?』

『カンカンは、ジョー相手に「一撃食らわせた!」って勇んでいるわけ。それでも大して力量に差が出なかったらどう思うだろうね』


 神崎からすれば起死回生の一撃。浮上できない状態にさせたうえで、浮上して戦える体育館に逃げ込んだ。圧倒的に有利な状況を作り出した。その状況をものともせず河野が向かってきたら彼はどう思うだろうか。数多の傷を負ってやっと報いた一撃が、のれんに腕押しだとしたら。


「じわじわ追い詰めるタイプなんですね。もしかして、ピリオドもそういう類の?」


 人懐こい笑みをこちらに向けて宗像が問う。大型犬がしっぽを振って散歩をねだるような愛嬌の良さがにじんでいた。


「そうですね、今ごろ神崎くんは震えが止まらないでしょう」


 神崎の目線カメラに切り替える。

 2階から体育館に侵入した彼は、フロアにつながる階段を下りていた。壁にもたれ、足取りがおぼつかない。刀は鞘にしまわれ、右手で必死に身体をさすっている。かすかに目線がぶれているのは、全身が震えているからに他ならない。


「河野隊員が怖くて震えているわけじゃなさそうですねェ。なんて出てます?」

「『寒気』『悪寒』『急激』『体温』。彼もそろそろ気づいたころでしょう」

「あァなるほど、そういう。1回につき、どれくらいですか?」

 察しの良い宗像は河野のピリオドを理解したらしかった。河野のデータをタブレットで表示する。「0.2です」


 彼が具現するサバイバルナイフとアイスピックは、相手の体温を操作する。

 肉体に傷をつけることで発動し、サバイバルナイフは体温を上昇させ、アイスピックは下降させる。その幅は一撃につき約0.2度。5回受ければ1度、10回受ければ2度、15回受ければ3度。双方入り混じれば攻撃を受けるほどに体温は乱高下し、動きはみるみるうちに落ちていく。


 最初にサバイバルナイフで10か所以上食らい、神崎の体温は2度から3度急激に上昇を見せた。メディカルデータいわく、彼の平熱は36.5度。動き回っているのを加味して現在の体温が37度と仮定すると、40度近い熱にうかされながら河野と対峙していたことになる。

 その後アイスピックで同数の攻撃を受け、体温はもとに戻り動作にキレを取り戻したものの、集中攻撃でさらに負傷。今は35度、もしくはそれ以下の体温になっているはずだ。

 深部体温が35度を下回れば低体温症を引き起こす。筋肉はけいれんを起こし、意識レベルが低下する。呂律は回らなくなり動き回ることは難しい。今の彼は、雪山の遭難者と同じ身体状況にさらされている。これ以上アイスピックの攻撃を食らえば生命維持に支障が出かねない。


『中村、サーモ』

『ギリギリですかねえ。34.9度。これ以上は危険だと思いますよ』


 崎森の短い問いに中村が返す。34度台といえば、海難事故や山岳事故で救助された者が生死をさまようラインと言われる。

 乱高下する体温は、柄で触れるか河野がピリオドを解けば元に戻る。裏を返せば、神崎がこのまま苦しみ続けるかどうかは河野の意思しだいだ。放置する時間が長ければ、いずれ心停止することもありうる。

 画面の向こうの神崎は何とかフロアに辿りつき、ずるずると床に倒れこんだ。小刻みに震える身体を必死に動かそうと試みているが、筋肉がうまく動かないようだ。「攻撃」「体温」「上昇」「低下」「低体温」「高熱」といった単語が、恐怖を示す黒色で床に躍る。


『もう終わり?』


 上階から声が降ってきた。

 たん、たん。一定のリズムで階段を下りてくる音はやがて止まる。こわごわと神崎は首を回して踊り場をうかがう。


『どんな能力か分かったところで、どう対処するつもりだった?』


 器用にアイスピックを手で回し、河野が冷めた目で見下ろしていた。徹底して感情を排した瞳に射られ、神崎は小さく息を飲む。

 「死」「不可避」「終了」「絶望」。漆黒の単語が浮かぶ。観念したように目を閉じ、そして、ことさらゆっくりとその目が開く。


「出たね」


 兵藤が静かに告げる。画面の向こうで、河野の瞳がかすかに温度を孕んだ。



 

 



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